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沈黙

 キリコは歩き続けている。あてのないように、あるいはすでにゆくべき場所を知っていて、迷いなどないように、視線は常に前方に据えられ、時折空を振り仰ぐのは、足下を陰らす鳥や雲の姿をそこへ追うためだった。
 まれにキリコを見る人がそう感じるように、キリコは自分のゆくべき方向をすでに知っていた。それは、キリコ自身が知っていると言うわけではなく、キリコは何かに背中を押され、爪先を引かれている、それに逆らわないと言うだけの話だった。
 自分の前に何があるのか、キリコは知らなかった。ただそちらへ進むのだと、勝手に動く体に従って、今は一体どこにいるのか、あれからあそこから、一体どれほど遠ざかったのか、何もかもすべて、キリコの埒の外だ。
 キリコは歩き続けている。無言の行のように、沈黙の行のように、連れのないひとり旅を、ひとり言さえ呟かずに、黙々と歩き続けている。
 言葉を発すれば、それに返事がないことを思い知る。自分の右側か左側、あるいは前か後ろに、誰もいないことを思い知ってしまう。
 ひとりきりだ。
 キリコはふと足を止め、空を見上げた。青から紫に変わり、足下にはもう影はなく、頬をかすめる風には、夜気特有の湿りがすでに含まれ始めている。
 そろそろ足を止めて火を起こさなくてはならない。できれば岩陰か何か、そんなものを見つけて、今夜のねぐらを決める時間だった。


