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Outrage

 いかにも剣呑な空気で、数人に取り囲まれるのには慣れている。
 ここは、耐圧服やヘルメットの予備を置いておく倉庫だ。武器でも食料でもないから、警備も巡回の数も少ない。
 計画的だなと、キリコは瞳だけ動かして思った。
 たまたま通り掛かりに呼び止めたのではなく、ここへ連れて来よう──見つかりにくいから──と腹づもりが最初からあったと言うことだ。
 きちんと予定されて参加の決まっている面子だとすると、少しばかり手強いかもしれないと、殴ればすぐにひるみそうなのはどれかと、ちらりと全員の顔を窺う。
 残念ながら、キリコよりもずっと以前からクメンにいる連中で、いわゆるベテランの傭兵たちだ。素手の奇襲にも慣れっこだろう。どの辺りで満足して放してくれるだろうかと、明日には腫れ上がるかもしれない、自分の顔のことを考える。頬やこめかみの辺りを殴られると面倒だ。その辺りを腫らすと、ヘルメットをかぶるのが大変になる。腹や足を痛めつけられるのも困るけれど、とりあえず被害を最小限に抑えるためには、ひとり捕まえて人質にして、半死半生も厭わないと見せた方がいいのかもしれない。
 倉庫の隅へ連れて行かれながら、キリコは退路を把握しようとしていた。
 ここの棚は全部据え付けだ。簡単には倒れない。盾には使えても、攻撃には使えない。逃げにくいと言うのは追い掛けにくいと言うことでもあるけれど、多勢に無勢ではキリコの方が圧倒的に不利だった。
 やはり人質を取って、殺すつもり──振りだけだ──もあると見せて引かせるのが、一番現実的かもしれないと思った。
 生意気だとか、気に食わないとか、不愛想と仏頂面がお高く止まっているように見えるとか、言い方は様々だけれど、私刑に合う理由はひとつしかない。おまえが嫌いだ、それだけだ。
 人を嫌うと言うのも、精神的なエネルギーを使うと言うのに、関わりがあった覚えもないキリコをわざわざ呼び止めて、徒党を組んでこんなところへ連れ込むと言うのもご苦労な話だと、表情を変えずに思う。それを口にしたら、火に油を注ぐことになるのだろうなと、これも無表情に考えた。
 暇な連中だ。
 いつ殴り掛かられても動けるように、拳はすでに軽く握ったままだった。常に腰に着けている銃は、取り囲まれた最初に取り上げられていた。
 そうして、殴り合いは唐突に始まった。
 男たちの輪の中で、キリコの体は、振り上げられる拳をよけてあちこちへ逃げる。後ろに来た連中には、振り向きもせずに肘を見舞った。
 つぶされたカエルのような気持ちの悪い声が聞こえ、そこへ重なる怒号がいくつか。男たちは明らかに頭に血の上った様子で、けれどキリコに対する攻撃は乱れない。
 絶好のタイミングで、けれど壁に背を向けるように追い込まれたのはやや計算外で、男をひとり捕まえた。
 ためらわずに首に腕を回し、男のこの後の生死など気にもせず、腕の輪を縮めて窒息させようとする。男はあごを引きつけて、キリコの腕が喉に入るのを阻止しようとする。
 そうして、逃れるために体を回そうとした男の拳が、偶然キリコのあごの付け根近くに当たった。
 狙ったわけではなかったのは、力の入り具合でわかった。大したパンチではなかったのに、きれいに脳が揺れる位置に入った。
 ぐにゃりと視界が歪み、一瞬の後には、手足がばらばらに、勝手な方向へ動く。後頭部を打たないように、体は自然に受け身を取るけれど、それはすべて無意識だ。足は爪先まで完全に萎えている。
 視界がはっきりするまで十数秒、手足を完全に押さえつけられて、体を引きずり起こされるには、それで十分だった。
 今度は、キリコの喉に誰かの腕が入る。髪をつかまれ、膝立ちの姿勢で上向くよう強いられると、目の前に、どうやらリーダー格らしい男が、下卑た笑みを浮かべて立った。
 その表情で、この私刑の目的を一瞬で悟り、キリコは歯を食い縛った。
