愛しい人
歩幅の大きい、正確な足取り。迷うところなど微塵もないその足音の、2、3歩後ろに続く、これもまた自信に満ちた──決して満ち過ぎてはいない──足音。ペールゼンは、わざと電動車椅子の向きを窓へ向けたまま、その足音たちが自分の部屋へ向かって来るのを無視した。立ち止まった足音の持ち主たちが、自動ドアのセンサーに触れ、ドアかすかな音を立てて開く。
「ペールゼン。」
冷たい響きの、けれど間違いなく歓びに満ちている声。続く足音はまたふたつ。部屋を横切り、ペールゼンの背後へ近づいて来る。
動きにつれて空気が揺れ、その中に、ペールゼンは強い花の匂いを嗅いだ。
声の主はペールゼンの右側に立ち、そこで車椅子のペールゼンと顔の位置を揃えるために上体を前に倒す。その所作は、場合によっては侮蔑的とも取れるのに、この男がペールゼンに対してすると、むしろペールゼンの下位を示す侮辱の動作にきちんと見える。
「気分はどうだ。」
冷ややかな声。踊り出したいようなうきうきとした気分を隠し切れない、語尾が弾み掛ける声。この男は、ペールゼンに会うのが愉しくて仕方がないようだ。
「悪くはない。」
ミラーグラスに覆われた視線の位置をまったく変えず、正面を向いたままペールゼンは短く平たく応える。
「それは何よりだ。」
言いながら、男──フェドク・ウォッカムは、自分たちの2歩後ろに控えている部下のルスケに向かって手を伸ばすと、ルスケはその手に恭しく、携えて来た花束を手渡した。
「見舞いだ。殺風景な部屋の彩りくらいにはなるだろう。」
ペールゼンをここに閉じ込めて、尋問と言う名の拷問を繰り返している男が、優しげに言う。
膝に乗せられたその豪奢な花束は、ひと抱えほどもある白百合と、そして中心には2輪の、これは鮮やかに毒々しいオレンジ色の鬼百合。白百合とは産地も旬の時期も違うはずなのに、ウォッカムほどの男となると、今時珍しい花など、雑作もなく集められるらしい。
「それはわざわざありがたいことだ。」
慇懃無礼に、花束を両腕の中に抱え上げながら、ペールゼンは礼らしき言葉を口にする。
敢えて白百合を見舞いと称して持って来たと言うことは、どうやらペールゼンの古い私的な日記を読んで、と言うことは、20数年前にまだ新米だった頃、上司へ届けるはずの書類を破損して、その隠蔽に肝を冷やしたことも知っていると言うことか。ペールゼンは、花に向かって顔を傾け、花に向かって笑い掛けている振りで、ウォッカムの行動を笑った。
白百合は確かにペールゼンが好きな花だけれど、鬼百合の方は一体どういうつもりなのか。しかも、2輪きり。
この男の行動すべて、ペールゼンを辱めるためのものだ。屈辱に誇りと心を挫けさせ、そうしていずれ屈服するペールゼンを、ウォッカムは舌なめずりしながら待っている。自分の足元へ這いつくばるペールゼンを想像するだけで、この男はほとんど絶頂に達しそうになっているのを、ペールゼンはひそかに感じ取っていた。
そうしながら同時に、たやすい獲物は好みではないのだ。ペールゼンが激しく抵抗すればするほど、ウォッカムの愉しみは増してゆく。掛ける手間が多ければ多いほど、獲物が落ちた時の歓びは深いものだ。
ウォッカムのための抵抗ではなかったけれど、自分を貶めるためにその知性と聡明さを余すところなく生かそうとする彼の努力を、ペールゼンはほとんど好意に近い感情で眺めていた。時と場所が違えば、深く分かり合い、手を取り合うことさえできたかもしれないふたりだったけれど、ウォッカムが求めているのは友と呼べる好敵手などではなく、またペールゼンが求めているのも、友情や親愛ではなかったから、ふたりは別々の結末を予想して、互いに対峙していた。
「良い天気だ。外へゆこう。いつものシャンペンとお茶を用意させよう。」
愉しげにウォッカムが言う。
香りの良い、これもペールゼンの好みにきちんと合わせた紅茶の香りを喉の奥に思い出して、ペールゼンはその時だけ一瞬、本気の笑みをうっすらと浮かべた。
ルスケはペールゼンの車椅子を、バルコニーの先端へ用意されたテーブルの傍らへ据え、その向かい側に坐った自分の主(あるじ)の機嫌をちらりと伺ってから、正確に10歩後ろへ退いた。
「おまえのキリコは変わらず元気だ、ペールゼン。」
こちらに絡みついて来る声で、相変わらず愉しげにウォッカムが告げる。予想通りの言い方に、ペールゼンは表情は変えず、とりあえずそこへ置かれた紅茶へそっと手を伸ばす。顔は相変わらず正面を向いたままだ。