 チエコブの枝はよく燃える。透明な青い炎を上げて、缶詰の中身を温め、簡易にコーヒーを淹れ、厄介な獣たちを遠ざけてもくれる。
 次に人家のあるところへ着いたら、水を分けてもらわなければならない。恐らく餓死の心配すらないとわかっていても、それを信じたくない気持ちが試すように胸に湧いて、けれど餓死寸前の苦しさをできるなら避けたい気持ちが同時に在るのは、仕方のないことだ。
 死なないだけだ。傷つかないわけではない。あらゆる苦痛はきちんと存在し、心の痛みと共に、四六時中キリコを責め苛む。
 そんなものをすべて、言葉にして吐き出せれば楽だろうと、こんな夜にはひとり考える。けれどそれも、聞いてくれる誰かがいればの話だ。
 キリコはひとりだった。透明な青い炎を見つめて、ひとりきりだった。
 言葉は、使わなければすぐに錆びつく。どこかの町へたどりつき、自分で掛ける言葉はまず頭の中で一度練習できるけれど、掛けられる言葉に反応するのに、言葉がうまく見つからない。向こうが、無愛想で無口で失礼な奴だと思ってくれるなら、キリコはそれをもう訂正する気もない。
 言葉が見つかっても、今度は喉の筋肉がうまく動かない。喘ぐように、空気が通りはしても、言葉を発する動きができず、舌は下顎に張りついたままになる。
 人と言うのは、喋る生き物なのだと、キリコはひとりきりの沈黙を守り始めてから知った。
 言葉を交わして関わり合う。人はそうして、関わり合って生きてゆく。人と関わり合って、そうして人は人になってゆく。
 キリコは今、そこから遠く隔てられていた。
 何の凹凸もなく、手触りもなく、平たく灰色だけの世界。心が浮き立つことはなく、逆に沈むこともない。何もかもが真っ平らに、キリコはそこに張りついた、薄っぺらい黒い影だった。
 影は言葉を発さない。人と光があって初めて存在するはずの影であるキリコには、その人も光もなく、ただ影としてだけ存在する不思議こそが、キリコが普通の人間ではない証だったし、周囲に人も光もないキリコの傍に、好き好んで誰かが寄って来るはずもなかった。
 キリコはひとりだった。信じられないほどひとりぼっちだった。
 言葉も音もなく、他に何の気配もなく、使わない言葉を次第に忘れ始め、発声の仕方すら、今では事前に気構えが必要だ。キリコはますます寡黙になり、その寡黙さが、キリコをいっそう他の人たちから遠ざける。
 まるで、自らに苦行を課す僧のように、キリコはこの沈黙にひとり沈み込み、それに随伴する深い孤独の中へ身を置いていた。
 孤独の波にさわられ、手足を往生際悪くじたばた泳がせることもせず、極限まで肺を空にした後で、自分が死ねないのだと言うことを思い知るだけだ。
 孤独の底で、キリコはひとりぼっちだった。
 火勢の弱まった炎に、チエコブの枝を数本投げ入れ、キリコは星の瞬く空を見上げる。太陽のような強烈さはなく、月のような存在感もなく、星たちはただ静かに小さく輝いて、夜空を埋め尽くす勢いを、ひとつびとつはまるで恥じているように、肩を寄せ合っているように見える。
 その星々の合間のどこかを、ただよっているはずの小さな小さな光を、キリコは凝らした視線の先にとらえようとした。
 キリコの瞳よりももっと、密度の濃い宇宙の闇を、静けさを湛えて漂っているはずの、あのカプセル。フィアナがただひとり眠る、あのカプセルの発する、薄い小さい、わずかな光。
 肉眼にとらえられるはずもないその光をどこかに探して、キリコは夜空に視線を据えていた。
 どの星の間にいるのだろう。どの星の傍にいるのだろう。どの軌道に乗って、どちらへ流れてゆくのだろう。
 キリコは、フィアナのカプセルを追い続けている。見上げた夜空にそれをとらえたところで、何がどうと言うわけでもない。それを、フィアナに"会う"と言い切ってしまえるかどうかも怪しく、それでもキリコは、フィアナのカプセルを視線の先にとらえずにはいられない。
 漂い続けている。誰もあれに触れてはいない。フィアナは今誰のものでもなく、だからやっと、キリコひとりのものだ。
 キリコが、生きたいと願った理由。キリコが、一緒に死にたいと思った、魂の片割れ。キリコの生き甲斐であり、死に甲斐だった、様々な名を持っていた、キリコにとってはフィアナだった、あの女(ひと)。
 おれと一緒に戦って死ぬかと訊いたら、戦い抜いて一緒に生き延びるのだと応えた。キリコはフィアナの生き甲斐であり死に甲斐であり、フィアナはキリコの生き甲斐であり死に甲斐だった。
 ふたりは、ふたりでひとりだった。ふたりはひとりで生まれて生きるべきだったふたりであり、ふたりに引き裂かれて生まれて生きたゆえに、死ぬ時を同じに選ぶことを許されなかったふたりだった。
 誰が、ふたりに何を許し許さなかったのか、そこへ神と言う名を当てはめても虚しいだけだ。キリコはその神と呼ばれた存在を消し去ったけれど、神の消滅は、世界を変えたりはしなかった。フィアナを救いもしなかった。
 あれ以来、キリコは沈黙の中にいる。フィアナが喪われた世界にはもう、色も言葉も必要なかった。存在しないも同然だった。
 花の香りはなく、人の笑い声もなく、虫たちは音を立てず、最低限の生の営みさえ厭わしい。救いのない世界には意味も目的も存在せず、そこでは苦痛すら色褪せる。色褪せた苦痛は意味も意義も失い、それはただ、苦痛のための苦痛に成り果て成り下がる。
 キリコは今、生きてすらいなかった。死んではいない。死ぬことはできない。人が死ねるのは、生きているからだ。人は生きるから死ねるのだ。死ねないキリコは生きてなどいない。生きていないキリコは死ねはしない。
 生きてはいない。死にもしない。どこかの半端な空間をふわふわと漂う影に成り果てて、呼吸だけをしている、人の形をした肉の詰まった皮膚袋だ。
 キリコは、フィアナによって生かされた。フィアナが、キリコを生かした。同時に、キリコがフィアナを生かし、戦争人形だったフィアナを、キリコが人間にした。
 血も涙もない戦争機械がふたつ、人の姿で出会い、育んだのは、痛々しいまでに純粋な、ただの人らしさだった。人になりたい、人に戻りたいと願って、祈って、そう在れたふたりだった。ふたりでいれば、ふたりは人でいることができた。
 それ以外に、何が必要だったと言うのだろう。ただの人で在りたいと、宇宙の誰よりも強く望んだふたりに、なぜそれは与えられなかったのだろう。
 フィアナに対する罰のように、キリコに対する罰のように、ふたりは引き裂かれ、片翼ずつではもう空も飛べず、フィアナは宇宙をさまよい、キリコは地上にこうして縫い止められている。
 キリコはもう、人に戻ることも許されず、人でなしの烙印を押され、ひとりきり言葉を失ったままだ。
 孤独の沈黙の中で、フィアナだけを想い、フィアナだけを望み、フィアナと同じ空気を吸い、フィアナと同じ空を見上げ、フィアナと同じ日々を過ごす、そう願ったのは、身の程知らずだったのだろうか。
 世界の音も言葉も、もうキリコには何の意味も持たない。フィアナが掛ける言葉でなければ、フィアナが発した音でなければ、キリコにはそれは、ただの沈黙でしかない。
 もう、自分の名前さえ忘れそうだ。名前は、誰かに呼ばれて初めて意味を持つものだと、フィアナを喪ってからキリコは知った。
 キリコが呼んだ、フィアナと言うあの名を、フィアナがあれだけ喜んだ理由(わけ)を、我が身に返って来てから知る。キリコが呼んだからこそ、意味を持った名だった。キリコの名も、今はそうだ。フィアナが呼ぶからこそ、意味のある音と言葉になる。キリコを呼ぶ誰もいない。キリコはここに、ひとりぼっちだ。
 神の後継者、神殺しの男、触れ得ざる者、何でも好きに呼べばいい。キリコにとっては、どれも意味のないただの音だ。その音から遠く離れて、キリコは沈黙を守って、星空の下、身を裂かれるほどフィアナを恋しいと思う。
 頭の中に渦巻く、今は音を持たない言葉たち。それが向かうべきフィアナは、ここにはいない。炎だけが青白く、キリコの頬と瞳を照らし、夜の静けさをいっそう濃く凝らしてゆく。
 フィアナ。唇の形だけで呼んだ。覚束なく動く舌が、音を忘れて、喉の終わりの奥の方で、淋しい空気の通り抜ける音が鳴っただけだった。
 空がいつか宇宙へ変わるその高さの、そこで瞬く星たちが、静かにキリコを見下ろしている。炎の中で、チエコブの枝が、燃えて爆ぜた。

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