Silence
肺の中に、空気と一緒に、自分の血が流れ込んで来るのがわかる。ああ、おしまいだ、とポタリアは思った。
「死んじゃだめ、ポタリア!」
叫ぶ声はココナだ。少し薄く細くなった、けれど変わらずに可愛らしい声。昔は、酒を飲みながらこの声を聞くたびに、思わず微笑ましくなったものだ。
ヴァニラとゴウトの声も聞こえる。とてつもなく遠い。まるで国境の向こうから聞こえて来るようだと、酸素の行き渡らない脳の中の、少しずつぼやけてゆく意識の中で、ポタリアは考え続ける。
ああ、クメンだ。あのクメンだ。ファンタム・クラブだ。キデーラがいて、シャッコがいて、あの最高にいやな上官だったカン・ユーがいて、そしてキリコもいた。モニカもだ。
あれはいつのことだった。どれだけ前だ。自分は一体、あれからどれほど、どの方向へ進んで来た? 自分の選んだ道を、真っ直ぐに進んで来たか? 敵も作った。味方を失い、友も去って行った。それでも、私は──オレは、自分の信じた道を進んで来たじゃないか。そうだろう。
横たわる地面。久しぶりの、固い平たい冷たい地面だ。あの頃は、ベッドはいつもこれだった。ATの中で体を縮めて眠るのと、どっちがどれだけましだろうかと、キデーラと軽口を叩き合った。
あの頃ポタリアは、ただのAT乗りだった。戦場で使い捨てにされる、ただの兵隊だった。運良く生き延びて、その後、兵士でなくなった後は、国を統べるためにこの道を選んで、そして自分の理念のためから、国民のためにと、少しずつ眺める方向が変わって行った。
ポタリアはもう、泥の中を這い回る兵士ではなく、はるか高みから市民を見下ろす、市民に見上げられる大統領だった。
ATに最後に触れたのはいつだったろう。バトルスーツはもう手元にすらなく、今着ているのも、布から仕立てられた、大統領にふさわしい威厳ある、動きやすさなど二の次の代物だ。それに体を縛られたように、今は動けなかったし、胸の辺りも締めつけられたように、もう呼吸もひどくしにくい。
喉をふさぐ血の固まりから、かすかに酒の香りがした。ヴァニラが飲ませてくれたカクテルだ。ああ、美味かった。血の筋が端からこぼれる唇の端が、思い出して軽く上向く。
これは、悪くはない死に方だ。地面に横たわり、見知った顔が自分を覗き込んでいる。死ぬなと、叫ぶ声は遠くなるばかりだけれど、これでいい、もういいんだと、ポタリアは伝えるために腕を上げようとする。もう力が入らない。
自分はもっと以前に、もっと惨めな死に方をするはずだった。そう予感していた。血を流して地面に放り出され、誰にも看取られず、誰にも惜しまれず、ただ命を失くした体は荷物のように集められどこかへ運ばれ、無名の死体の元兵士としてどこかへまとめて埋められる。
深く掘った地面の下、自分と同じように死んだ名無しの兵士たちと、押し合いへし合い、よお、おまえも死んだのか、爆発か? 手足は揃ってるのか? そいつはラッキーだったな。おれは頭が半分吹き飛ばされちまって、顔の見分けもつかなくなっちまった。最後の給料はどうなっちまうんだろうな。野卑な傭兵言葉で語られる、死人の繰り言たち。陽気にも下品にも聞こえるその声は、けれど地面の下にただこもり、そしてただ悲しく響く。
そうだ、オレも、そんな風にして死ぬはずだった。
生き延びてしまったから、生き延びた人間には、成すべきことを成す義務があったから、だから国を統べようと思った。できるだけ皆の望む方向へ未来を進めるために、そうして選んで歩き出した道だった。
けれど。けれど。
皆とは誰のことだろう。自分のことか? キデーラたちのことか? ヴァニラたちのことか? カン・ユーやゴン・ヌーたちのことか? モニカたちか? それとも、先に逝ってしまったあの方も、そこに含まれるのか。
殿下。最後のひと息で呼んだのは、やはりあの男だった。細身の、よく磨かれた剣そのもののような、国の太陽でありながら、たたずまいはむしろ月のような、あの男。あの方。
元々それなりの身分であったとは言っても、親衛隊へ起用されたことが、周囲をどよめかせほどの思いがけない昇進だったポタリアを、常に身近に置いて、立場違いの垣根をさっさと取り払い、あの男は、微笑みながらポタリアを、ポタと、からかうように呼んだ。
