Survival
すでに全軍撤収後の極北基地は、風雪を防ぐ役割はまだ果たしてはくれても、快適と言う点では野営とあまり違いはなかった。どこも空っぽの部屋は、どれを使おうと申請も許可も必要ない。それでも、ただっ広い──人気がない今は特にそうだ──基地の中を、しかも冷気ですぐに手足の先の痺れるような基地内を延々と歩く気には誰もならず、AT格納庫からいちばん近い、毛布やシーツがベッドに残されていた部屋に、バーコフ分隊は全員で落ち着いた。
暖房はまだ効いているけれど、それは基地内が人で溢れていた時に設定された温度のままらしく、ワップを含めて6人きりになったほぼ空の基地は、そんなものではもう温まり切らない。
さすがに吐く息が白いとはでは行かないけれど、体の芯から温まると言うわけには行かず、横たわるベッドも、マットレスの中心から冷え切っていた。
「明日に備えてちゃんと寝ておけ。指先はすぐ使えるように温めておけよ。」
バーコフが隊長らしく、他の部屋から毛布を余分に持ち込んで来てザキに与えながら、ザキにだけではなく、他の全員にも向かって言う。
「凍死しねえだけで精一杯だぜこんなのじゃ。」
アンダーシャツ1枚の剥き出しの腕をこすり上げながら、そこを毛布できっちり覆ってゴダンが毒づいた。
コチャックも、同意を示すように何か口の中でもごもご言い、ザキにだけ余分に毛布が与えられるのは差別じゃないかと、ザキとバーコフの両方に突っかかって、それにゴダンがうるせえと声を荒げる。ザキは、コチャックの言い草に、バーコフが持って来た毛布をコチャックに向かって投げつけて応え、それに怒ったコチャックがザキのベッドへ向かって走って来るのを、バーコフが体を張って止める。
こうでなければこの分隊ではないように、相変わらず全員がその他全員に向かって殺気立ち、隊長のバーコフが仕方なく皆の仲立ちをするのに、この全員が集められて以来、そのせいかどうか、3つも4つも老けたように見える。
今は疲れと寒さで、全員特にひどく苛立っていた。
とは言え、キリコはいつもの我関せずのマイペースで、殺伐と騒ぎ続ける仲間たち──と言っていいものかどうか──など別世界の出来事だとでも言うように、ひとり耐圧服もブーツもそのまま、もうベッドに横になって目を閉じていた。
ただ広いだけの部屋に、頭部分が壁に向くように、向かい合わせに置かれたベッドが計10、ベッドの間には仕切りもない。こんな環境では、空間はなるべく区切った方が空気は温まりやすく、温度も保ちやすい。それがないと言うことは、ここは多分作業用の仮眠室か何かだと、なかなか温まらない毛布の中で手足を縮めながらキリコは考えている。仮眠用では、快適さなど二の次なのも道理だ。
もう少し基地の奥を探せば、個室同然に区切られた、もう少しましなベッドが見つかるだろう。とは言え、この基地に長居をする予定はない今、寝心地の良いベッドを探す手間分時間が惜しいと言うのが現実だ。1分でも長く深く眠って、体力の消耗を抑えなければならない。寒さはストレスに直結し、体調にも影響する。ATに搭乗してとは言え、この極北での作戦行動は、十分に健康であっても危険だった。
寝不足の上に冷え切った体では、ATをまともに操縦することもままならない。明日の朝、目覚めて少なくとも手足の先に十分血が巡っていなければ、操縦桿を握る手を信用できなくなる。過酷な環境では、一瞬のミスが命取りになる。
命取り、と思ってから、そう思ったことを、キリコは一瞬考え込んだ。けれど、即座に考えても無駄だとそれを振り払い、また眠ろうと、首を肩の方へもっと縮めた。
全員ぶつくさ言いながらもそれぞれベッドへ横になり、キリコ同様毛布の中へ身を縮めて、寒さに悪態をつくコチャックの声と、それを黙らせようと小さく怒鳴るザキの声もついに途絶えた。そうして半時間、
「畜生、こんなので眠れるか!」
ゴダンが怒鳴り、毛布を蹴散らした音が聞こえ、他の誰が眠っていようと構いもしない足音を立てて、何かを引きずる音、動かす音、薄暗い部屋の真ん中でバタバタ大騒ぎを始める。
キリコ以外の全員が毛布の中から首だけ伸ばし──それ以上体を起こしたら、また寒くなる──、ゴダンがベッドの、皆の足許の間の床で何かしているのを、怒鳴って止めさせるか無視するかそれとももっと静かにやれと注意するか、迷いながら眺めていた。
「キリコ、来い。」