「それで?」
あのキリコが、五体満足かどうかはともかく、無事に生き延びているのは常にペールゼンが考える通りだ。正確な情報はありがたいけれど、ウォッカムにわざわざここまで自ら足を運んで通達されるほどのことではない。ウォッカムも、当然そのことは承知の上だ。
「どこかの星の下等生物のように、手足をもがれても再生しそうだな、あの男は。」
「かもしれんな。」
キリコを、普通の人間ではないと言う意味合いにおいて、それ未満の表現で表わすのは、直接ペールゼンへの侮辱だ。これはウォッカムの常套手段だった。キリコをいたぶることは、間接的にペールゼンを痛めつけることになる。その意地の悪い、正当ではあるけれどある意味幼稚な攻撃を、ウォッカムはペールゼンに対しては好んで使い、それが、ペールゼンを精神的に肉体的に直接痛めつけるよりも効果的であることを、最初から見抜いてもいる。
もしそれが可能なら、ウォッカムはキリコを自分の許へ呼び寄せ、ペールゼンの目の前で拷問もするだろう。それこそ指先から少しずつ切り落とし、それが再生するかどうか確かめるためだとでも称して、それを見ることを強いられ苦しむペールゼンを眺めて、歓びの笑みを浮かべることだろう。
ペールゼンが苦しむのは、キリコが苦しむそのせいではなく、その拷問に名を借りた実験を、自らが行えないためだ。そのようなやり方は、ペールゼンの好みではない。
私はお前とは違う。
上品な仕草で、シャンペンの背の高いグラスを持ち上げるウォッカムを、ミラーグラスの薄暗い視界の端に収めて、ペールゼンは疲れたような仕草で軽く背を丸めた。
ここに、こんな形で軟禁されているのも充分に屈辱的だ。ウォッカムは、自分が傍にいない時も、ペールゼンが一時(いっとき)も精神的に解放されることがないよう、ありとあらゆる手段でペールゼンを貶め、辱め、踏みつけにし続けている。見識高い学者であり誇り高い軍人であるペールゼンに、そのような侮辱がどれほど効果的か、情報収集と称して、人の秘密を探り、暴き、あるいはそれを使って脅し、思う様人を操ることが役目の情報部の長であるウォッカムには自明の理だ。
尋問の際にあの装置──MRCへ入れられる時、ペールゼンの衣服をすべて剥ぎ取り全裸にするのもそうだ。襟の高い軍服に身を包み、軍帽を目深にかぶり、さらにロングコートを羽織るのが常だったペールゼンの、その鎧をすべて取り去り、老人の惨めな素肌をあらわにして、あの陰惨な尋問機の内側が、意外と肌触りが良いのは、ペールゼンをそう扱うための特別のしつらえだった。その心地良さが、その後に続く拷問をより凄惨にもしたし、ペールゼンをより惨めにも感じさせた。
そして何よりも、ウォッカムが大きな歓びを感じるのは、そうして装置の中へ全裸で横たわったペールゼンから、それだけわざとのように残しておいたミラーグラスを、ゆっくりと、今シャンペングラスを扱うのと同じほど優美な仕草で外す時だ。
ペールゼンの表情を隠し、視線の行く先を隠し、瞳の色を隠し、ありとあらゆる微細な心の動きを隠すそのミラーグラスを、恐ろしいほど優しげに外す、ウォッカムの指先。それはほとんど、言葉ではない睦言に等しい、淫靡にさえ見える仕草だった。
ウォッカムは恐らくそのつもりなのだろう。軍人として、軍人同士の間で起こる、わかりやすい暴力の有様、男が男に対して行える、それは形を変えてはいてもはっきりと侵略の様子をありありと見せて、つまり自分はウォッカムに強姦されている被害者だと、ペールゼンは自分のことを正しく認識していた。
加害者は、それをある種の親愛の表現と思い込み、被害者にとっては最悪の形の暴力でしかない、救いようのない個人的戦いの末路の姿だ。
ウォッカムは、花とシャンペンと紅茶でペールゼンの周囲を飾り立てるけれど、それを正しく屈辱を与える行為だと認識しているくせに、強姦や侵略と同じだとは思い至らないらしい。
まるで恋人に会うためのように、うきうきと弾んだ足取りでここへやって来る。まさに逢い引きのようだと、ウォッカム自身は気づいているのだろうかと、ペールゼンは、ちらりを顔を動かして、車椅子の背越しに、はっきりとは見えないルスケの方へ視線を流した。
ウォッカムのその掌の上で、ウォッカムがそう予想している通りに、ペールゼンは踊り続けている。惨めな操り人形のように、手足を振り動かして、ウォッカムが歓ぶように、ステップを踏み続けている。