 どこまでやる気だ。
 脳の揺れはまだ残っているけれど、体はそろそろ元通りだ。必死で暴れれば、銃でも使わない限り人ひとり自由にするには骨が折れる。
 キリコは確かに、この連中から見ればガキ同然の青二才だろう。けれどお互い兵隊同士、本気でやり合えば殺し合いになるとわかっているはずだった。
 私刑程度でそこまでする気はないだろうと踏んで、それなら、自分はどの道を選択すべきかと、キリコは、耐圧服の前を開く男の手つきを、目をそらさずににらみつけた。
 「アゴでも砕くか。」
 後ろで誰かが言う。案外本気の声だ。
 「歯の2、3本でも折ってやればすぐ言うこと聞くぜ。」
 「歯無しは案外いいってな。」
 全員が、声を揃えていやな笑い方をする。キリコを怯えさせるためと、共犯者の意志を統一させるためだ。
 絞められた首が苦しくて、思わず空気を求めて口を開きそうになるけれど、キリコはそれに耐えてあごを下げようとする。少しでも動くと、腕の輪は締まり、髪をさらに上へ引っ張られた。
 「さて、どうする? 顎を砕くのも歯を折るのも、俺たちゃ何でもいいんだぜ。」
 目の前の男が、半勃ちのそれに手を添えて、見せつけながら言う。
 「血が流れた方が、滑りが良くなっていいんじゃねえか。」
 後ろで違う声が言う。
 「素直に言うこと聞きゃあ、怪我も減るがな。」
 男の言う通りだ。痛めつけられる可能性は減る。けれどその代わり、同じことを繰り返す羽目になる。一度受け入れれば、それは何度でも、彼ら全員が飽きるまで繰り返される。
 おとなしく口を開いて、この連中の求める通りにそれをすれば、このままずっと、そのための処理用の道具として扱われ続ける。
 それが案外と悪い考えでないのは、この連中がキリコを道具として気に入れば、他の誰かがキリコを痛めつけようとするのを、恐らく許さないだろうと言うことだ。
 そうやって庇護を受け、軍隊生活を生き延びる──死や苦しみは、戦闘中だけに存在するものではない──知恵も、新兵やまだ年若い連中には、確かに必要ではあった。
 死んだり、無駄に傷ついたりする可能性を除去するのは、ここでは賢いこととされる。
 まったく価値のない、尊厳と呼ばれるものを守る愚を犯すか、あるいは目の前の、なるべく無傷の生を最優先するか、半ば心を決めながら、キリコは唇をゆるめる気配など微塵も見せず、ただ男の顔をねめつけていた。
 顎に、男の手が掛かる。明らかに慣れた手つきで指先に力を込め、痛みにうめき掛けたキリコの顎を、さっき取り上げた銃の台尻で一度殴りつける。歯も顎も、まだ折れない程度の強さで、けれど獲物が抵抗する気を失くす程度の強さで、こうやって何人餌食にしたのかと、キリコは食い縛った口元から力は抜かずに、傾いた体を元に戻されながら、また男を上目ににらみつけた。
 そうしてまた目の前へ差し出される、今は完全に勃起したそれが、ぬるりと頬に触れた。
 おとなしく口を開けば、これ以上殴られることはない。多分。
 それでも素直に受け入れるわけには行かないのだと、そう思った時に、倉庫の入り口で人の気配がした。
 「誰かいるのか? 何をしている。」
 男たちは一瞬で気配を殺し、どうやら予定外らしい警備の見回りに、顔を見合わせて眉をひそめる。
 こちらへやって来る足音。少なくともふたり。
 体を押さえていた腕が、即座にキリコから離れた。床に倒れかけたキリコを、それでも誰かが最後にひどく蹴った。みぞおちの右側に、ブーツの硬い爪先が食い込む。遠慮せずに声を出すと、こちらへやって来る足音が速まり、去ってゆく足音は、いっそう素早く逃げ出してゆく。
 棚の間をばらばらに散って、男たちは、見回りの兵士たちの背後をすり抜けて、入り口から逃げて行った。
 それを追う気配は続かず、わざとのようにゆっくりと再び入り口へ向かう足音と入れ代わりに、キリコの方へ向かって来る、他のどれよりも歩幅の大きい足音。
 「立てるか。」
