わたしのあなた
ペールゼンは、軍用コートを脱いでひとり掛けのソファの背に掛け、ミラーのサングラスを外した。まだそれを手に持ったまま、どさりと革張りの椅子の中に身を沈め、深く息を吐く。部下の誰にも見せない、疲れ切った老人の貌(かお)を晒し、両目に指先を当てて、そこを強く押した。リーマンは焦れ切っている。ペールゼンの、キリコへの扱い──異常なほどの温情、と思っているようだ──に目くじらを立て、けれどそれを直に口にするわけには行かず、何かのチャンスがあればキリコを引き裂きたいと思っている。
それができるならな。
やっとサングラスを、ランプを置いた小さなテーブルの上へ置き、すでに部下も下がらせ、ひとりきりの私室──奥には寝心地の良いベッドがあり、ここには傍から手放せない本が置いてある。書き物机は、彼の立場に相応しくなく簡素なものだ──で、ペールゼンは素の貌を晒して、ようやく心をくつろがせていた。
コートのしわには頓着せず、そこへ頭を持たせ掛け、もう眠ってしまうつもりかと、長い間目を閉じていた。
再び目を開けた時、ペールゼンは椅子から立ち上がり──やや緩慢な、けれど軍人らしい、背筋の伸びた仕草で──、あまり奥行きのない書き物机まで歩いてゆくと、左側のいちばん上の引き出しを開け、何か小さな機械を取り出した。
ほとんど凹凸のない小さなボタンたちを、やや遠ざけて透かすように見ながら、2、3何かした後で、他よりもひと回り大きなボタンをそっと押す。ペールゼンの手の中で、その機械は静かに音楽を奏で始めた。
雑音の混ざる、音の円みで、今ではもう誰もほんものは見たことがない、板状の物体に溝を掘りつけてデータを保存する種類の記憶媒体が、元々の音源と知れる。澄んだ音とは言い難いけれど、やわらかなぬくもりを含んだその音に、ペールゼンは唇の辺りをゆるめ、壊れ物のようにそっとその再生機械を机の端に置き、自分はまた椅子へ戻った。
ピアノが中心の、弦楽器の融け合う音楽。そこへ乗るのは、伸びやかな女の声だ。記録時の音源のせいで混じる雑音すら、なぜかこの歌にはしっくりと馴染み、明らかに相当古い流行歌か何か、その類いと知れるその歌に、ペールゼンはうっとりと聞き入っている。
アストラギウス語よりも、もっと音の丸い、いかにも女性的で、響きによっては官能的にも聞こえる言葉だった。ペールゼンは、歌詞の意味は知っているけれど、この言語を使えるわけではない。
アストラギウス語に訳すと、どうも収まりが悪く、直に理解しなければ意味のよく分からない歌詞ばかりで、学者にあり勝ちな情熱の込めようで、ペールゼンは若い頃に、音楽のためにこのとても古い言語を自力で学んだ。この言葉で、自分で詩すら綴ったこともある。もっとも、学術論文の方がよほど読みでのある、拙(つたな)いと言うことすらはばかられるような代物ではあったけれど。
恋や愛の歌ばかりだ。恋の始まり、愛の最中(さなか)、そして、ひとつの出逢いの終わり、主題はどれも似たり寄ったりなのに、その言葉の響きのあまりの美しさに、どの歌も、何度も何度も繰り返し聞かずにはいられない。
研究に没頭する同じ情熱で、ペールゼンはこの音楽を愛していた。
第一級の学者であり、優秀な軍人であり、戦争の申し子のようなペールゼンが、古い甘ったるい流行歌が趣味などと、知れば嘲るように笑う輩もいるだろう。それを恐れているわけではなく、これは、ペールゼンのささやかな秘密だ。抱えていることで、自分の人生がひそかに豊かになる、そんな種類の秘密だった。
日頃の冷徹さに似合わない、この、ある意味では弱点とも言える小さな秘密は、もうひとつ別の秘密を抱え込んでいる。その秘密の隠れ蓑のように在る、この甘やかな音楽だった。
