惻隠
昼寝から目が覚めて、キリコはあてがわれた部屋の小さなバスルームでシャワーを浴び、今日はやけに静かな倉庫の方へ耳を澄ませながら、グレゴルーたちはどうしているかと、キッチンの方へ行く。街外れのこの整備工場跡の周囲には、たまに通り過ぎるトラックや車はあっても滅多と人の姿はなく、身をひそめる必要がまだ特にあるわけではないにせよ、こそこそとATの整備をして、物騒な計画を立てるには絶好の場所だった。
余計なことを考えたり思い出したりしないために、この静けさとグレゴルーたちの計画は、今のキリコにはちょうどいい。頭を空っぽにして、ただ目の前のことに没頭する。自分が追われる羽目になった理由や原因や、あるいは自分自身の過去や、そして途中で関わる羽目になって心を寄せた後で、失われてしまった友情らしき、行きずりの人間たちのと関わり。今は何も考えるな。キリコは自分の頭の中で、自分に向かってそう言った。
キッチンへゆくと、静かさから想像した通りそこは無人で、誰かが淹れたらしいコーヒーの香りだけがしていた。勝手にマグを探し、他には何も入れないコーヒーを片手に、キリコはそれから向かいの事務所の部屋へ足を運ぶ。
こちらも、素っ気ない灰色のドアの辺りはただ静かで、キリコは何も考えずにただドアを開けた。
目の前の壁際に置いてある大きなソファの真ん中にバイマンがひとり座っていて、入って来たキリコに気づいた途端、ほとんど驚愕と言っていい表情で顔全部を歪め、急いで両手を背中に後ろに隠す。
「どうかしたのか。」
キリコはまだドアのところから完全には部屋の中へは入らず、驚いているバイマンに落ち着く時間を与えるために、そこで足を止めて、何気ない振りで用もなく部屋の外へ首を回す。
「どうもしやしねえ。」
いつもの軽口とは打って変わって、ひずんだ声には怒りさえ窺えた。常に飄々と、人を小馬鹿にしたような態度が売りもののこの男には、明らかに普通ではない反応だった。
「グレゴルーとムーザはどこだ。」
「ATの部品探しに街に行った。てっきりおまえも一緒だと思ってたぜ。」
ようやく口調がやや鎮まり、バイマンは、まだドアから先へは入って来ないキリコを、ソファから上目にちらちらと窺いながら、左手だけをそっと背中の後ろから取り出し、その手で、できるだけさりげない所作で、コーヒーテーブルの上に散らかしたものを片付けようとし始める。ちらりと見えるそれは、数枚の布、背の高い缶、小さな工具、銃の手入れかと、キリコはまず思った。
「なんだ? 何見てる?」
他に見るものと言って、大きな事務机と様々な書類を収めてあるファイル棚と、そんなものしかない部屋で、何を見ているもないものだ。動くものはバイマンの左手しかなく、それを、見るともなしに見ていたキリコに、バイマンはまた噛みつくように声を荒げた。
「ずいぶんご機嫌斜めのようだな。」
銃類の武器を、キリコからわざわざ隠す必要はない。かと言ってバイマンが何を隠しているのか別に詮索する気もなく、キリコは至って普通にそう言ったつもりだったけれど、キリコが言った通り機嫌の悪いバイマンの、どこかの神経に障ったらしい。
色白のバイマンが首筋を真っ赤にして、ソファからいきなり立ち上がった。ずかずかと大きな歩幅でやって来る長身の、長い手足の様子が、視界の中で確かに何か不自然に見えたけれど、実際にバイマンが、さっきまで背中に隠していた右手で、キリコの耐圧服の襟元をつかみ上げるまで、キリコはそれを妙だと感じた理由に気づかなかった。
ぎりぎりと、金属の噛み合う音があごの下で聞こえる。下目に見たそれは、音で想像する通りに鉛色の、明らかにそれなりの造りの義手だった。爪の形はないけれど、指先の形や手の動きは、きちんとほんものの手のように見える。
キリコはそれを見ても特別に顔色は変えず、見た瞬間の小さな驚きも、一瞬の後には霧散した。
「やられたのか。」
「ああそうだ、銃で滅多撃ちで、跡形もなかったぜ。救護班の連中がご丁寧に肉片を集めて来やがって、元通りに繋げるのは無理です、だとさ。残ってたのは指先2本とどこかの骨のかけらだけだ。」
今では、バイマンの両手に襟元をつかまれて、キリコはちらりとコーヒーをこぼさないかと気にしながら、相変わらずバイマンとは対照的な静かないつもの声のまま、それに水でも掛けられたように、バイマンがやがて悄然と肩を落としたのを見定めて、キリコはそっとバイマンの右手を取る。
「それでもおまえは死ななかった。」
「右手くらいで死ぬほどやわじゃねえ。」
「・・・だろうな。」
バイマンは、振り払うようにキリコから自分の右手を取り上げると、くるりと背を向けまたソファへ戻る。キリコは、3歩待ってそれを追い、ソファの真ん中へまたどさりと腰を落としたバイマンの右隣りへ、腕の長さ半分の距離を空けて、自分も腰を下ろした。
