Pain
ヂヂリウムの光線を浴びる時は、大抵微睡むように目を閉じている。キリコが傍にいれば、彼をずっと見ていたくて、身動きもままならない細長いカプセルの中で、必死にその姿を追う。けれど時々、キリコが見せる、ひどく痛ましそうな表情は、フィアナの胸を刺す。疲れた振りで目を閉じ、キリコのその表情を見ずにすむように、ほのかにあたたかい光線に身を任せて、先のことを考えないように、心も閉じてしまう。
必要な時に必要なだけヂヂリウムを浴びることがなかなかできず、禁断症状に、フィアナの体は弱る一方だった。体の麻痺が進むと、浴びるヂヂリウムの量を増やす必要があり、けれどそれもまたままならず、近頃では、カプセルへの出入りは自力でするけれど、そこまで歩くには誰かの手が必要だった。
カプセルに横たわる前に、フィアナは必ずキリコを抱きしめる。キリコも、フィアナを抱きしめる。入った時には動いた腕が、出て来た時に、あるいは次入る時に動いているという保証がないから、まるでこれが最後だと、言わずにふたりは理解して、一体いつまでこんなことが続くのかと、口にはしないのがふたりの精一杯だった。
フィアナをカプセルに入れたキリコは、ひどく青い顔をして、鬱陶しそうに長い瞬きを繰り返していた。時々奥歯を噛みしめているのが、頬に浮かぶ線でわかる。フィアナがいたわるように首筋に手を当てると、そちらへ顔を傾けて、キリコは数瞬、まるで眠るような表情で目を閉じた。
気分が悪いと、ひどい怪我をしていても滅多と面には出さないのに、今日はフィアナをカプセルに入れると、キリコは肩を丸めて部屋を出て行った。
疲れているのだろうかと、フィアナは光線を浴びながら考える。ヂヂリウムを手に入れる算段で1日が終わる。買えるならまだいい、そこにあるとわかっていても、売ってくれるとは限らず、軍に追われているキリコたちは、大っぴらにヂヂリウムを欲しがっていると宣伝して歩くわけにも行かない。闇商売の人間たちへ声を掛ければ、まず間違いなく足元を見られるか、軍へ通報されるかだ。
町々を流れてゆき、先々で身を隠す。必死でヂヂリウムを調達し、少しでも体の麻痺が止まるように、フィアナ以上に必死なのはキリコだ。
彼を苦しめている。
そう思っても、今ではキリコの許から離れることもできず、そしてキリコを失う痛みには決して耐えられない。
一緒に、生きてさえいれば。気分のいい日には、そう思いもして、それを口にし合うこともある。ほんとうに、他には何も必要のないふたりだった。けれど生きると言うことは、今では戦場で生き延びることではなく、必要なヂヂリウムを手に入れることになってしまっている。
時々ふと、ATで戦場を駆け抜ける方がよほど気楽だったと、思うことがある。戦争を、普通の状態として生まれ育ってしまったふたり──だけではない──は、戦いのない時間に馴染めず、ヂヂリウムの入手も、場合によっては、キリコにとっては擬似戦争なのかもしれない。戦いの中でなければ、呼吸の仕方すらわからない彼だと、フィアナは時々感じた。
自分たちが、政治の駆け引きの道具や、戦争の武器として使われることさえないなら、戦場へ放り込まれることに否はない。そのように作られて生まれたフィアナであり、そのようにされてしまったキリコだった。
そんな自分たちのことを、悲しいと感じながら、本能が戦闘を求めてしまう。戦いたいわけではない。けれど、人が生きるために呼吸をするように、フィアナにもキリコにも戦いが必要だった。それ以外の生き方を知らないふたりだった。
フィアナは、両手で顔を覆い、視界を遮った。誰もいない部屋でひとり、カプセルに横たわってヂヂリウムの光線を浴びながら、戦争のないどこかへ行けたらと思う。戦いのないところ。ふたりを利用しようとする誰もいないどこか。そんなところなら、こんなことを考えずに、キリコだけを見つめていられる。戦場を恋しく思うことなどなく、ごく普通の日々を、ごく普通に過ごすことに、否応なく全身が馴染んでゆく、そんなどこかへキリコと行ければいいのに、とフィアナは思う。
そしてキリコは、そこで幸せになれるだろうか。互いさえいればいいと、そうは思っていても、ほとんど本能のように戦いを求めている彼が、いつかATも銃もない世界に、馴染み切って、何もかも忘れて、生きてゆける日が来るのだろうか。
キリコにそう問うのは、自分自身への問いと同じだ。フィアナは、覆った掌の内側でぎゅっと目を閉じて、作った闇をもっと近くに引き寄せようとした。
戦わない私に、一体価値があるのか。
今では、武器であることをやめて、ただのお荷物だ。自力では歩けず、いずれは呼吸もできなくなる。戦いの中で彼と出会って、戦いの中で互いを知って、そうして戦うことをやめて今、一体何が変わったと言うのだろう。
キリコ、あなたは幸せなの? こんな私でも、あなたは幸せなの?