女の声が幅と深みを増し、耳の奥で、魂に触れそうな近くへ迫って来る。伸びやかに、ペールゼンの冷たい心を抱え込み、慰撫して、ぬくもりさえ残して、次の歌がまた始まる。
わたしのあなた、と女の声が歌った。切なげに、ひどく甘く、胸をかきむしられるような、20年前には、こんな声を聞けば涙ぐみさえしたかもしれない、そんな声が、わたしのあなた、と繰り返し歌う。
わたしのあなた。女の声と一緒に、ペールゼンは小さく歌った。
女の声が、ぼんやりとした輪郭を、ペールゼンの脳裏へ連れて来る。ペールゼンがそこへ自分の声を重ねると、次第に輪郭ははっきりとした線を描いて、ついには、それは誰かの面影になった。
暗い瞳。瞬きを忘れたような、ほとんど動かない表情筋。わずかに発する声は、だからこそ、ペールゼンの記憶の中に、深く刻み込まれている。それは、愛のささやきなどではなく、命令を復唱する無感動な声や、上官の無能を指摘する抑揚のない声だ。青い髪。緑がかった青い瞳。色褪せた耐圧服を着て、どこか疲れて薄汚れて見えるのは、兵士に共通した態度だ。
彼自身には色と言うものがなく、どこへでも馴染みながら、どこへも馴染み切ると言うことがない。彼と同じ種類の人間を探すことを目的としながら、それが彼の孤独を癒してしまうかもしれないと言うことに、ペールゼンは恐怖している。
彼が、この宇宙でただひとりの存在なら、彼の孤独が、その意味で確実なものなら、彼をそのままの存在にしておきたいと、ペールゼンは常に心のどこかで考えていた。
軍人であり学者である自分が望むことはその真逆だと言うのに、ただの人である──恋する人である──ペールゼンは、キリコをただひとりきりの存在にとどめておきたいと、ほとんど血の涙を流すように渇望していた。
彼──キリコ・キューヴィーのような人間が、この銀河に他にもいるはずだと信じて、探し続けて、そうして歩んで来たと言うのに、その自らを否定するように、ペールゼンは心の片隅で、キリコが常に孤独であるようにと祈り続けて来た。
キリコは誰のものでもなく、誰のものにもならない。ペールゼンのものでなければ、他の誰のものでもない。キリコ自身のものですらないのだと、ペールゼンは考える。
キリコは、キリコ・キューヴィーと言うただひとりの者で、それを理解し、受け入れられるのは自分だけだと、ペールゼンは固く信じていた。
キリコが何者かを知りたいと言う、学者らしいただの好奇心、その興味が執着に変わるのに、それほど時間は掛からなかった。執着は支配欲へ変わり、その途中で、まだ青年ですらなかったキリコを監視し、追い続けながら、ペールゼンは唐突に悟ってしまった。これは恋なのだと。キリコへのこの執着は、一方通行の愛を抱くものの、悲しいあがきなのだと。
ごく普通の意味での恋愛など、軽蔑以前に興味すらなく、自分の研究以外に裂く時間すべてを惜しいと思っていたのに、キリコへ執着するのは研究のためだと、そう思っていたのに、ある時点で、興味と対象が入れ替わってしまった。いつそんなことになったのか、ペールゼンは恐ろしくて自分の時間を振り返ることすらしたくなかった。
キリコを追い続けたくて、研究を続けているのだ。最強の、不死の兵士の軍隊を作ると、そうやってお題目を掲げて、それに向かって一直線に歩いている。そう見えるはずだ。けれどほんとうは、ペールゼンが追っているのはキリコだ。最強の軍隊など、キリコだたひとりのための口実に過ぎない。
キリコのためなら、他の兵士の命など惜しくはない。何千何万死のうと、知ったことではない。キリコひとりが、キリコただひとりが、ペールゼンが認める不死の存在──それでこそ、ペールゼンにふさわしい──だと、証明するためなら銀河すべて爆発させることも辞さない。