切れる男であることは間違いない。軍を思い通りに操り、こうと定めた通りに進ませ、そして自分の名誉と名声はきちんと守る。まるで、少し前の自分を見ているようだとペールゼンは思い、素直に、政治力においてはこの男の方がはるかに上だと胸の内だけで認めた。
惜しい男だ。同時に、そう思いもする。ペールゼンを見つけ、そしてキリコを見つけてしまったばかりに、この男はペールゼンと同じ轍を踏むことになる。さて、この男は、この罠に気づいて、無事脱出できるのだろうか。
紅茶の香りを存分に楽しめないのを残念がっている表情を横顔に浮かべて、ペールゼンは震える指先をウォッカムから隠さない。
「ルスケ。」
ウォッカムが、わずかに声を張り上げて、後ろへ気配を消して控えていた部下を呼ぶ。あごをしゃくり、ペールゼンの方へ行かせ、そして、ペールゼンが膝を汚さないように、紅茶を取り上げてテーブルの皿へ戻させた。
ルスケは黙ってそれを済ませ、またすぐに足音を控えて後ろへ下がる。
突然、他人の手によって空になった自分の手を見下ろして、ペールゼンは放心したように表情を消した。
よく躾の行き届いた部下だ。控えている位置も完璧で、命令に対する反応速度も手際も素晴らしい。ルスケのことをそう評価しながら、それはウォッカムへの評価に直結するにせよ、それでもルスケ本人の評価はルスケだけのものだと、ペールゼンは頭の隅で考えていた。
良い部下を持つことは、指導者としては死活問題だ。そしてその部下を生かし切ることもまた、指導者の大切な能力だった。
お前はどうだろうな、フェドク・ウォッカム。
自分の、しわばんで力のよく入らない手指に、かすかに的確に触れて行ったルスケの、淀みも迷いもない指先の動きを目の前に反芻しながら、ペールゼンは油断すれば浮かんで来そうになる笑みを、案外な必死さで押し殺した。
ウォッカムは、まだキリコの話を続けている。キリコと言う言葉だけ聞き取って、ペールゼンは他の部分はすべて耳先で遮断していた。
ウォッカムの声で、その口から、キリコの名を聞くことは、ペールゼンにとっては歓びではない。キリコのことを話し合えることは、確かに歓びではあったけれど、自分を苦しめるためにキリコを利用するウォッカムのやり方は、ペールゼンには単に不愉快だった。
それでも、ウォッカムの自分に対する執着が、そのまま自分のキリコへの執着の姿だと気づけば、不思議な親近感に囚われて、ウォッカムの声を聞かずにはいられない。自分もこんな風に、キリコの名を呼ぶのだろうか。歓びを隠せない弾んだ声は、キリコの前へいる自分の声そのものなのだろうか。
声に聞き入ってはいても、話の内容に耳を傾けてはいないことに気づいたのか、ウォッカムが不意に椅子を立ち、ペールゼンの傍へやって来た。ルスケが、何事かと身構え、ウォッカムの行動を見守っている気配が、ペールゼンの背中へ伝わって来る。
まるで寄り添うようにペールゼンの傍らへ立ち、ウォッカムはそこから体を回して、ペールゼンのほぼ正面に立った。
「キリコに会いたいだろう。」
低めた声が、今度こそ本物の睦言のように、ペールゼンの耳に届く。
キリコと言う言葉だけは、常に真っ直ぐペールゼンの心の核を突き刺して来る。それを避けることはできず、ウォッカムは自分の声音の効果を確かめてから、ペールゼンが迷うように無言でいるのに、静かに頬の辺りへ手を伸ばして来た。
尋問の時にそうすると同じに、ウォッカムの手が、優雅にペールゼンのミラーグラスをそこからそっと持ち上げる。皮膚でも引き剥がされるような苦痛の表情を浮かべて、ペールゼンはウォッカムの手の動きを追って、知らずに顔を上げ、ウォッカムを見上げる形になる。
「そのうち会わせてやる。」
小さな希望が、絶望をさらに深くすると知っているウォッカムが、優しい声で言う。ペールゼンは、鎧のない剥き出しの老人の貌(かお)をそこに晒し、ウォッカムに向かって目を細めた。
「ヨラン、ペールゼン。」
名と姓の間に、不自然な間(ま)を置いて、ウォッカムがペールゼンを呼ぶ。まるでそうやって、ペールゼンを親しく名だけで呼んでいる錯覚を、自分の手元へ招き寄せているかのように、ウォッカムの冷ややかな目の表情が、その時だけやわらいで見えた。
「おまえのキリコが、おまえがそう言う通りに不死の兵士だと証明されたら、その時には会わせてやろう。他の、異能生存体と一緒に、おまえの前に並べて見せてやる。」
ペールゼンの本性へ挑むように言うウォッカムへ、けれどペールゼンは弱々しい視線を返しただけだった。