「メンテか。」
バイマンが、すべて左側へ寄せようとした、テーブルの上のあれこれを見て、キリコが言う。バイマンは肩を揺すり、改めてシャツの右袖を二の腕までまくり上げ、開き直ったように、怒りを込めた仕草でテーブルの上の布を取り上げる。
「外して洗うってわけには行かねえからな。」
明らかに、今はキリコとの間に壁を作り、傍にいて眺めることを許してはいても、キリコの方をちらとも見ない。
わざわざグレゴルーとムーザに起こったことを、詳細に自分に伝えて来た時点で、バイマンの身にも同じような、あるいはもっとひどいことが起こったのだろうと想像はしていたけれど、まさか右手を失っていたとは思わなかった。キリコは、義手の右手を磨き始めたバイマンの、固い横顔を、ちらりと横目で眺める。いつもへらへらと笑っているこの男の、こんな表情を見るのはほとんど初めてだ。
布を持つ左手の動きがぎこちない。利き手ではないせいだろうし、今は怒りに満ちていて、細かな作業に集中できないせいだ。
ドアをノックするべきだったと、5分前のことを少しだけ後悔しながら、キリコはバイマンに向かって2拍の間目を細め、それから、手にしていたマグをテーブルに置き、
「貸せ。」
言いながら、バイマンの左手から、機械油の薄く染みた布を取り上げた。
また声を荒げて怒り狂うかと思ったバイマンは、突然放心したようにキリコに右手も取られるまま、おとなしくなってしまった。もう何の選択もない死に掛けの病人のように、キリコがするまま、素直に右手を預け、体も半分キリコの方へ向けて来る。
キリコも、バイマンの右手を自分の膝に上に乗せて、まずは掌と手首の繋ぎ目を覗き込むようにしながら、ややバイマンと向き合う形に、自分の体の位置を変えた。
「なぜわざわざ隠す。バレたら、計画から外されるとでも思ったのか。」
「へっ、そんなんじゃねえ。右手が少々使えねえくらいで外されるようなボンクラじゃねえぜ、オレは。」
どうしても今は虚勢を張っているように聞こえるバイマンの言葉は、けれど確かに真実だった。レッドショルダーで生き残り続けていたバイマン──そしてムーザもグレゴルーも──は、大きな口を叩けるだけの腕の持ち主だ。グレゴルーも、それを分かっているからこそ、この4人だけで、吸血部隊の生き残りを叩いてヨラン・ペールゼンを抹殺すると言う計画を実行しようとしているのだ。
バイマンくらいの腕があれば、たとえ右手がまったく使えなくても、ATの操縦程度はどうにでもなる。腕が動く限りは、頭数から外される心配はない。
だったらなぜ、とまたキリコは思った。
バイマンの義手の掌を、丁寧に磨く。つるりとした金属片が組み合わされて、それなりにきちんと生身の手を再現している。少なくとも、収容された先の病院ではそれなりの治療をされたらしい。この短期間で、得た義手でATの操縦に不安がないところまで回復したとしたら、その後の訓練の苛烈さがキリコには容易に想像できた。
いつも口先だけに見えるバイマンの、素の激しさがそんなところに見えるような気がした。
「ドアのノブはいくつか壊したが、ATはそれよりは丈夫にできてるからな。操縦桿を握るのにひやっとしたが、そいつは案外大丈夫だった。」
ふたりで、義手に向かってうつむき込んで、視線が合わないのに安心したように、バイマンがぼつりぼつりと話し始める。次第に、いつもの口調に戻ってゆくのに、キリコはわずかに安堵していた。
「だがな、紙1枚つまみ上げようとしたら破っちまう。卵もつぶしちまう。おまえの指も、触ったら折れるかもな。」
へへっと、あの耳障りな笑い方で、バイマンが広い肩を揺すり上げた。
キリコは、今は指と指の間を磨いていた。
「よりによって右手だ。左手で用が足りる頃には、誰も生き残ってねえか、オレが死んでるかだ。」
「左手だけでも、支障はないように見えるが。」
あくまで声は平たく、けれどバイマンの手に触れる自分の指先には、そうとはすぐにはわからないだろう優しさを込めて、キリコはバイマンの義手を磨き続けている。
「使えるだけじゃどうにもならねえよ。触わりたくても、もう一生触われねえものがあるってこった。おまえにゃわからねえだろうがな。」
皮肉な口調はいつも通りのバイマンだった。まだ年若いキリコへの揶揄とも取れたし、あるいはバイマン自身が、己れを嘲っているようにも聞こえた。
小指と親指の先は特に丁寧に磨いてから、キリコはその手を返し、指の付け根はきちんと骨の形に盛り上がった手の甲へ移る。磨き始める前に、テーブルの缶からオイルを少し取り出して、布の上で新たに広げる。
握りしめれば拳の形になり、それで殴れば多分骨くらいは簡単に折れるだろうバイマンの、にせものの右手をまた丁寧に拭いながら、キリコはうつむいたまま、ぼそりと核心をついた。
「だからムーザに八つ当たりか。」