何か作業が終わったらしいゴダンは、自分の向かいに寝ているキリコを、くるまっている毛布ごとベッドから引きずり出そうとした。
まだ眠ってはいなかったキリコは、何だと声には出さずに表情には浮かべて、けれど一応ゴダンの手には逆らわず──面倒くさいからだ──に、腕を引かれるまま、毛布ごとゴダンに引かれる方へ足を動かした。
広くはない床の上のスペースに、空いたベッドから引っ張って来たらしいマットレスが敷かれ、その上に放り出されると、体に巻いていた毛布の上にさらにもう1枚、これはゴダンがさっきまでくるまっていたらしい毛布がかぶさって来る。
「ここまで来て、基地の中で凍死なんざ冗談じゃねえ。」
自分もキリコの隣りにマットレスの上に上がりながら、ゴダンはキリコと一緒に毛布の中へくるまろうとした。
やっとゴダンの意図を悟ったキリコは、素直に自分の毛布を開けてゴダンを招き入れ、自分もゴダンの毛布の中へ一緒に入る。
「キリコ、そいつは脱いじまえ。それじゃあ俺があったまらねえ。」
すでにアンダーシャツだけの自分の胸元を指差しながら、ゴダンがキリコの耐圧服に向かってあごをしゃくる。
胸の内だけで舌打ちして、キリコはそれでも素直に、ゴダンの言う通り耐圧服の上を素早く脱ぎ、ブーツも脱いで、自分の寝ていたベッドの下へ放り込んだ。そうして、ざっと寒さに粟立った首筋や腕を、今は2枚重ねになった毛布の下にもぐり込ませ、できるだけ早く体があたたまるように、ゴダンとふたりで一緒に、少しの間毛布の中の体の位置を探る。
「いい考えだな。」
どこか茶化すような、それでも感嘆したようなトーンも含めて、バーコフが薄闇のどこかで呟いた。
ゴダンはキリコの背中に重なるように、キリコはなるべくゴダンに体が触れているように、冷たい部分は冷たい部分──素足の爪先同士とか──に触れ合わせて、ふたりは毛布の中にすっかりもぐり込んでしまった。
体が大きい分、発熱量はゴダンの方が大きいはずだけれど、こんな時には体力を無駄に消耗するだけだ。自分が発する熱で誰かを温めて、その誰かに温め返してもらえばいい。普通は若い方が体温は高い。ここではキリコかザキの二択で、ゴダンに比べるとずいぶんと小柄で、こうすることに説明が必要だろう新兵のザキよりは、すぐに目的を悟るだろうキリコの方が話が早かった。
何でもいい。ちゃんと眠れればそれでいい。
一応遠慮はしながら自分の腰の辺りへ腕を乗せて来るゴダンには、まったく頓着しない風に、キリコは多少は寒さのましになりつつある毛布の中で、また目を閉じた。
「俺も仲間に入れてくれ。」
数分後、なるべく軽い口調を装って、バーコフがゴダンの背中側へやって来た。
「何だ分隊長、てめえも来るのかよ。」
「お前と同じだ、俺も凍死はごめんだからな。」
バーコフは自分の分の毛布──ちゃっかりしているこの男らしく、すでに2枚重ねだった──を少しずらしてゴダンにも掛かるようにして、そうしてゴダンの背中へぴったりと張りついた。
「これじゃあ俺が動けねえな。」
ゴダンがぼやくように言うと、
「凍死よりはマシなんだろう。」
混ぜっ返すように、バーコフが笑いを含めて言った。
「お、おまえら、おまえらだけズルいぞ!」
部屋の真ん中で床の上で、口は悪く、けれど和気藹々と温め合っている3人──キリコはずっと黙ったままだけれど──に向かって、今度はコチャックが声を投げて来る。
ゴダンが一瞬でこめかみに軽く青筋を立てて、首を斜め後ろに伸ばして、コチャックのいる方をにらみつけた。その拍子に、背中に入り込んで来る冷たい空気に、やれやれとキリコは思った。
「お、オレも仲間に入れろ!」
そういう口の聞き方が、いっそうゴダンを怒らせて頑なにするだけど、この男はまだ学ばないらしい。来るとすればバーコフの方が自分の方かどちらだろうと、思いながらキリコは身じろぎもしない。
「来るなら自分の分のマットレスを持って来いよコチャック。」
バーコフが、ゴダンとコチャックの間の空気を和らげるように言う。バーコフがこんな風でなければ、コチャックはとっくにゴダンに絞め殺されているだろう。そうなったら、自分はこのふたりの間に割って入るだろうかと、眠ろうとしながら、まだ皆のやり取りに耳を吸い寄せられて、キリコは目だけは閉じたままでいる。
バーコフに言われた通り、コチャックはどうやら自分のベッドからマットレスを引きずり落としたらしく、床へかすかな振動が伝わって来て、そうしてまたひとり分の気配が近くへやって来た。