 意外な近さの声に、やっと顔を上げると、声音ほどは心配そうでもないシャッコが、キリコの肩に手を掛ける。
 体を起こそうとするとみぞおちが痛む。動けるなら骨は大丈夫だと、それでも用心しながら、キリコはシャッコの腕に引かれて、やっと体を持ち上げた。
 なぜ、と思ったのが顔に出たのか、キリコに肩を貸しながら、シャッコが、キリコの方は見ずに言う。
 「キデーラは、荒っぽい連中に顔が利く。」
 それが説明のすべてだと言うように、シャッコはそれきり何もしゃべらない。
 キデーラがこの場にいないのは、あの男にはまったく似合わない親切だと素直に解釈して、ひとつ借りだと、頭の隅に刻み込む。
 何があったのか、知っていても決して口にはしない。よくある小競り合いだ。深刻になる前に阻止された。ただそれだけだ。
 シャッコに引きずられるように、よろよろと倉庫を出て宿舎の方へ戻りながら、顔の傷を確かめようと口元や目の辺りに触れて、そうして、頬に、ぬるりと、血でも汗でもない跡が残っているのを感じた。
 キリコはごしごしと、それを手の甲で拭った。シャッコの視線にも気づかず、執拗に拭い続けた。


 夕食も抜いて、気分が悪い──嘘ではない──とベッドにこもって、ひどい頭痛で目が覚めたのはもう朝に近かった。
 首から上がもろいガラス細工にでもなったように、そろそろと起き上がり、痛みが増すのと同時に、吐き気も始まった。
 ほとんど這いずるようにして洗面所へ行き、なるべく頭を揺らさないようにしながら、吐き気に従うために胃を喘がせる。
 半日何も食べていない胃は空で、吐くものもないまま、逆流する胃液は量が足りず、喉まで内臓が這い上がって来るような吐き気に、ただ耐えた。
 眼球を握り潰されているような頭痛は、自分の頭蓋骨を叩き壊そうとしている架空の道具の姿形が、はっきりと眼窩の内側に感じられるようで、いっそほんとうに目を抉り出せば楽になるかと、吐く音だけを立てながら、思わず左目を掌で覆った。
 これは多分、昼間起こした脳震盪のせいだ。あの小競り合い──そう、なるべく軽く考えるのが、連中に対する、今は精一杯の仕返しだった──で、いくつか残った痣よりも、今は痕など見えないあの脳の揺れが、このひどい吐き気と頭痛の原因だ。
 たまに吐き気の弱まる1、2秒の合間に、キリコは苦みばかりひどくなる口の中で、あの連中に対する罵りの言葉を胃液の代わりに吐いて、けれどそれは、次の吐き気の波に飲まれて、語尾ははっきりしないまま口の中で消える。
 次に会ったら、問答無用で殺してやると、半分くらいは本心でないまま考えた。
 上体を支えるように伏せていた洗面所の蛇口が、不意にそっと開く。
 突然目の前に流れ始めた水に驚いて、肩越しに振り返ろうとして、また眼球の後ろをを殴りつけられたような痛みにうめいて、キリコはこめかみの辺りに掌を当てて、頭を支えた。
 「吐けるか。」
 ほとんど背中に重なるように声が降って来る。またシャッコだ。
 ベッドが隣り合わせだから、キリコの様子がおかしいのに気づいても不思議はないけれど、わざわざ起き出して来たのかと、キリコはありがたく思うよりも、酔狂な奴だとまず思った。
 今日、あの小競り合いの場に姿を現したのも、考えてみれば物好きとしか思えない。巻き添えを食ったらどうするつもりだったのかと、痛みと吐き気で、ほとんど八つ当たりのように、シャッコのことをそんな風に考えた。
 今上半身は裸のキリコの背には、今日殴られたり蹴られたりした跡が残っているのだろうか。
 吐き気と痛みに負けて、体を縮めてうめいている自分を見られるのを、キリコは不様だと思う。
 戦闘中の怪我ならまだしも、喧嘩の挙げ句のこの様だ。シャッコくらい体が大きければ、負ける心配はないだろうし、そもそも喧嘩を売られる心配もないだろう。苦痛のせいで生まれる今だけの妬みが、吐き気と一緒に喉に突き上げて来る。キリコはまた胃の入り口を喘がせた。