その問いは、鏡に向かうように、また自分に跳ね返って来る。戦うことを決して捨てられないキリコと、どこへ行けるのだろう。キリコさえいれば、自分は幸せなのか。戦いを求めずにはいられない、時には自分に背を向けても、戦いの中へ走り込んで行かずにはいられない彼と、ここからどこへゆけるのだろう。
どこへ、と思って、そこで考えるのをやめた。
こんなはずではなかった、それだけは言ってはいけない。完全に幸せではないことが、つまり不幸と言うわけではない。まだ、キリコを抱きしめることができる。一緒にいることができる。少なくとも今日、明日を迎えられると確信がある。
だから、今はそれで充分だ。明日が来れば、また希望が持てる。
ひとりで部屋を出て行ったキリコへ心を移して、フィアナは顔から手を外し、少し眠ってしまおうと目を閉じた。
こんこんと、カプセルの扉を叩く音が聞こえる。
光線の放射は終わっていた。目に突き刺さる明かりを気にしながら、フィアナはそっと目を開けた。
正面を向いたままの顔の前に、掌が広がる。とても大きい。キリコの手ではない。フィアナは、掌の持ち主を探して顔を横へ向けた。
シャッコが、微妙に視線をずらして、フィアナを見下ろしている。キリコはいないようだ。フィアナは不思議に思って、視線をうろうろと移動させた。
「キリコは来ない。」
キリコと同じくらいぶっきらぼうなこの大男の声は、カプセル越しには、濁って歪んで聞こえる。フィアナは形の良い眉を寄せた。
「キリコはどうかしたの?」
言うと同時に、シャッコがカプセルを開けた。
「キリコは?」
体を起こし、全裸をできるだけ隠しながら、フィアナは同じ問いを繰り返した。
シャッコはフィアナの顔にだけ視線を当てて、広げた薄い毛布でフィアナを包み込もうとする。その手に従いながら、フィアナはまた訊いた。
「キリコはどこ?」
両腕も毛布の下に収めて、そうしてシャッコは、フィアナの素肌にはほとんど直接触れずに、彼女を軽々と抱え上げる。
「例の頭痛だ。薬を飲ませた。」
シャッコの両腕に乗るように抱き上げられて、高さにちょっと驚いてフィアナはそこでつい体を縮め、シャッコを上目に見上げるけれど、シャッコは正面を向いたまま、フィアナの方を見ない。
部屋を出て暗い廊下を歩き出して、シャッコは無言のままだった。
ATに乗り続けていると、その構造上、操縦者は常に脳が縦揺れの状態になり、脳震盪を引き起こす場合がある。長期乗り続ければ、ATから降りても脳の揺れが治まらず、頭痛や吐き気の症状を表わすことがしばしばあった。
キリコもその例に漏れず、時折ひどい頭痛に見舞われて、それが始まれば身動きできなくなる。シャッコは、体の大きなクエント人が鎮痛に使う、麻薬に近い薬を持っていて、キリコには効き過ぎる──痛みを抑えるより先に、いわゆる"飛んだ"ような状態になる──ので滅多と使わないのだけれど、今日はキリコの苦しみ具合を見かねて、ほとんど無理矢理のように、自分が使う時の半量を飲ませた。
気絶したように眠ってしまったのが、痛みのせいなのか薬のせいなのかわからなかったけれど、眠れるなら大丈夫だろうと、ベッドに放り込んでおいた。
AT乗りの末路が、多くは酒びたりの廃人なのは、この痛みのせいだ。自分の身の安全など二の次でバトリングに没頭し過ぎるのも、金のためだけではなく、ATに乗っている間は、興奮状態で痛みを感じずにすむからだ。武器を背負った棺桶と言われるのは、中にいる操縦者の安全などまったく考慮されていないその作りのせいだけではなく、こうして、乗るのをやめようと、後遺症に苦しんで廃人になるより他ないからだ。