「もうちょっとそっちに寄ってくれよ。」
バーコフの背中へ向かって言っているらしい、コチャックの、空気の中へまとわりつくような声。この声を聞いた途端、コチャックを殴りたくなる輩もいるだろう。ゴダンもそのひとりだ。今キリコの髪に触れる近さで、ゴダンがはっきりと分かる舌打ちをしたのが聞こえた。
「ザキ、ついでだ、お前も来い。」
分隊長らしく、バーコフが公平に、ひとり残ったザキに声を掛ける。
「ああ、こうなったらみんなで固まった方が余計にあったまるしな。」
ゴダンもそう言うと、どうやら、いつどのタイミングで参加しようかと思っていたらしいザキが、跳ねるようにベッドの上で体を起こした音が聞こえた。
「でも・・・。」
ザキの、戸惑いで語尾の細くなる声音に、キリコは思わず目を開く。瞼の裏よりもひと色薄い闇の中に、さっき自分が脱いでそこへ放った耐圧服とブーツの輪郭が、ベッドの脚の、いかにも無機質な線に囲まれているのがぼんやりと見えた。
そうして、今自分たちのいるこの闇が、少なくとも雪や夜露──ここではそんなものはないだろうけれど──の心配のない屋内であることを思い出すと、同じような、別の記憶が甦った。
あの時は、自分がザキの立場だった。レッドショルダー。サンサ。グレゴルー。バイマン。ムーザ。なけなしの体温を、4人で分け合った。明日動くかどうかわからないATの足元の陰で、ひっそりと身を寄せ合って、いちばん体の大きなグレゴルーとバイマンの間にムーザが入り、それから、バイマンがキリコを呼んだ。
何してる、早く来いよ。
死ぬ心配のないはずのキリコのことを、皆揃って気に掛けていた。死なないからこそ、常にいちばん重傷だったせいもある。レッドショルダーのATと同じに、あの時キリコの右肩は撃ち抜かれて巻いた包帯が真っ赤だった。手当てをしてくれたのはグレゴルーだ。
それには触れないように、自分の左側へやっと来たキリコを、グレゴルーは用心しながら抱き寄せて、そうして、グレゴルーのぶ厚い胸越しに、子守唄のようにバイマンのムーザの喧嘩腰の軽口の叩き合いを聞いた。
お前といりゃあ、死なずにすみそうだからな。
グレゴルーが笑って言った。応えて微笑んだような気がするけれど、キリコは憶えていない。
戦場では、兵士の正義はただ生き残ることだ。血を失って冷えた体を温め合うために、彼らは寄り添って眠る。数時間後にきちんと目覚めることを夢見ながら、わずかな眠りを貪る。実際には、その眠りが悪夢に満たされるにせよ、明日生き残るために、彼らは今を眠る。たとえその眠りに、目覚めが保証されていないのだとしても。
「ザキ、来い。」
キリコは宙に向かって腕を伸ばした。ザキに見えるように手招きの仕草をして、おまえもちゃんと仲間だと、ザキに知らせるために、ザキがベッドから降りてこちらへやって来る足音を聞くまで、腕を伸ばしたままでいた。
頭の傍を素足の足音が動き、顔の近くへしゃがみ込んで来たザキのために、キリコはゴダンの方へもっと体を寄せ、自分の前を空けてやる。毛布を抱えたザキは、それをキリコの上に広げ、それから、端をそっと持ち上げて、キリコの胸の前へ、まだ戸惑いながら滑り込んで来る。キリコよりもさらに少年めいた、薄い体だった。
「死にたくなかったら寝ろ。明日ちゃんと動けるようにな。」
ザキの爪先を自分の方へ引き寄せながら、キリコは構わずにザキの体に腕を回した。一瞬抗った後で、おとなしく自分の胸元へ頭を寄せて来たのに、キリコは自分の方からもザキに体を寄せて、それから目を閉じた。
腰に乗ったゴダンの腕が重みを増している。背中に聞こえる寝息がすでに間遠だ。
やっと十分に温まった毛布の中で、爪先や指先にあたたかな血がめぐり始める。
生き残るために、彼らは寄り添って眠る。寝息を近づけて、死なないために眠る。
喉の奥に不意に甦った血の匂いを振り払って、キリコはどこからともなく立ち上って来る予感から目をそらした。良いも悪いも感じる前に心を閉ざし、眠れ、と自分に言い聞かせて、背中に添うゴダンの体温と、胸元から伝わるザキの体温だけに、わずかに開いた心の入り口を向ける。
瞼の奥に、いっそう暗い闇を引き寄せて、わざと遠くした呼吸の数を、キリコはゆっくりと数え始めた。先に寝入ってしまったザキの寝息に合わせて、そうしてキリコも、やっと眠りに落ちて行った。