 背中に、シャッコの大きな掌が触れる。昼間、自分の体を押さえつけた腕の感触が甦って、思わず体の内側も全部石のように硬張った。まるで、その硬張りをやわらげるように、シャッコの掌がキリコの背を撫でる。
 体中が石のようだと思ったのは決して錯覚ではなく、実際に筋肉が極度の緊張で、神経も何もかもひどく締めつけ、張りつめさせていた。
 キリコを押さえつけていたあの腕とは違い、シャッコの掌はただあたたかく、そして、正確に胃の位置を探り当てて、そこをゆっくりと、けれど確かな強さで押して来た。
 吐き気に痙攣する胃が、裏側から押されて、吐く動きを、ほとんど強要されるように促されて、やっと胃液が現実に喉を上がって来た。一度吐いてしまえば、口の中に広がるいやな苦さで、胃液まで空になるように、胃と喉は一緒に的確な強さで痙攣し続ける。
 吐いたものをすべて、蛇口の水がきれいに押し流し、白い陶器の洗面台はつるりときれいなままだ。口の端から垂れた唾液の最後のひと筋を、両手にためた水で洗い流し、キリコはついでに顔も、髪が半分濡れるまで何度も洗った。
 その間シャッコは、キリコのまだ痙攣の残る背を撫で続け、やっと体を起こすと、頭に広げたタオルが載せられる。無言のまま、キリコはそれで顔を拭った。
 「大丈夫か。」
 初めて、シャッコが後ろからそう訊いた。恐らく、昼間同じ質問をしたかったのだろう。
 「・・・ああ。」
 タオルで口元を覆って、キリコは短く言った。自分でも信じてはいない口調で、まだ変わらず続いている頭痛に目を細めて、吐き気が治まれば、いっそう頭痛のひどさに意識が向くだけだ。瞬きするだけでも目の奥が痛む。
 やっぱり、あの連中を次に見掛けたら、心置きなく半死半生の目に遭わせてやると、今度は少なくとも半分は本心で思う。
 そうすれば痛みがやわらぐとでも言うように、知らないうちに、頭を傾けていたらしい。やっとシャッコの方へ、頭は動かさずに肩を回すと、キリコの斜めの視線を追って、シャッコの頭も軽く傾く。
 真っ直ぐ動いているつもりなのは本人だけで、そのままシャッコの脇を通り過ぎようとして、膝がぐにゃりと曲がった。
 まだ脳が揺れている。そう自覚がないだけだ。手足は時々言うことを聞かず、脳からの信号もうまく届かない。腰に回ったシャッコの長い腕に抱き止められて、気がつけば、床に倒れ込み掛けていた。
 「動くな。」
 耳の近くで声がするのは、シャッコの胸に背中を重ねて、膝の間に引き寄せられているからだ。確かに、横になるよりも、こうして体の力を抜いて、何かに寄り掛かって坐っている方が、頭痛は治まるような気がした。
 シャッコの長い脚に挟まれて、傍に立てば、キリコなどすっぽりと見えなくなってしまう大きな体に支えられて、キリコは、痛みで気絶寸前になりながら、シャッコの胸に頭をもたせ掛けて、少しでも楽な姿勢をごく自然に探している。
 キリコは瞬きをする気力すら投げ出して、そして自分の手足も、完全に投げ出してしまった。微睡みのように、ほとんど目を閉じて、代わりのように唇が動く。何か喋っているという自覚もなかった。
 「・・・徹底的に抵抗して散々痛めつけられるのと、生き延びるためにさっさと降伏するのと、どっちがどれだけマシだろうな・・・。」
 まだ濡れている髪の上に、シャッコの掌が乗った。さっき、キリコの背中に触れていたように、今度は髪を、その大きさに似合わないかすかさで撫でている。
 「どちらを選んでも、軽蔑される謂れはない。」
 「・・・理想論だな。」
 おまえに何が分かると、さっきの妬みの気持ちが、胃の裏側にどす黒く広がった。
 自分の妬みも怒りも、すべて理不尽と自覚はある。胃から何をどれだけ吐き出そうと、こんな感情は吐いて消せるわけではない。
 頬に、意地悪く触れた、あのぬるりとした感触。殺してやる、と今度は完全に本気で思った。
 思うだけなら自由だ。思うだけなら。
 意識が遠のくのと一緒に、呼吸も次第に間遠になる。眠るように、キリコは痛みで気を失い掛けていた。