再びウォッカムの指先がペールゼンのミラーグラスを元の位置に戻し、偶然のように、指先が頬の辺りを滑って行ったけれど、ペールゼンは感じなかった振りで顔を動かしもしなかった。
「その時が楽しみだな、ヨラン、ペールゼン。」
名と姓の間の、その間(ま)を愉しんで、ウォッカムが声の端を弾ませた。ペールゼンは鈍く応えることさえせず、黙ったまま、ウォッカムが戻したミラーグラスの位置を、指先で軽く直しただけだった。
病室に戻され、ウォッカムはルスケを従えて姿を消し、その後でペールゼンをベッドへ戻すために、メンケンがそこを訪れていた。
「こんな匂いの強い花を・・・。」
医者の顔で、メンケンが百合の花束に向かって眉を寄せる。
「いや、飾っておいてくれ。いい彩りだ。」
「しかし──。」
「構わん。」
珍しく微笑んで、ほとんど哀願するようにペールゼンが言う。
メンケンはひとつ息をこぼし、ペールゼンが言う通りに、ベッドの傍へ百合の生けられた花瓶を置き、そして、ペールゼンがさらに頼んだ通り、オレンジ色の鬼百合を特に、丸くまとまった花たちの端へまとめた。
この鬼百合は、キリコのつもりだ。あの耐圧服の色合いと、とてもよく似ている。ウォッカムの意図通り、けれどペールゼンはその花の眺めに本気で心をなだめられ、ウォッカムの声で聞いたキリコと言う名を、胸の内で自分の声ですべて言い直していた。
2輪の鬼百合は、1輪はキリコであり、もう1輪はペールゼン自身だ。あるいはウォッカムは、異能生存体はひとりではないと言う自説を、こんな風に気品ある表現で主張したかったのかもしれない。どちらでもいいことだ。花のある眺めは、確かにこの白々しく冷たい病室を華やかにしてくれるし、間違いなくペールゼンを慰めてくれる。
ウォッカムの意図などどうでもよかった。あの男に踏みにじられ、痛めつけられている自分の苦しみなど、ペールゼンにとっては些細なことだ。大事なことは、キリコが生き続けていて、この宇宙の法則すらねじ曲げ続けていると言うことだ。
ねじ曲げられたことのひとつに、自分の人生が含まれている。ペールゼンはそのことを、不幸だとも幸運だとも考えていた。
お前は幸運だ、フェドク・ウォッカム。自分の不運に気づかずにいられる。
キリコと言う存在に魅入られてしまった不幸に、気づかないままでいられる。ペールゼンに魅入られているウォッカムは、ペールゼンを通してキリコに魅入られてしまっていることに気づかない。それは幸運なことだ。
あの男の運命も、すでにキリコによってねじ曲げられてしまっている。どんな風に、どんな方向へ、それが分かるのは、すべてが終わった後だ。
ペールゼンは天井を見上げていた視線を窓の方へ移動させ、そろそろ陽の沈むらしい空の色へ目を細めた。鬼百合の花弁とそっくりな、それは穏やかに燃える火の色をしている。同じような、もっと赤い、緋色の炎でキリコを焼き殺そうとしたことを思い出す。青い髪と青い瞳が、間違いなく炎に包まれていた。その炎の色と、レッドショルダーのATの赤い左肩の群れが、ペールゼンの視界の中を隙間なく塗り潰して行った。
キリコの左胸から流れた血の色も、こんな色だったろうかと、ウォッカムに付き合って思ったよりも疲れている淀んだ脳裏で考える。
明日は、自力でベッドから車椅子へ移動してみよう。尋問のせいで弱った体を、このまま放っておくわけには行かない。放っておいても回復する若さの体力は、もうペールゼンにはない。
「キリコ・・・。」
また顔を正面に戻し、それから、百合の花の方へ顔を向けた。
ただ甘いと言うには強過ぎる香りが、鼻腔を通って喉の奥へ降りてゆく。それをまるで、眠りの前の口づけの代わりのように、ペールゼンはそのまま目を閉じた。
狭まる視界に、鬼百合の毒々しいほど鮮やかなオレンジ色だけを映して、ペールゼンは自分の上にかぶさって来た、自分が撃ち殺し掛けた時のキリコの、あの体の重さを思い出している。自らの手で殺さなければ手に入らない、あのいとおしい重み。
キリコを殺すことを夢見ながら、その体を抱きしめる時、恐らく自分は泣くだろうと予感する。キリコを殺せる幸運と、キリコを喪う不幸。どちらも避けがたい、己れの運命だ。
「私のキリコ・・・。」
もう眠り掛けながら、けれどはっきりと声に出してそう呼んで、ペールゼンの口元には確かに笑みが浮かんでいた。誰に見せることもない、ペールゼンの、心からの微笑みだった。