汗
手首をつかむように引かれた手。逆らわずに、引かれる方へ足を進める。嫌なら手を取り戻せばいいだけだ。そうすることは滅多にない。無口な同士、背を向けて着ているものを脱ぎ、染みついたATのコックピットの臭いを落とすために、けれどシャワーのコックをひねるシャッコの手を、今はキリコが止めた。
抜きん出て背の高いクエント人たちは、それに合わせたベッドとシャワーをあてがわれ、だからドアを閉めれば、ここには他の誰も来ない。
ふたりとも、誰にも何にも執着しないと思われている。それを貫き通した方が、特にキリコには色々と楽だったから、秘密めかすわけではなく、ほんとうに誰にも知らせないままにしておきたかった。
いつだって最初は単なる処理だ。作戦が終わって基地へ戻って来る。破壊されたAT、いろんなものの焦げる臭い、炎の毒々しい明るさ、それを振り切って生きて戻った自分と仲間たち。
生き延びるために沸き立てた血は簡単には治まらずに、身内を駆け巡っている。鎮め方はそれぞれだ。酒や賭け事、あるいは女。あるいは、ひっそりと、背中を丸めて、自分で。あるいは、ひとりではなく、誰かと。
始まりは単なる処理のはずだった。それでも、自分の素肌に触れる他人の手指と、他人に触れる自分の掌と、処理とそうでない境いなど曖昧なものだ。脚に触れ、背中に触れ、腹に触れ、自分に触れる相手の掌に、うっかり感謝の念で触れる。指が絡む。そこへ唇が寄る。唇同士が触れるのに、もう大した垣根もない。
遠目に眺めていただけの互いの躯に、近く触れる。抱き合って、背中に両腕を回して、身内に荒れ狂う、持て余した熱を吐き出して果ててしまうだけが目的ではなく、今ではまるで、その熱を飼い慣らして、互いのそれをいとおしむように、熱はもう、作戦のせいのそれだけではなく、いつの間にか、触れ合ううちに生まれる新たな熱がある。
まだ水も出さずに、乾いたタイルの上へ座り込み、内心その固さに少しばかり閉口しながら、今はシャッコの膝の上に腰を落とした形で向き合って、キリコは、汗の匂いのするシャッコの、埃っぽい髪の中に指先を差し込んだ。
汗。泥。機械油。削れた金属。塗料。そして血と人の肉の焦げる臭い。戦いの匂いを濃くまとったまま、ふたりは抱き合っている。
唇を当てれば、どこも塩辛い。ざらつく肌を舐めて、脱水症状をやわらげるように、汗の塩を喉の奥へ送る。獣が、自分の体についた匂いを消す仕草に似て、そうして互いの素肌に舌先を当てる。
素肌の露出したバトルスーツを着るのは、あれは最悪の場合には自分の汗を舐めるためだ。最悪の喉の渇きを癒すために、その瞬間(とき)を生き延びるためなら何だってする。死体の汗と血さえ舐めるのだと、AT乗りがそう嘲弄される半分は、決して嘘でも出鱈目でもない。
殺し合いの場で営まれる、些細な生(せい)の、剥き出しの姿。恥も誇りも失くさなければ、そもそも生き残ることさえできない。死者は名を無くしたただの肉と骨の残骸になり、生き残りは皮膚で形をようやく保った戦争の機械だ。どちらも最低だ。だったら死ぬよりは生き延びた方がいい。あそこでの死はすべて犬死で無駄死にだからだ。機械油の臭いのする自分の汗を舐めてでも、この1秒を生き延びることを選ぶ。
そうだ、基地に着いてコックピットを開け、ヘルメットを脱いでATを降りる、そうしたら、まずは水を飲みたいと、そう思っていたのだと、キリコは思い出していた。
体温が上がり、汗をかいて、耐圧服の下はびしょ濡れだった。それを、まるで余分な皮膚のように引き剥がして脱いで、絞ればきっと水分が滴ったろう。
そうだ、喉が渇いていたんだ。
シャッコの口の中も乾いていた。喉の辺りはきっとひりつくようだろう。ざらざらと唇がこすれ合い、舌が行き交ううち、舌の奥から唾液が戻って来る。口の中が潤い、それをさらに行き交わせて、唇も次第に湿る。
水を浴びれば早い話だった。コックをひねれば、水が降り掛かって来る。それなのに、今は肌の上に残る汗と体の渇きの痕跡を惜しんで、キリコはシャッコに自分の躯を寄せていた。
顎の先、鎖骨のくぼみ、首筋、額や頬、どこへ舌を滑らせても汗の味がした。血よりはもっと、混じる埃のせいかざらついた感触が舌の上に残る。なぜかそれを味わいたくて、水を浴びることもしないまま、抱き合って、互いの躯を舐め合っている。
体から染み出る水分、血ではなく涙でもない、ただ透明な塩辛い水分。全身が汗に浸り、濡れ、それが血ではないことを確かめる暇も余裕もなく、今は乾いてしまった肌を舐めて、どこにも血の匂いのないことを確かめ合っている。