 足裏が触れている床は冷たかったけれど、寄り掛かっているシャッコの体はあたたかい。頭痛のやって来る後頭部はシャッコの左胸に触れ、そこから、頭の疼くリズムよりも少しゆっくりと、シャッコの心臓の音が聞こえた。
 痛みが、シャッコの体温と鼓動に、少しずつ引き寄せられてゆくように感じたのは、恐らく失神直前に揺れる脳が見た夢のようなものだったのだろう。
 熱を持って溜まった膿でも流れ出すように、黒く渦巻く負の感情と痛みが、触れたシャッコの皮膚へ吸い取られてゆく。
 暗くなりかけた視界の端に、自分の髪を撫で続けるシャッコの指先の輪郭を見た。それが、その夜憶えている最後だった。
 凶暴な夢の中であの男たちを殺し、目覚めた朝にはわずかに疼く頭痛が残るだけで、誰の血にも汚れてはいない自分の手を見下ろして、キリコは安堵しながらベッドを出た。
 一緒に起き出したシャッコの無表情も、キリコの無愛想も、何もかも、いつもと同じ朝だった。
 
 
 でんでばらばらのようでいて、朝食の時間だけは皆大体同じ時間に行動する。
 遅れれば、定められた時間内であっても食いはぐれることがあったし、戦場で死ぬ思いをしない日も、体を使う雑用にこき使われる兵士たちにとって、簡素ではあっても、テーブルについて食事ができると言うのは貴重な時間だった。
 食堂はただっ広く、そこにところ狭しと大きなテーブルが並び、乱雑に椅子が、一応テーブルに添えて置いてある。
 ポタリアとキデーラが軽口を叩きながら先に足を踏み入れ、シャッコと肩を並べて、キリコは後に続いた。
 目の前のキデーラの肩越しに、鋭く視線を投げる。どこかから自分に向かって投げられる、憎々しげな視線に、キリコはすでに気づいていた。
 あの時と同じ気配だと察知して、どこにいるかとさり気なく、食堂の中へ視線を回す。
 トレーや食器の置かれている、料理の並んだ壁際のテーブルの群れへ向かいながら、キリコは油断なく周囲に気を配った。
 正直なところ、連中の顔などよく覚えてはいない。目の前に立ったあの男の顔は、きっとしばらく忘れないだろう。自分をにらみつけているらしい顔ぶれの中に、あの顔がないかと、横目に探しながら、キリコは順番を待つ列のいちばん後ろについた。
 キデーラは相変わらず騒がしい。食事に文句をつけ、配膳の係に万遍なく冗談を言い、今朝は殊更、常にざわついている食堂の中で目立っていた。
 そうして、配膳係やポタリアやキリコと同じようにキデーラをうるさがってこちらを見る視線の中に、キリコはやっと覚えのあるそれを見つける。
 あの連中だ。間違いない。
 あの男は、キリコからはいちばん遠い位置に腰掛け、テーブルはひとつ丸々彼らだけのものだ。
 食事はすでに終えたものと見えて、数人はコーヒーらしいカップを手に、こちらをじっと見ている。
 キリコは彼らに一瞥を投げてから、視線を正面に戻した。
 先に料理を取り終えたキデーラが、偶然かどうか、彼らのテーブルからなるべく離れたところへ歩いて行こうとする。
 キリコはそれに構わず、ひとりで彼らの近くへ歩いて行った。
 「おい、こっちだぜ。」
 慌てたようにキデーラが手を挙げる。隠し事のできないキデーラの声にも仕草にも、あの連中からキリコを遠ざけておこうと言う意図が、ありありと見えた。
 キリコはそれに肩越しの視線だけ投げて、
 「おれはこっちで食べる。」
 そう言う声が、あちらのテーブルに届いて、そこで空気が殺気立ったのを、キリコはきちんと確かめていた。
 「しょうがねえ野郎だぜ。」
 キデーラが舌打ちして、キリコの後を追う。ポタリアは事情は察しないまま、空気のおかしさには気づいているのか、途端に視線が引き締まる。シャッコは何を考えているのか、まったく読めない無表情のまま、キリコのすぐ後ろへいた。
 連中のテーブルを左斜め前に見る位置に、キリコはトレーを置いて、何も言わずに食事を始める。
