歌う男
傷だらけの表紙は、きちんと革だった。どこか血を思わせるその色が、今は加工された、元は何かの獣の皮膚だったのだと言うことを簡潔に表わしていて、そして同時に、今はもう跡形もない、あの男の手からなる吸血部隊の証の、あの肩の赤さを思わせた。ウォッカムの片手に収まる大きさの、何の変哲もない手帳だ。ずしりと重いのは、表紙も中の紙も、あの男の立場にふさわしい、それなりの品だからだ。
最初のページから、ちらちらと白紙部分を空けながら、ほぼぎっしりと書き込まれた字の連なり。他のどの書類で見た彼の手書き文字よりも、線の細い、乱れの目立つ、ぱっと見には学のない稚ない手に見える、それらの文字だった。
これは、あの男やウォッカムが普段使っている標準アレギウス語ではない。もっと古い、今では使う者など、酔狂な研究者と辺境に住む物好きくらいしかいない言葉だ。
読みにくい字で書かれたそれらは、優しげな言葉と、音読すればまろやかな響きの、詩らしき言葉の塊まりが主だった。そして、ごくごく個人的な、彼は恐らく彼自身以外の誰にも知らせるつもりはなかったろう、日記のような、走り書きの文章たち。
秘密のために、この言葉を選んだのか。あるいは、彼自身の心境を書き写すのに、この言葉の響きが最も適切だったのか。
甘ったるい詩や物語を紡ぐための言葉だ。女性的な、愛や恋を語るのに、銀河にこれほど適した言葉はないだろうと、かつては言われていた言葉だ。戦争には、最も必要のない類いの言葉だ。戦争が始まるはるか前に廃れ、この言葉で描かれた物語や詩や歌も、同時に姿を消した。
この言葉の存在を知る者すら、今ではいないと言ってもいい。
ウォッカムは、この言葉を知っていた。物語を紡げるほどに精通はしていない。けれど、読んでそれなりに理解できる程度に、この言葉を熟知している。彼の母親は、この言葉を美しく音読できる。夫──フェドク・ウォッカムの父親──を失くした後、年老いた、けれどいまだ美しい未亡人として、彼女は不自由な体を心優しい他人に世話されながら、ひとり息子であるウォッカムの訪れを、人生最大の楽しみにしている。
彼女の曾祖母が、この言葉を使う歌い女だった。百年戦争が始まる、はるか以前の話だ。
この曾祖母とやらの時代には、歌を歌って身を立てる女とは、高級売春婦と同義であり、道に立って誰かに拾われるのを待つか、どこかのそれなりのしつらえの部屋で、自分が選んだ客と寝るか、その程度の違いしかなかったにせよ、彼女は道で春をひさぐ女ではなく、幸いにも、金をもらう相手を選べるだけの余裕のある娼婦だった。
手帳をゆっくりと開きながら、ウォッカムは唇の端を曲げた。
ルスケは向こうの部屋で、部下と連絡を取っている。ウォッカムに酒を手渡し、ひとりにしてくれと言われて、なぜともちろん問うことなどせず、分を弁えた所作で部屋を去った。
自分がどこで何をしているのか、最低限伝わるだけの気配は消さない、稀有な礼儀を知るこの部下を、ウォッカムは非常に気に入っている。それにルスケの淹れるコーヒーは、何がどう違うのか、他の誰が淹れたものよりも香りが高い。
次はコーヒーだな、とウォッカムは、酒を舌の上に乗せながら思った。
手帳の中身は、あの男──ヨラン・ペールゼンが綴った詩がほとんどだ。ウォッカムの母親は、
「選んだ言葉は美しいけれど、意味は通じにくいわね。アレギウス語的に書いてあるせいよ。」
そう言いながら、今は細くなった声で、書かれた詩を、ゆっくりと読み上げてくれた。
美しい──あるいは、美しかった──女の声で読まれるその言葉は、黙読するよりも何倍も美しく耳に響く。この言葉は、そんな種類の言葉だ。
ペールゼンの作らしい詩は、どれも、驚くほど清純で純情な恋の詩ばかりで、この手帳が誰の物か知らなければ、どこの少年が学校で書いた宿題かと、そう思うところだ。
ウォッカムが、ペールゼン・ファイルと名づけたあの記憶ディスクと一緒に押収した、これはペールゼンの私物の中から出て来たものだ。
ペールゼンの所有するあらゆる文書の解析に当たったメンバーの、誰も読めなかったこの内容を、ウォッカムは報告とともに手に入れて、初めて見た時は声を立てて笑ったものだ。これはただ古い言葉で書かれた、ひたすら個人的な覚え書き──ペールゼン・ファイル自体も、単なる覚え書きに過ぎないと、ペールゼンは主張した──と判明して、しかも内容のほとんどがつたない恋の詩と来ては、ペールゼン・ファイルの中身を解読されるよりも、こんな趣味があると公表される方が痛手なのではないかと、ウォッカムは最初真剣に考えたほどだった。