傭兵の多いクエントでは、だからベルゼルガをクエント人専用機として開発し、できるだけ長く安全に傭兵でいられるように、機体の安全性と安定を高めた。ありがたい心遣いではあるけれど、シャッコには皮肉のようにも思える。
PSであるフィアナも、ATの構造上の欠点──クエント人以外は、そう思っていないようだ──の影響を抑えるために、恐らく改造の段階で身体(しんたい)を強化されているのだろう。キリコのような影響を受けているようには見えない。
「少し、日を浴びるか。」
シャッコは、できるだけそっと歩きながら、静かにフィアナに訊いた。
「ええ。」
ひと拍考えてから、フィアナがうなずいた。
二の腕に、フィアナの髪が触れる。冷たいのは、彼女の体温が低いせいか、それとも女の髪はこんな風に冷たいのかと、シャッコは考えながら、階段へ向かって、薄暗い廊下を右に曲がる。
午後はまだ浅く、人影など見たこともないけれど、それでも辺りに気配がないか窺ってから、シャッコは日向と日陰の境に、壁にもたれ掛かれる位置に、フィアナを降ろした。
「いい天気なのね。」
山と積まれたがらくたや瓦礫に、ひどく穏やかな視線を当ててフィアナが言う。シャッコはフィアナの正面から4歩ほど離れて、地面にじかに腰を下ろした。
「おとといまではずっと雨だった。」
「そう。」
地下の部屋からほとんど出ないフィアナは、淋しそうに相槌を打つ。
日に当たらない肌は白いまま、素足の爪先は、剥き出しのコンクリートの上で痛々しく見える。シャッコは、その足に、ブーツを履かせるキリコの手元を思い浮かべていた。
「キリコは大丈夫かしら。」
「夕方までには目を覚ます。」
「・・・可哀想なキリコ。」
始まればキリコが七転八倒するあの頭痛のことを言っているのではないと、声音に聞き取って、どこを見ているのか、ぼんやりと空ろな視線をフィアナが漂わせているその先へ、シャッコも視線を合わせようとした。
フィアナは、毛布を体にもう少し近く巻きつけ、そうして、その下で自分の体を抱きしめた。どれだけキリコと抱き合っても足りない。これまでも足りていたことはなかったし、これからも足りる時はないだろう。今眠っているなら、せめて穏やかな夢を見ていて欲しいと、キリコのことをまた思う。
「キリコは・・・。」
油断していて、うっかり口が滑ったとでも言うように、言葉がそこで不自然に途切れた。フィアナは視線を斜め下にずらして、自嘲のような笑みを薄く浮かべた。
「私でよかったのかしら。」
続けるつもりの言葉が続いてしまったのは、きっとあまりに陽射しが気持ち良かったからだ。重くなる頭を肩の方へ寄せながら、フィアナは、ほとんど放心するように体の力を抜いた。
「あいつもきっと同じことを考えている。」
シャッコの声は穏やかだったけれど、鋭く返って来る。
気を張っていないと、泣きそうになる。歯の根をしっかりと合わせて、フィアナは唇を強く結んだ。
「あいつは、あんたがいないと生きて行けない。あんたは、あいつがいないと生きて行けない。」
「私が死んでも、あの人は生き続けるわ。」
「体が生き続けるのと心が生きているのは違う。」
そう言った時だけ、ほとんど射るように、シャッコはフィアナを真っ直ぐ見つめた。
私は、とフィアナは唇を動かした。その後はしばらく続かず、シャッコはフィアナから視線を外し、フィアナも別の方向へ顔を向ける。
日向のぬくもりを楽しんでいる振り──振りだけでは、決してなかった──で、明るい方へ向かって目を細め、けれど唇の震えを隠せない。喉元へ突き上げて来る涙の塊まりを、フィアナは必死で飲み込んだ。