 その前にポタリアが、自分の隣りに来たキデーラに、一体どうしたんだと目顔で訊きながら座り、キリコの隣りには、少々大きさの足りない椅子の強度を気にしながら、シャッコが静かに腰を下ろした。
 明らかに、これはキリコの挑発だったけれど、仕掛けて来たのはあちらが先だし、今この場で事を起こすなら、遠慮なく受けて立つ気だった。
 少なくとも、人気のない倉庫でないなら、キリコひとりでも勝ち目はあった。
 ここで恥をかかせて、逆恨みされる恐れはあったけれど、恨みが深くなればもっと強行な手段に出て来るだろういし、そうすれば、こちらも手荒な反撃をためらう必要がなくなる。
 下っ端扱いはともかくも、踏みつけにされないためには、どちらが上か思い知らせておく必要があった。
 連中を怒らせることなど怖くも何ともない。面倒なのは、向こうが分があると諦めずに、下らない──そして鬱陶しい──ちょっかいを止めないことだ。
 徹底的に、キリコ自身が反撃しておく必要があった。
 案の定、わざと目立つように連中が音を立てて立ち上がり、椅子を蹴るようにしてテーブルから離れる。思惑通りに、周囲の視線が、一斉に彼らに集中した。
 肩をいからせるように、にやにやと意地の悪い形に唇を曲げて、驚いたことに先頭に立ってこちらに来るのは、あのリーダー格の男だ。矢面には立たないだろうと思っていたキリコは、成り行きを意外に思いながら、それは恐らく、キデーラに対する威嚇の意味合いなのだろうと理解する。
 そして恐らく、キリコをいっそう辱めて、萎縮させるつもりだ。
 キリコは、上目に近づいて来る彼らを認めて、けれど表情は変えず、無視の態度をあらわにした。
 「よォ、元気そうだな。」
 男が、キリコのすぐ傍に来た。ポタリアは食事の手を取め、けれどすぐに男を見上げることはせず、キリコの出方を窺っている。キデーラは今にも男に飛びかかりそうに、テーブルの上で拳を握り締め、彼をにらみ上げていた。シャッコはキリコ同様、何もないように食事を続けていて、彼らを完全に無視していた。
 キリコはキデーラに視線を送り、動くなと制した。
 「この間は命拾いしたが、次はどうだろうな。」
 男が顔を近づけて、キリコにだけ聞こえるように、耳元で低く言う。雨の後の地面のような、べたりと皮膚に粘りつくような声だった。
 彼の後ろで、仲間が賛同の下卑た笑い声を立てる。周囲の視線を集めて、そうして皆の前で、キリコに恥をかかせるつもりらしかった。
 「命拾いしたのは、一体どっちだろうな。」
 コーヒーのカップを持ち上げて、相変わらず色も香りも薄いそれに、わざと眉をしかめて見せながら、ついでのようにキリコは言う。
 「なんだとこのガキ。」
 "ガキ"に反駁されるのに、まったく慣れていないようだ。今までの獲物は、私刑の後で皆素直に言うことを聞いたのかもしれない。
 井の中の蛙めと、キリコは胸の中でだけ毒づく。
 仲間への面子もあるのか、男もキリコ同様、どちらが上か思い知らせておこうという思惑がある。キリコの挑発に乗った形になっても、最後にキリコを屈服させればいいのだ。途中の経緯はどうでもいい。
 「あんまり俺を舐めるな。歯も顎も砕けて、喉に通したチューブからメシでも食う羽目になるぜ。」
 キデーラが、とうとう男を殴る準備のために、トレーを脇によけ、立ち上がるために足を踏みしめたのが、キリコにもわかった。
 男を、瞳だけ動かしてじろりと見上げて、
 「できるかどうか、試してみるか?」
 キデーラが動くより早く、男がキリコに向かって拳を振り上げて来る。
 それを読んでいたキリコは、男から視線を外さないまま、腰のホルスターの右側へ両手を伸ばしていた。
 そして、銃を掴もうとした右手が空回ってから、銃はこの連中に取り上げられたままだったことを思い出す。
 そうだ、今朝部屋を出る時に、それを何とかしなければと、思ったことを一緒に思い出す。今の今まで忘れていたのは、この連中にまた会って、自分も頭に血が上(のぼ)っていたのだと、自分を殴ろうとする男の動きがはっきりと見えるのに目を細めながら、キリコは今さら悟っていた。
