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* 幻影後のいつか。

無言

 何と言うわけではなくて、合わせようとした呼吸がずれる。1拍にも満たないその間を慌てて埋めようとして、すれ違ってしまった呼吸に追いつこうとして、それがまた合わずに、無様に首筋の辺りで苛立ちを含んだため息になる。
 そうではないと、伝えようとした途端に、逆に伝わって来た揺れで声が裂ける。そうだ、そうやって躯の深くを合わせたい。けれどそれだけではなく、躯の内側から伝わる血管の慄えと一緒に、吐く息も一緒に重ねて、むしろ混ぜ合わせたいのはそちらの方だった。
 溶け合わせても、融け合えないのは知っている。ひとつにはなれない。だからこそ、せめて呼吸くらいはひとつにしたい。
 狭い筋肉の入り口を出入りするそれが、熱を持って脈打っているのが分かる。粘膜の壁をこすって、あるかなしかのかすかな襞を分け、どこか目的地でもあるようにしゃにむに奥へ進んで来る。
 背骨の根元に楔でも打ち込まれたように、精一杯脚を開いて体を平たくして、受け入れるための造りではないそこを明け渡して、無茶な摩擦が痛みを呼ぶ。それでも、やめろと思ったことはない。
 長い腕が首へ回り、広い肩が顎を押して来る。それへ喉を伸ばし、殺した声を飲み下した拍子に、尖った喉仏の動く音が耳の後ろに伝わって来た。
 繋げた躯にもそれが伝わったのかどうか、大きな体がかすかに浮き、上でも喉の上下する動きが、わずかに熱っぽい空気を揺らす。
 また胸が重なった。押し潰されて、苦しいと再び伸ばした喉へ、これも伸ばした喉が重なって来る。ごつごつ喉仏が当たって、柔らかな尖りが、けれど確かに皮膚をひっかいてゆく。
 急所を触れ合わせて、触れ合っているのはそこだけではなく、互いにさらけ出した傷つきやすさを、決して傷つけはしないように触れ合って、思いやりだけは消えない。
 少なくともこうすれば自分たちはひとつになれるのだと言う錯覚が、今日はうまく噛み合わない。こんな時もある。理屈は分かる。それでも焦りは消えず、むやみに体を揺すって、わざと内側をうねらせた。
 熱が膨れる。あふれる。それから、弾けるタイミングを見計らって、ずれたままだった呼吸をやっと最後のふた拍だけ合わせた。
 果てても、真空になった全身と脳の中に意識が漂っても、冴え返った一点で、誰にもどうしようもない孤独が忍び寄って来る。
 神ですら、これを消すことはできない。
 人として生きる限り、これは背中に張りついたままだ。誰とどれだけ抱き合っても、皮膚の中にひとり分の人の形が詰まっているように、それは体温では溶けず、こすり合わせた粘膜の溶けたように感じても、離れる時に無理矢理引き剥がす痛みはない。
 誰でもない、元はひとだった何かになれるはずだと、愚直に心の中で信じ続けている。それを期待して、伸びて来た腕の中にすべてを委ねるのに、終わった後で皮膚の冷えるに従って湧く虚しさが、時折無視できないほど大きくなる。
 今がそうだ。
 熱を吐き出した後の疲れで夢も見ずに眠ってしまえば、明日の朝には今感じているすべてを忘れている。そして性懲りもなくまた、熱をこすり合わせるために抱き合う。
 それ以外に何ができるだろう。
 言葉にすれば、分け合える淋しさも虚しさもある。それでもそうするための言葉を持たず、言葉が足りず、迷い探しあぐねた後で、こすられた躯の内側の熱さを手元へたぐり寄せてから、少なくともこの熱は信じられると、思いながら瞳を押し上げる。
 音はなく視線が合わさり、ねじり上げた首が自然に伸び、存在しない言葉を求めて開いた唇へ、熱の残る唇がかぶさって来る。
 やっと合った呼吸が重なって、舌が触れ合うより早く、ひとつに混じる。
 互いを抱きしめる腕の中で、ねじれた体の凹凸に名残りの汗がたまって、静かに乾いてゆく。言葉ではない触れ合いの立てる音が、皮膚の上を滑ってゆく。
 ひとつに融けた呼吸を今さらとも思わず、重なった舌の境いの見極められない錯覚が喉の奥からせり上がって来た。
 ごくっと喉が鳴ったのは、一緒で、同時だった。

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