そして、言葉が唇を滑り落ちる。
「・・・怖いの、キリコがどうなってしまうのか、考えると怖くて仕方がないの。私が死んでしまったら、キリコがどれだけ──」
言ってしまうと、喉の震えが止まらなくなった。形のなかった不安が、言葉にしてしまうと大きさを増して、明日にも自分が死んでしまうような、そんな予感にとらわれる。
恐ろしいのは自分が死ぬことではなく、キリコを置き去りにしてしまうことだ。一緒に死ぬかとキリコは訊いた。一緒に生き延びて一緒に生き続けるとフィアナは答えた。互いに、少しだけ嘘をついたことになる。
生まれる時も死ぬ時も選ぶことはできない。生まれる時も死ぬ時も、ひとはひとりぼっちだ。
シャッコは何も言わない。何の表情も浮かべず、泣きそうになっているフィアナを、ただ見つめていた。
キリコが仮にフィアナの後を追うなら、それを止めないだろうとシャッコは思う。互いを生かそうとしているこのふたりの必死さには、何事にも動じないのが生来のクエント人のシャッコでさえ、心を打たれている。
もし誰かが突然、フィアナを生かしたければおまえが死ねとキリコに言えば、キリコは即座に、何のためらいもなく、自分の頭を銃で撃ち抜こうとする。そうして、そこで考える。自分のいないフィアナの生に、どれほど意味があるのかと。
ふたりでなければ意味がない。生きるのも死ぬのも、ふたり一緒でなければ意味がない。それほど、このふたりは分かち難く結びついている。
かわいそうに、とシャッコは、ふたりのことを思った。ひとつ身ではなくふたつ身の、ばらばらのふたりで在るふたりを、シャッコはかわいそうにと思った。
ひとりで生まれるべきだった。ふたりが結ばれ合ってひとりなら、一緒に生きて、一緒に死ねた。ふたりに分かれてしまったばかりに、生きることも死ぬことも苦しみにしかならない。
かわいそうにと、また思った時、シャッコはそこから腰を上げて、フィアナの方へ近寄っていた。
慰めのために掛ける言葉はなく、彼女を抱きしめるのはキリコの役目だから、シャッコはフィアナの前にしゃがみ込んで、その冷たい髪にそっと掌を置いた。
うつむいた彼女は、いつもと違って少女めいて見え、切り揃えた前髪と長いまつ毛の向こう側に、かすかに見える薄茶の瞳が揺れているのを、シャッコは下目に見ている。
そうして涙を耐え切った後、フィアナは不意に顔を上げ、無理に爽やかな笑みを浮かべると、
「キリコのところへ、連れて行って。」
とシャッコに言った。
シャッコは、ここへ来た時と同じ形に、そっとフィアナを抱き上げた。壊れ物のように、両腕の上に静かに乗せると、来た時とは逆に、フィアナは全身をシャッコに預けて、さっきシャッコが撫でた髪を、肩の付け根に寄せて来る。
シャッコが歩き出すと、フィアナは喉を伸ばして、名残を惜しむように自分のいた日向をもう一度眺めた。
「私は、キリコを愛するために生まれて、生きているの。」
シャッコにとも、鮮やかな陽射しにともつかない言い方で、奇妙な明るさでフィアナが言った。
シャッコは足を止め、フィアナを見下ろして視線を合わせ、
「あいつもそうだ。」
そう言って、また歩き始めた。
毛布の下で手の位置を変え、フィアナは、指先で軽くシャッコの左胸に触れる。そうして、今度は声をひそめて、どこか淋しげな響きで、
「あなたも、キリコを好きなのね。」
今度は歩く足を止めず、フィアナの方を見ずに、シャッコは正面を向いたままだった。
「ああ。」
抑揚を欠いた声が、短く答える。
階段を降りながら、それきり、ふたりはもう何も言わなかったし、視線を合わせることもしなかった。