 キリコの右側で、ふと空気が大きく揺れた。
 自分の頭越しに、長い腕が伸びて、男の喉をつかんだのを、不思議なほど現実感なく眺めて、それが、いつの間に立ち上がったのか、今ではキリコと男の間に立ち塞がっているシャッコだと気づくのに、ふた呼吸分掛かった。
 「食事くらいゆっくりさせろ。」
 片手で男を吊り上げて、感情の読めないシャッコの声が低く響く。
 男の仲間たちは、突然のシャッコの乱入に声を失って、全員一歩後ろへ引いた。
 「このまま続けて、おれと一緒に営倉入りするか?」
 喉首を掴んだ男だけにではなく、彼の仲間にも視線を投げながら言う。男は、呼吸を止められて、苦しそうにもがきながらうめいた。
 「おいやめろ!」
 仲間のひとりが、情けない声でシャッコを止めようとした。
 ポタリアは、半ば椅子から立ち上がって、どちらかと言えばシャッコを止めた方が良さそうだと、体をそちらへ向けている。キデーラは呆気に取られてシャッコを見上げて、キリコはただ平然と、シャッコの行動をまだ坐ったまま眺めていた。
 周囲は静まり返っている。誰も動きを止めて息をひそめて、事の成り行きを見守っていた。
 そして、少しでもこの状況を有利にしようと思ったのか、仲間のひとりが煽るように突然怒鳴る。
 「なんだ、そのガキ、おまえのおもちゃか。」
 キリコもシャッコも、この場で一緒に貶めるための、恐ろしいほど的確な罵りだった。怒鳴った仲間の機転を誉め称えるように、他の連中がいきなり浮き足だった、優越に満ちた笑顔を浮かべる。
 キリコはひそかに頬を凍らせていたけれど、シャッコは平然と、そして彼らに見せつけるように、男の喉をいっそう強く絞め上げながら、けれどゆっくりと男を床へ降ろしてゆく。
 床に降ろしたのは、男をうっかり殺してしまわないためだった。
 「だったらなんだ。人のものをかすめ取るなら、それなりの覚悟をしてから来るんだな。」
 ためらいなど一片もなく、この場の全員に聞こえる声で、シャッコが言う。
 聞いた全員──キデーラも含めて──がはっきりとうろたえて、けれどかぶさる声は一言もなく、シャッコは乱暴に男を仲間たちの方へ投げて戻した。
 「とっとと失せろ。二度とおれたちに近づくな。」
 男は、潰されていた喉を押さえて激しく咳き込み、駆け寄った仲間にかばわれて、抱え込まれるように引き上げられた。
 「消える前に銃を置いて行け。こいつから取った銃だ。」
 親指の先で、自分の後ろにいるキリコを指しながらシャッコが言う。真っ直ぐには立てない男の腰から、誰かが銃を引き抜き、それを撃つと言う愚は犯さない──皆の集まっている食堂と言う場所を選んだのは、向こうの愚だ──賢さで、シャッコの足元まで床に滑らせて来た。
 よろよろと男を支えて、連中が足早に去ってゆく。
 彼らの姿がそこから完全に消えると、やっとため息を吐くように空気がわずかに揺れ、誰もがキリコたちの方を見たまま、けれど自分たちのことへ心を引き戻して行った。
 ポタリアは事情を聞き正そうと、シャッコとキデーラを交互に見て、キデーラは、シャッコのさっき言ったことを完全に受け止め切れずに、シャッコとキリコのふたりを呆然と見ている。
 キリコはただふたりに向かって肩をすくめて見せて、シャッコから受け取った銃を、黙って腰のホルスターに収める。
 ちらりとシャッコを見上げて、何も言わず表情も変えず、キリコが食事の終わったトレーを取り上げて立ち上がると、シャッコも自分の分のトレーを持って後に続いた。
 ふたりが歩くと、周囲の視線がひそやかに背中を追って来る。ふたりとも、顔を真っ直ぐに上げたまま、表情をまったく変えず、平然と食堂を去った。
 宿舎へ戻る薄暗い廊下の途中で、足を止めずに、先に口を開いたのはキリコだった。
 「助けてくれと頼んだ覚えはない。」
 「泥をかぶるならおれの方がいい。中途半端にあの連中に手を引かせても、また他のやつらがしゃしゃり出て来る。おまえのせいじゃないが、おまえはどうも人に嫌われるタチらしいな。」