そして、新たに噴き出し始めた汗の層に、手足を滑らせて、意固地にまだ、基地へ戻る前からもう昂ぶっていた躯には触れ合わず、腰を近づけると、それが、ごつごつと下腹や互いのそれにぶつかる。どうせ我慢できなくなるのはキリコの方だから、シャッコはキリコが先に手を出すのを待って、自分ではそれには何もしない。それでも、掌は忙(せわ)しく動き続けて、肩甲骨の上に乗ったり、首筋に触れたり、舌の行き交う間に耳朶を長い指の間に挟み込んで、滑らかな軟骨の線を辿ったりする。
汗は、新たに吹き出す端から舐め取られて、そろそろ埃っぽさも失せた頃、キリコの手が、迷うように伸びて来る。喉の渇きはともかくも、躯は確かに潤い始めていた。キリコと顔の位置を揃えるために、腰の位置をややずらして壁に背中をもたせ掛けていたシャッコは、自分に向かってキリコがやや上体を傾けて来るのを、抱き止めて姿勢を少し変えようとしたのを、途中でやめた。
代わりに、自分の腰をまたいでいるキリコの膝を少し押し返して、もう少しきちんと膝立ちの姿勢にさせると、そうすれば自分の下腹でキリコのそれをこすり上げることになるのを承知で、壁から背中を浮かせる。それに軽くキリコの躯が反応を返したのを確かめてから、ほとんど放り出すように向かいの壁に向かってキリコの背中を押しつけて、シャッコは自分の体と壁でキリコの上半身を挟み込んで支えた。
ただシャワーがあるだけの四角い仕切りの中で、キリコがどれだけ手足を伸ばそうと、四方の壁には触(さわ)れない。シャッコは、さらに用心でキリコの腰に左腕を回して、そうして、キリコが両腕を自由に使えるようにしてやった。
シャッコと抱き合うと、いっそう少年くさくなるキリコの、まだ肉付きの足りない薄い腹や腰を抱く輪を縮めて、躯をもっと近くへ寄せると、血の上がった頬を伏せて、キリコが喉の奥で声を耐える。耐える声の分、両の手指は、シャッコの片手分の指と絡み合いながら、腹の間でそれに触れている。
額が触れ合っていた。汗で時々滑るのを、そのたび喉を伸ばして元に戻しながら、同時に、気づけば腰の辺りが勝手に揺れている。こすり上げる掌と一緒に、シャッコに向かって、キリコは自分の躯を押しつけていた。
血や汗よりも、いっそう体温に近い、ぬるりとした感触が、掌の内側に広がる。同時ではなかったから、また手指は一緒に動き続けていた。果てた後は、汚れた掌にも構わず、その手のまま、互いの肩や腕や背中に触れる。舐め取ってしまった汗の代わりのように、吐き出したそれを皮膚の上に塗り広げて、息が少しずつ治まる間に、また額をぶつけるように合わせた。
そうして、挨拶のように鼻先をこすり合わせて、互いの体を抱き寄せてから、まだ完全には失せ切らない熱を惜しむように、噛むような口づけが少しの間続く。唇がこすれて、外れる合間に、キリコは途切れ途切れにシャッコの名をつぶやいた。
生きて戻った。手足は、指まで全部揃っている。怪我らしい怪我もない。自分の体なのに、自分で確かめることができずに、誰かの手を借りる。ちぎれ飛んだ後も、幻のようにそこにまだ在る感覚の蘇る自分の体のことなど信じられるはずもないから、誰かに触れて触れられて、そうして、手足も顔も、あらゆる神経と触覚がきちんと、出る前と戻った後で変わっていないことを確かめる。
血の匂いは、これはどこかの他人のものだ。自分たちのではない。汗に濡れた体は、無事に生きている証拠だった。そうして、背骨の奥で沸騰していた熱の塊まりは、目に見える形で掌の上に姿を現して、乾いてしまった後は、どこか透明な血痕のように見えるから、キリコはそれを見ないためにシャッコの背中を抱いて、まだ熱の名残りを惜しんでいる振りをする。
新しい汗の匂い。ATのコックピットの中の臭いにはもう鼻が慣れて、それとは嗅ぎ分けられない。人の血肉の焦げるあの臭いは、どうやっても記憶から削り取れない。
何もかもを洗い流すために、ふたりで一緒にゆるゆると立ち上がって、やっとシャワーヘッドを見上げた。
清潔な水と石鹸の泡が、ありとあらゆる戦場の気配を排水溝へ押し流してゆくその前に、キリコはもう一度だけ、シャッコのみぞおちの辺りを舐めた。これが、生きている人間の味だ。
シャワーから降り注ぐ、肩を打ってかかとへ向かって流れ落ちてゆく水を、誰かの血だと錯覚しないために、ふたりは互いの唇を濡らすその水を、互いに舐め合った。ふたりの舌に触れた水は、確かに味も匂いもなかった。無味無色の水に上書きされて、血の匂いが遠ざかる。
水に濡れ続ける自分の唇を舐めて、キリコはやっと喉の渇きを潤し始めた。