そう言った途端、キリコの左手の上で、素早くバイマンの右手が拳の形になる。殴るために振り上げるかと、上目にバイマンを見ると、歯を食い縛ったのが頬の線に現れていたけれど、驚いたことに手は出ないまま、拳はゆっくりとゆるめられ、またキリコの左手の上で力なく開いてゆく。
「・・・あいつは・・・あいつのことは関係ねえ。オレはただ、あいつがいつまでもうじうじ悩んでるのが鬱陶しいだけだ。」
手首から肘へ向かって布を滑らせ、生身との繋ぎ目にはオイルが触れないように、きちんとそこへ目を凝らす。キリコは口を開きながら手の動きは止めなかった。
「そんな風には思えないがな。」
「おまえに何がわかる。」
そう言ったキリコの語尾をほとんど奪い取るように、バイマンの震える声がかぶさって来る。
バイマンのその言い方に、キリコは内心反駁していた。手は止めず、表情も変えず、口には出さず、それでも、わかるさ、と、胸の内でだけ言い返していた。
触れようと伸ばす手を自分で眺めて途中で止める。その手が与える感触が、相手を怯えさせるのが恐ろしい。相手を傷つけるかもしれないのが恐ろしい。だから隠して、おまえに触れないのはおまえが気に食わないからだと、そう言い続ける。
今ではそんな風に、バイマンの心の中が読み取れるキリコだった。
「そうだな、おれには何もわからない。」
思うこととは裏腹に、キリコは素直にそう答えていた。傷ついているバイマンを慰めるために、想う誰かに優しく触れるための右手を、永遠に喪ってしまった男のために、それを嘆くバイマンに、おまえの辛さはよくわかると、言葉ではなく伝えるために。
バイマンの腕から力が抜け、キリコにそうやって腕を見せて任せてしまえば、どこか多少は気楽になったのか、
「賭けてもいいぜ、オレのこの腕のことを知ったら、あいつ最初に"ATの操縦はできるのか"って訊きやがる。絶対だ。」
軽口を叩いて、薄い笑いに肩が揺れる。
ムーザの薄情を指摘しているように聞こえて、けれど実際は、バイマンがどれだけムーザのことを知り尽くしているか、むしろそちらの方が露わになる言い方だとキリコは思った。
「かもな。」
隅々まできれいに磨き終わり、右手を返すと、バイマンはすぐにシャツの袖を下ろしてさっさと袖の小さなボタンを留め、ソファの端に掛けていた上着を取り上げて立ち上がった。
「外の空気を吸って来る。オイルの匂いは胸が悪くなるんでな。」
もうキリコに背を向け、右手にはきっちりと手袋も着けてしまえば、すっかりいつものバイマンだ。ソファに坐ったまま、その広い背中を見送る。すべてを受け流しているように見せて、すべてを拒絶するその背が、ドアの向こうへ消え掛ける寸前、バイマンはそこで一度足を止めた。
「キリコ。」
顔はこちらへは向かないまま自分を呼んだ声に、キリコは、
「なんだバイマン。」
首を少し伸ばした。
「・・・ありがとよ。」
キリコが応える前に、ドアは音を立てずに閉まった。
ドアを見つめて数秒、キリコはそのまま動かなかった。それから、テーブルの上に散らかった布や缶を片隅にまとめ、自分のコーヒーのことをやっと思い出した。すっかり冷めたそれを構わずひと口飲み、マグの冷たさに、バイマンの義手の冷たさをまた思い返す。
バイマンの感じている悲しさや切なさに、少し前なら思い至ることさえしなかったろう自分のことを、キリコは今考えていた。誰も皆、深く傷ついて変わってしまった。自分もそうだ。そしてキリコは、自分の変化がただそれだけではなく、もっと深いところで、傷だけではなく、もっと別の大切な何かによって変えられてしまったことに気づいている。
バイマンが嘆いているのが、失った右腕のことではないことが、今のキリコには理解できるのだ。
恐ろしいのは、自分が死ぬことではない。大切な誰かが、深く傷ついてしまうことだ。
おまえに何がわかる。バイマンが言う。わかるさ。言わずに、キリコはただ胸の中でだけ応える。
わかるさ。
おれにだって。
復讐すら意味も失くすほど、キリコには大切なものがある。そのためにキリコは生きたいと願い、生き続けることを選択する。
だからおれは、今ここにいる。
マグを包み込むように抱えた自分の両手を、キリコは見下ろした。自分の今は揃っている両腕の中に、ほとんど融け込むように収まって来る、おぼろな輪郭を思い浮かべて、にじむその線をもっと明らかにしようと目を凝らした時、ドアの向こうが不意に騒がしくなり、足音が複数、乱れてこちらへやって来るのが聞こえた。
ムーザたちが帰って来たと、キリコはマグを置いて立ち上がった。
部屋から出るために足を前へ踏み出しながら、引き剥がした心はすべて、自分たちが乗るATへ振り向けようとする。脳裏に聞こえる自分を呼ぶ優しい声を振り切って、キリコはムーザとグレゴルーの声の方へ肩を回した。