 「特に上官にな。」
 自分を目の敵にしている、カン・ユーの顔を思い浮かべながら言うと、同意するように、シャッコが小さく笑い声を立てる。
 「その通りだ。」
 確かにシャッコの言う通りだった。キリコが小競り合いの中心なら、カン・ユーがここぞとばかりに大騒ぎするだろう。乱暴者と評判のキデーラでも同じことだ。シャッコがお気に入りのカン・ユーは、シャッコが騒ぎの元なら、かばうことすらするかもしれない。
 被害を最小限に抑えるには、確かに最適な方法だった。
 とは言え、ある種の不名誉とも言える誤解を、シャッコがわざとあの場の全員に与えたのは、キリコには──そしてシャッコにも──予想外の被害だ。
 それでも、力で脅せば誰のどんな言うことでも聞くと思われるくらいなら、いっそ特定の誰かと、やや特殊な意味合いで親密だと思われて遠巻きにされる方がよほどましだった。
 こちらが平然としていれば、この手の噂はすぐにやむ。狭い世界に閉じこめられれば、自然に噂話と陰口が娯楽のひとつになるけれど、この手の話は量も入れ代わりも多く、ひとつの話題など、1週間後には誰も覚えてはいない。
 シャッコの嚇しがどれほど効くのか、キリコには分からなかったけれど、勝てない作戦は実行しない男だと知っているから、シャッコがそう言った通り、あの連中は二度とキリコの前に姿は現さないだろう。
 心の中でだけ、素直にそれを助かったと思って、けれど借りを作るのにはどうしてもためらいが先に立つ性格はどうしようもなく、その辺りをどう釘を刺しておこうかと、歩きながらキリコは考えていた。
 「キデーラはおまえの言ったことを信じたぞ。どうする気だ。」
 「心配ない。今頃ポタリアが説明している。」
 どう見ても、状況に完全に置いてきぼりだったポタリアが、何をどうキデーラに説明するんだと、キリコはシャッコを見上げた。
 「あいつは自分が見たものしか信じない。おれが言ったのはあの場限りの単なる言い逃れだと、あいつはちゃんとわかっている。」
 「大した信頼ぶりだな。」
 どこか皮肉なキリコの口調に、シャッコが、まるでなだめるような視線を返して来た。
 「戦場に出れば一蓮托生だからな。安心して背中を預けられる相手なら誰だって歓迎する。」
 おれでもかと、思ったことがそのまま表情に出る。シャッコがそれを見て、薄く微笑む。
 「おまえが来るまでは、出撃のたびに誰かが死んだ。残ったのはおれたちだけだ。新しいやつが来るたびにいちいち慣れるのも、名前を覚える前に死なれるのも、どちらも面倒だからな。」
 言葉の終わりは、まるでひとり言のように、歩く足元へ落ちて消えて行った。
 この男も、そしてキデーラとポタリアも、数え切れない死を見送って来たのだと、キリコは、ふと感じた痛ましさに、見えないように目を細める。
 廊下の終わりで、シャッコが足を止めた。
 「おれはATの整備に行く。」
 一緒に来るかと、語尾に含んで、けれど押しつけがましくはなく言われて、キリコは、食堂で聞いた、低く凄んだシャッコの声を思い出しながら、小さく首を振った。
 「おれは宿舎に戻って銃の点検をする。あの連中が何をしたかわからないからな。」
 そう答えながら、知らずにうっすら微笑んでいた。
 それが、わかりにくい感謝の意だと伝わったのか、シャッコもまた、それを写したように微笑んだ。
 「じゃあな。」
 ほとんど同時に軽く手を上げて、背中を向けて別方向へ歩き出す。
 あの連中を殺す羽目にならなかったことを、心のどこかでわずかに残念がりながら、同時に安堵している自分に気づいて、キリコはもう一度薄く笑った。
 ホルスターに収まった銃を右掌の中に確かめて、宿舎へ向かう足を、そのまま早める。
 今日も暑い1日になりそうだった。

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