ポタリアをそう呼ぶ時の彼の、全身に着込んだ重い鎧を脱ぎ去ったような、あの奇妙に軽やかな声。音楽を語る時も、剣の道を説く時も、政治について檄を飛ばす時も、ポタリアに向かう時にはあの声は、どこか解き放たれたように自由の弾みを増し、その言葉も声音も、自分と向き合った時にだけ使われるのだと、気づいたのはいつだったろうか。
年の離れた兄のようにも、教えを乞うための師のようにも、あるいは市井の、何の屈託も必要ない気の置けない友人同士のようにも、彼はポタリアにとってそのような人だった。
自分たちは、生まれた時と場所を少しばかり違えてしまった兄弟のようなものだと、カンジェルマンが言う。酒も入っていない素面の台詞の後で、彼は自分の言葉に頬を赤らめ、つられて、ポタリアも赤くなった頬を伏せた。
あのカンジェルマンとは、真逆の道を選んだ後で、そして彼と同じように進む道の途中で同じようにこうして倒れ、そしてポタリアは予感していた。あの時と同じに、死んだ自分の後を、方向は違っても、誰かが引き継いでゆくのだと。
正しいことなど、この世には何ひとつない。自分が信じたことが正しいのだと、そう常に頭を高く上げて自分の定めた太陽へ向かってゆくしかない。
そうなのでしょう、殿下。
もう、誰の顔も見えなかった。ポタリアに見えるのは、カンジェルマンの幻だけだった。
貴方はちっとも変わらない。私はこんなにも年を取ってしまったのに。
仕方のないことだ。おまえはあれから、ずっと生きていたのだから。
乱れたことなどなかった、きちんと整えられた髪と髭。いかにも高貴な生まれの、泥になど触れたこともないその手。けれど彼は、人の何倍もの苦しみを背負っていた。
ポタリアは、まるで乙女のように恥じらって、老けた自分の姿を見せまいと、慌てて顔を伏せようとする。体は動かない。もう自分では、指1本動かせない。
殿下。もう、よろしいですか。もう、そちらへ行ってもよろしいですか。私はもう、あの頃のように若くはないのです。
カンジェルマンの、剣や槍を振り、そのためにところどころ固くなっている手が、ポタリアの手を取った。血に汚れているその手に眉ひとつ動かさず、ポタリアが憶えているあの穏やかな、けれど厳しい笑みを浮かべて、入り込んだ泥で黒くなった爪の辺りを、撫でるように指の腹が動いた。
私と一緒に来るがいい、ポタ。また一緒に、酒でも酌み交わそう。音楽と政治の話を一緒にできるのはおまえだけだ。
カンジェルマンが、小さく声を立てて笑った。
ポタリアの、待っていた時が近づいている。そして待っていたのは、ポタリアだけではなかった。
生き延びてしまった者の役目はもうすぐ終わる。いろんな仲間たちが先に逝った。まだ生き延びている仲間たちもいる。彼らが、ポタリアが果たせなかったあれこれを、これから背負って生き延びてゆくのだ。
体が軽い。肩に乗っていた重みが消え、ポタリアは、少年のようにそこら中を飛び回りたい気分になった。
ココナ、ヴァニラ、ゴウト、シャッコ。やっと思い出せる名前を頭の中に連ねて、そして、彼らが探していると言う、キリコのことも思い出す。
悪いが、オレは先に行く。おまえたちはゆっくり後から来るといい。ゆっくりだ。急ぐな。急がなくていい。どうせ、いつかどこかでまた会える。
自分とカンジェルマンが、今こうして再び会えたように。
ポタリアの手を取ったカンジェルマンが、まるで祝福のように、ポタリアの額に唇を落とす。
行こう、と声と同時に、手を引かれた。
上下に細くなる視界の中に、ココナたちの顔が見えた。
悪くない生き方だった。そして最悪ではあっても、それほど悪くはない死に方だ。未練はある。それでも、カンジェルマンを恋い慕う自分が、どの自分よりも強く大きかったのだと、この最期の瞬間に思い知って、その愛しい人へ手を引かれて逝けるのなら、文句をつける筋合いはない。
殿下。貴方に会いたかった。こんなにも。こんなにも。
言葉の最後は途切れ、語尾は、ポタリアを抱きしめたカンジェルマンの胸の中へ吸い込まれて消える。
ポタ。
耳元で優しく呼ばれる、親しげに短く縮められた自分の名前。自分をそう呼んだのはこの人だけだったと、いつの間にか力の戻った両腕で、カンジェルマンを抱き返している。
もう、とうに魂の失せたポタリアの体を囲んで、まだぬくもりのあるこの間に、皆がポタリアにそれぞれに触れる。名前を呼び、声を掛け、惜しむ言葉を投げ掛ける。
それを眼下に眺めながら、ポタリアは彼らに、さようならと、もう聞こえない声を放った。