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#ボトムズ版深夜の真剣お絵描き60分一本勝負
2016/10/8開催 お題: 赤
* 幻影後捏造。

唇に赤

 ココナが差し出した酒のグラスを、キリコは断らずに受け取った。赤い果実の、赤い酒だ。底から指の幅ふたつ分、キリコはグラスの縁に唇を近づけて、きちんと酒をその間に注いだ。
 勧められたら素直に、わずかでも口をつけた方が良いと、さまよう間に学んだのか、酒を口にするキリコを少しの間不思議なものでも見るように眺めてから、ココナは自分のグラスを手に、テーブルのあちら側へゆく。
 ヴァニラとゴウトは同じ酒を、もっと大ぶりのグラスになみなみとついで、こちらは酔いの赤さはまだ顔には出さない。
 酒に濡れた唇をキリコは指の腹で拭い、それでもう礼は果たしたと言うつもりか、手にしたグラスへは目もやらず、ゴウトとヴァニラがあれやれこやと声高にする話へ耳を傾けている。
 そして時々ちらりと、酒を舐めながら話には口を挟まないココナへ、何か懐かしげな視線を送って来る。
 主にはヴァニラのために、淡く光るように塗った唇の色を見ているのだ。顔の造作に溶け込むその色は、今では少し艶を失っているココナの髪の赤さには反発せず、もう20も若い頃なら、冗談めかして同じような真っ赤に唇を染めたこともあったのだ。
 それを見て、写したように頬を染めたヴァニラの意外な純情さを、あの時はまるで年上の女のように眺めたものだと、ココナは思い出している。
 キリコが今思い出しているのも、同じ赤い唇の、けれど違う女(ひと)だ。
 ──フィアナ。
 酒に濡れたキリコの唇が、決して動かずに形作る、その名。見つめられた人の魂を吸い込むような、濡れ濡れとした大きな瞳。咲き誇る大輪の花のようでいて、あの瞳が誰かを見下すような色に染まったことはなく、赤い唇は穏やかに微笑むか、意志強く引き結ばれているか、そのどちらかだった。
 ふたりが肩を並べた時の、他の何者も寄せつけない空気。結ばれる運命と言うものがあるのなら、それはまさしくフィアナとキリコのためものだった。
 赤い唇。同じように唇を染めた女は他にもいたのに、なぜ彼女のそれは、今も鮮やかに、まるで目の前にいるように思い出せるのだろう。考えながら、ココナはまた赤い酒を舐めた。
 子どもたちはもう、先に自分たちの部屋で眠っている。キリコの連れて来た赤ん坊もだ。
 赤ん坊を連れて、ヌルゲラントから姿を消し、その赤ん坊を連れて、ココナたちの前へ再び姿を現し、その間にキリコが必死に世話をしたにせよ、戦争しか知らないキリコにまともに赤子の面倒など見れるはずもなく、ここへ着いた時には幼な子の尻はかぶれてただれて真っ赤だった。
 その尻を丁寧に洗い、薬を塗り、おむつをまめに替えてやったのはゴウトだ。久しぶりの赤ん坊にすっかり鼻の下を伸ばし、実の孫のように抱いて離さずに、キリコに赤子のあやし方まで教えようとする始末だった。
 キリコは、自分の救った神の子とやらに特に愛情を注ぐと言う風でもなかったけれど、決して冷淡と言うわけではなく、抱えた小さなかたまりが自分に笑い掛けて来れば、それはそれで素直に嬉しいらしく、数度、赤子に向かって薄く微笑み返しているのを見掛けた。
 ココナはそれを自分だけの秘密のように思って、ひとり赤ん坊をあやすキリコのその背の傍らに、もうひとつの背中の幻を呼び寄せたものだった。
 キリコは、想像したことがあるのだろうか。フィアナとふたりで生き続け、その先で、今ココナとヴァニラがそうしているように、子どもたちに囲まれた暮らしをすると言うことを、考えたことがあったのだろうか。そんな未来もあったに違いないと、言葉にすらできないふたりだったと知っていて、ココナは考えずにはいられなかった。
 キリコが、手持ち無沙汰をごまかすように、グラスを持ち上げてまた口元へ運ぶ。赤い酒を、ほんのひと口、キリコが飲む。
 上向いて伸びた喉の皮膚の若々しさを、今のココナは痛々しく見つめるしかできず、この青い髪にもいつか霜の降る日が来るのだろうかと、自分の赤い髪に指先を滑らせて考え続けた。
 その時、キリコの傍には誰がいるのだろう。あの赤ん坊か。それとも──。
 フィアナ以外に、そこに立つ誰も想像できず、ココナは胸の奥を疼かせる。キリコのために、ココナの胸は痛んだ。そしてフィアナのために、不意にこみ上げて来た涙を耐えるための瞬きを、長く、一度。
 あの唇が動いて、キリコと呼んだ。誰が聞いてもそうと分かる、フィアナの、キリコへの想いの張り裂けそうな声の響き。あの声を痛みばかりで聞いていた時を、今では甘酸っぱい気持ちで思い出すことができる。
 ココナにとっては、大切な思い出である、それ。キリコにとっては、いまだ真っ赤な血を流し続ける傷である、それ。
 今立ち上がってキリコの傍へ行って、その頭を抱え込んで撫でてやりたいと思った。大丈夫だと、一体何が大丈夫なのか自分でも分からないまま、ただキリコを慰めるために、あの青い髪をくしゃくしゃにしてやりたいとココナは思った。
 キリコが赤ん坊を抱くのと同じに、キリコを抱きしめて、微笑みかけたい──そう思った時、キリコが突然後ろを振り向き、
 「・・・泣いてる。」
とぼそりと言い、がたりと椅子から立ち上がった。
 誰よりも早く赤ん坊の泣き声を聞き取り、キリコはもう部屋の方へ体を回している。
 ヴァニラが止めようとするのを手のひと振りで断って、キリコはまだ酒の残ったグラスをその場へ置いて、お休みと短く言い残した。
 酒の揺れるグラス越しに、少し歪んだキリコの後ろ姿を見送って、ココナはその背を、けれど今は淋しそうだとは思わずに、赤い酒がキリコの右肩へ掛かるように自分の顔の位置を動かしてから、おやすみと小さく言う。
 この場にいる誰も血の繋がりはなく、キリコと神の子とやらもただの他人だ。それでも、肩を寄せ合って生きることはできる。キリコも、そんな生き方を選ぶのだろうか。
 キリコの相変わらずの素っ気なさに唇を尖らせているヴァニラの肩へ腕を伸ばしながら、明日は、ヴァニラのために赤い口紅を選ぼうかと、ココナは思った。思いながらまた、赤い酒をひと口すすった。

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