ペールゼンは、彼、と誰かのことを表現し続けていた。感情を表わさない彼。冷たいばかりの彼。自分を見返ることをしない、冷血で冷酷で、恋など知らない彼。どれだけ心を傾けようと、その熱さで溶けることはない、彼の心。
これはまるでペールゼン自身のことではないか。ウォッカムは、眉を寄せながら詩を読む。今では、この彼が一体誰のことか、ウォッカムにも見当はついている。
いとしいひと。あなた。おまえ。様々な呼び掛けの先は、ペールゼンが追い求めて止まない、例の異能生存体とやらだ。
何と言ったかな、あの男。
ウォッカムは、気づかず声に出していた。まるで、いつもなら傍らにいるルスケにそう訊くつもりのように、訊けばすぐに返って来るはずの答えがなく、問いが空回りしてから、ウォッカムは自分がひとりであることに気づいた。
「ああ、そうだったな。」
ルスケの声が、かすかに聞こえるドアの向こうへ頭を振って、自分の振る舞いを笑う。
キリコと言ったか、あの男。
笑顔など想像のできない、感情の消え切った表情。空ろな瞳。生き生きと体が動くのは、敵を攻撃する時だけだ。髪と瞳の色の青さが、あの男をいっそう人工の機械人間のように見せる。自分の孫のような年齢の男──少年とすら言ってもいい──の、あるとも知れない心を手に入れようと、恐ろしいほど卑屈になっているペールゼンの姿は、詩の中でしか見れないとは言え、十分な見ものだ。
どんな時も傲然と顔を上げ、どれだけ叩きのめされようと、平然としているように見えるあの男が、こんなちゃちな詩を綴り、妄執めいた恋に狂った姿を、生々しく晒している。
相手がどんな大した奴かと思えば、ただの薄汚いAT乗りの若僧だ。ただ、この若僧は、ペールゼンによれば、この宇宙にただひとり発見された、死なない兵士だ。
物事を、ごく自然に分析せずにはいられない性質で、ウォッカムはペールゼンを知った最初から、その言動から彼を分析し続けている。病的に熱心な学者であり、当然ながら、研究の結果を出すための犠牲には大した注意を払わず、罪悪感もない。ある種の天才であることは間違いなく、研究対象以外にはほとんど興味を示さない。冷酷で、理想主義者でありながら現実主義者でもあり、彼のひと言は百万の軍隊を美しく動かす。カリスマの塊まりであり、彼の、究極まで研ぎ澄まされた感性は、美的ですらあった。
吸血部隊と揶揄された、第24戦略機甲歩兵団特殊任務班X-1、通称レッドショルダー、その名の通りおぞましい殺人集団だと言うのに、彼の手の下で動く兵士たちの、あの機能美溢れた動きと来たらどうだろう。徹底的に狭められた目的のために、ひたすら鍛えられた彼らは、戦場での破壊と殺人を、ほとんど芸術の域に高めている。
あれは間違いなく、ペールゼンの功績だ。ペールゼンだからこそ生み出せた、戦慄すべき美だ。そしてキリコも、ペールゼンの功績のひとつだ。
あのペールゼンが、ほとんど気も狂わんばかりに執着する、あの兵士。あの若僧の足元に這いずり、傷だらけで埃だらけのブーツの先に、口づけることすら厭わないペールゼンの姿が、ウォッカムにははっきりと見える。
ウォッカムにとっては、ほとんど不快な、あのAT独特の臭い。機械油やPR液とやらや、煤や埃や砂や泥と言う、ウォッカムは生まれてこの方、まったく縁のないそれらに、浸り、身に浴び、臭いを染みつかせた、薄汚い彼ら。キリコと言う若僧は、その彼らのひとりに過ぎない。
その若僧の足元に、惨めに這いつくばって、与えられる望みのない愛を乞うペールゼン、恐ろしいのは、それが分析の結果の単なる想像ではなく、現実に、あのキリコと言う兵士がそれを許すなら、ペールゼンは喜んでそれをするだろうと、ウォッカムには確信がある点だ。
あのペールゼンが、一兵士の足元へ膝を折る。そして、切々と愛を訴え、受け入れられないと知りながらも、彼からの愛を求めずにはいられない。
愛だと。
自分でそう考えながら、ウォッカムは、ペールゼンのことを嘲笑う。
嘲りながら、ぴりぴりと、自分の想像が神経の端を焼くのを感じている。知らずに、手の中で、ペールゼンの赤い手帳を握りしめていた。
ペールゼンが這いつくばる足元は、あの兵士のものではない。この、フェドク・ウォッカムの足元であるべきだ。
愛を乞うことなど、考えたこともないウォッカムには、愛を乞われることしか想像できず、それは、ペールゼンによって為されなければならないことだった。