キリコは、そうあるべき存在だった。ペールゼンが愛するにふさわしい、ペールゼンに愛されるにふさわしい、そうでなくてはならないキリコだった。
わたしのあなた。歌はもう終わっていたけれど、構わず、ペールゼンはひとりで歌った。そうして、メロディーに合わせて唇を動かしながら、私のキリコ、と頭の中で言い換えている。
キリコは、ペールゼンのものだった。ペールゼンのものであるべきだった。
あの、たった18になるかならずの青年を、ペールゼンは完全に手に入れたくて仕方がない。この間まで少年だった、いまだ少年くささの抜けないあの男を、ペールゼンは脳細胞のひとつびとつまで、自分のものにしたかった。
脳細胞と、そして心もすべて。皮膚と骨と筋肉と、あの常に反抗的な瞳と、どこか軽蔑の表情をたたえたような、真一文字に結ばれた唇。滅多と開かれることのない、稀にしか動かないあの唇。
血まみれの彼を見たことがある。火だるまになって、焼け焦げた彼を見たこともある。顔を腫らし、包帯だらけになって、息も絶え絶えだった彼も知っている。弱り切った彼は、けれど恐ろしい回復力で元通りになり、傷つけられた痕跡は何ひとつ残さない。心は痛みを憶えていても、体に刻みつけられる記憶はない。傷が治れば、またすぐに戦場へ送られる。彼はその異常な強靭さゆえに、他の誰よりも多く傷つき、多くのトラウマを抱える羽目になる。体の傷は癒える。心の傷は深まるだけだ。
不思議と、キリコのトラウマを癒したいと思ったことなどなく、キリコに恋しながら、キリコに対して優しさなどちらとも浮かばない。そもそも、恋など知らないペールゼンは、キリコに恋しながら、それがどういうことなのか、具体的に考えたことはない。
自分のものにしたいと言う欲求が、劣情には結びつかず、それは意外なほど清純な、まるで幼い少年の恋のそれのようだ。
あの、引き結ばれた唇に触れてみたいと、思ったことはある。けれど触れるというのがどういうことか、そこまでは思い至らず、その先のことなど、生々しく想像することができるはずもない。
まだ女に触れたことのないキリコ──ペールゼンが観察する限り──と同じほど、ペールゼンもまた稚純なままだった。
女の声が、甘く恋を歌い続けている。それを子守唄に、ペールゼンは半ば眠りに落ちかけている。
ベッドへ行かなければ。いつもそうであるように、軍人らしい強い意志を振り立たせて、体を起こそうとする。こんなところで眠ってしまったら、明日の朝、体が痛んで立てなくなる。
若々しさの空気は残していても、すでに老人のペールゼンは、心の華やぎに、自分の体がついては行けないことをとっくに学んでいる。
歌の中の恋の甘さに、最後のひと時ひたるように、ペールゼンはなごんだ表情で微笑を浮かべ、わたしのあなた、とまた歌った。そうして、私のキリコ、と続けて声に出してつぶやくと、目の前に浮かんだキリコの幻が、仏頂面で、けれどペールゼンを真っ直ぐに見て、ヨラン、と名で呼ぶ。
半ば夢の中へ入り込みつつあることに気づかず、ペールゼンは、たった今自分を奇妙に親しげに呼んだキリコの、その無愛想な唇へ向かって、指先を差し出した。
キリコ、と呼び掛けると、ヨラン、とキリコが答えた。
おれの、とは決してキリコが言わないことは、ペールゼンにとっては些細な問題でしかない。キリコは絶対にそんなことは口にはしない。ペールゼンに対してだけではなく、この銀河の、誰に対してもだ。
それでいい。私のキリコ。
幻に向かって、唇だけが動く。ペールゼンは満足の微笑を口元へ深く刻んで、そのまま眠りに落ちて行った。