自分の足を抱え込み、そこから自分を見上げる、ペールゼンの姿。ただの惨めな老人に見えて、それは間違いだ。いまだ頭の中は、ウォッカムの知る誰よりも切れ、指の先まで情熱に溢れ、今彼は、その情熱を捧げる先を間違っているだけだ。
あの情熱は、自分にこそ相応しい。ウォッカムはまたひとりで笑う。
そうなるはずだ。いずれ、近いうちに。
ペールゼンは知るだろう。ウォッカムが、彼よりも上手であることを。ペールゼンのあの頭脳と情熱は、まだまだ利用価値が十分にある。ただひとつ彼に足りないものは、若さだ。そしてウォッカムは、それを確かに持っている。
ウォッカム自身には、ペールゼンの老いなど障害にはならない。あの男は今でも、ペールゼンであると言うだけで、ウォッカムのこの興味に十分値いする。
あの男が生み出す美、あの男自身が内抱する美、ウォッカムは、それを欲している。
ペールゼンは、自分の書いたこの詩を、美しく音読することができるのだろうか。それとも、この読みにくい手書き文字と同じほど、つたなくこの言葉を発音するのか。それはそれで、またそそる眺めだと、ウォッカムは思いながら微笑む。
手帳の後ろの方に、ひっそりと綴られた、恐らくペールゼンがひた隠しにしたいだろう、ある事実。胸の内にとどめておくには、ごく個人的に重過ぎたらしい、切ない彼の秘密。
キリコへの、重苦しい愛の深さのせいなのかどうか、あるいは、逆に、その秘密がキリコへの愛を、痛々しいほど清純にとどめて、だからこそこんな深さへもぐってしまったのか。
ペールゼンは、性的不能者だ。最近の話ではない。手帳によれば、もう何十年も、彼はその秘密と共存している。
レッドショルダーへの、彼の、ほとんど倒錯的とも言える傾倒は、存在を知った最初から、ウォッカムにはその秘密の匂いを知らせていたけれど、医療関連のファイルにそれを示す記述はなく、果たしてそうであったところで、ペールゼンの頭脳の価値には何の影響も及ぼさない、単なる個人的な事情程度と、ウォッカムは思っていた。
けれど、ペールゼンの、このキリコへの妄執を知った後では、ペールゼンが性的に不能であると言う事実は、恐ろしく深い意味を持つことになる。
キリコを欲しながら、ペールゼンはそれを果たすことができない。あの情熱が、ただ相手を眺めているだけでなだめられるはずもない。だから、ペールゼンは解放を破壊の効率化の中に求めた。洗練された効率化は美にさえたどり着き、そして、最後の地点で、ペールゼンが求めたのは、キリコただひとりのための、他の者たちの死だ。
完璧なる破壊。そこへただひとり生き残る、キリコと言う、特別な存在。誰にも──ペールゼンにも──破壊されることのない存在。触れられない。誰も。ペールゼンだけではなく、誰も、キリコに触れることはできない。
性的な関わりそれ自体が、破壊に繋がるものだと考えるウォッカムは、ペールゼンの目の前でキリコを殺すことを夢想する。
ペールゼンの老いも、性的不能も、ウォッカムを気を殺ぐ何にもならず、ウォッカムは、キリコを破壊して、ペールゼンを手に入れることを夢想する。
死なないと言うなら、それでもいい。所詮ただの兵士だ。
ウォッカムは違う。フェドク・ウォッカムは選ばれた人間だ。聡明さと名誉と地位と、そして力と、死なない兵士とやらを手足として使うに相応しい立場にいる。ペールゼンがひざまづくべきなのは、死なない兵士を思う存分使うことのできる、ウォッカムの方であるべきだった。
それを、きちんと教えてやる。誰の愛を乞うべきか、私が教えてやる。
愛を乞われる心地良さにひたりながら、ウォッカムは、両手の中に、ペールゼンの秘密の手帳を開いた。切ない恋を歌う詩を選び、優雅に足を組んで、そこへ開いた手帳を乗せ、ウォッカムは、静かな声でその詩を声に出して読んだ。
ペールゼンが愛を訴える先を、自分の上に思い描きながら、ウォッカムは、自分の母親が読んでくれた声をなぞって、痛々しいほど清純な恋の詩を読む。
彼の母親ほどは情緒のこもらない声と発音で、男の声では、そもそも言葉の円みが生かし切れはしないのに、ウォッカムはそれには気づかない。
ペールゼンが選んで綴った愛の言葉を、ウォッカムは読み続ける。ペールゼンが自分に語っているのだと言う、麗しい錯覚を手元に引き寄せて、ウォッカムの氷のような瞳は、甘く美しい言葉の連なりの上を、いつまでもいつまでもたどり続けている。