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* 幻影後のいつか。

触れる掌

 伸び上がって、キリコはシャッコの首へ手を伸ばした。
 後ろ髪の掛かるうなじへ掌を乗せながら、軽く曲がった自分の手首へ浮かぶ骨の線へ、不思議なものを見る視線を当てる。
 急所である首に触れていても、その皮膚をちぎることも、血管を押しつぶすことも、気管を塞ぐことも考えない。こうやって触れているのは、そのためではない。シャッコ相手では素手ではかなわないと、そんな理由でもない。
 キリコの手がシャッコに触れている。ただ触れたくて、触れている。
 シャッコの、背丈に合わせて大きな掌が、キリコの背を撫でる。突き出されれば迫力のある拳を作るその手が、キリコの骨を折ろうと動くことはないし、殴るために指を握り込むこともしない。
 触れるためだけに触れて、そこに相手を傷つけようと言う意志の一切湧かない、ふたりの手指がそうして動いている。
 不思議だと、キリコはまた思った。
 掌はただ優しく動き、時折皮膚のある一点にとどまって、いっそう穏やかに指先が泳ぐようにそこを漂う。傷つけないために、そうしたやり方で、手指が触れてゆく。
 シャッコの掌が首を覆っても、キリコはそれに怯えることはなく、そこから頬へ伸び耳の後ろへ伸び、いつしか髪の中へもぐり込んだ節の高い長い指が、動物の仔にでもするように、上がった熱のせいで湿った膚を撫でて来るのに、いっそう無防備に喉を伸ばすだけだ。
 キリコはシャッコの動きを写したように、シャッコの髪へ指を全部絡めるようにして、後ろへ少し強く引いた。
 武器を使うためではなく、ATを操縦するためではなく、目の前の相手を叩き伏せるためではなく、ふたりの手が動き続けている。優しさといとおしさを表すために、指と掌が触れ続けている。
 こんな風にも、体は動く。手と腕を使って、自分の気持ちを表すことができる。言葉数の少なさをそうして補うように、腕の輪の中に互いの体を収めて、傷つけ合わずに触れ合う。互いとの距離を失くすために、腕の輪を縮め、相手を逃さずに、けれど相手の意思を損なうことはせずに、手指が動く。腕が動く。相手を傷つけるためではない。抱き合うことをいとおしむために、いとおしむ相手と抱き合って触れ合うために、手指と腕が動く。
 自分の体が、こんな風に動くことと、自分の体をこんな風に使えることと、キリコはそれを不思議に思う。シャッコを傷つけたくないのは、そうすることが無駄だからではない。そうしたくはないからだ。こうして触れて、触れ返されて、シャッコも自分を傷つけることはしないと、キリコは知っている。シャッコは、キリコが自分にこうして触れることを受け入れ、キリコは、シャッコがこうやって自分に触れることを許し、手指が、皮膚を引き裂くために動くことはなく、骨を折ろうと企むこともなく、そんなことは絶対に起こらないのだと言う安堵は、意識することなく常にそこにあった。
 そうか、とキリコは思った。今はシャッコの背に回る自分の手が、骨の形を指先に探っている。無意識にその数を数えているのは、シャッコのことを、そんなところまで憶えておこうと思うからだ。目に見える記憶ではなく、指先が触れて、自分の脳髄の襞へ刻み込まれる記憶。そうして憶えている、キリコのシャッコと、シャッコのキリコだった。
 いとおしむために動く手指。記憶するために動く手指。あるいはただ、触れていたいと言う欲求のためだけに伸びる、互いの指先。
 ATにも腕があり手があり指先がある。それが伸び、動き、撃ち、殴って破壊する。けれど、ATすら、傷つけないために触れようとする、そんな時もあった。
 金属片の組み合わされて、武骨に作り上げられた手。意外になめらかに動き、そこにふと垣間見える人間くささに驚くことさえある。それゆえに、さらに恐怖の湧く眺めでもある。
 同じように動いて、けれど今キリコの手指は、ただシャッコのすべてをいとおしむだけに滑り、シャッコの手指もまた、キリコに穏やかに触れるためだけにそこを撫でてゆく。
 同じだけれど違う。傷つける目的のないやり方と動き方で、ふたりの掌が重なり、指先が絡んだ。
 今は手指ではなく、もっと別の場所を触れ合わせて、より傷つきやすい形で、躯が重なっていた。繋がって、滑る。滑りながら、動く。重なる熱の間にさらに熱が生まれて、ちぐはぐなふたつの体が、なめらかに、一緒に揺れる。
 シャッコを抱き寄せながら、キリコは肩に触れ、指先に傷跡を探った。前から後ろへ抜けた、銃痕。キリコが残した跡だ。覆えば掌の影に隠れる大きさの、キリコがシャッコを撃った跡だった。
 傷つけるためではなく、傷つけないために撃ったのだと、謝罪はしても言い訳はしなかった。する必要はなかった。むしろシャッコは、キリコが残したその傷をいとおしげに撫でて、痛みすらそれがキリコそのもののように、傷に巻いた包帯を示して淡く笑って見せた。
 キリコが眠る間の、それは想い出の寄す処になり、寒い日や雨の日に起こるかすかな傷の疼きは、しかめ面ではなく微笑を運んで来る。シャッコはそうして、自分の身に刻まれたキリコのことを、いとおしみ続けていた。
 長い時間だった。その時を、シャッコは待った。そして、ふたりは今抱き合っている。
 破壊のためではない。今キリコが生きているのは、世界の破滅のためではない。そうしないために、今はシャッコの背に、キリコの掌はあてがわれて、忙(せわ)しく熱い皮膚を探っている。
 キリコを壊すことができても、シャッコはそうはしないし、シャッコを傷つけられるとしても、キリコはそれを選択はしない。
 そんな選択の存在すら滅することのできる、今そうあるふたりだった。
 この手と指は、銃を取るためではなく、互いに触れるためにある。そうあるために、長い長い時間を経て、様々なものを捨て、あるいは失い、腕の中に互いだけが残った後で、ふたりはようやく自分たちの在り様を知り、触れても良いのだと思った。いとおしむために、いとおしさを表すために、自分の体を使っても良いのだと、ようやく気づいた。
 言葉の足りないふたりの間で、腕が伸びる。指先が動く。薄い皮膚と、その下の柔らかな血管に触れて、血の色を見るのは、ただ上がった体温に首筋と頬が赤みを増した時だけだ。
 流す血も流れる血もない。こぼす吐息は悲しみのためではなく、重すぎる記憶は増えたともに差し出した腕の中に抱え込めた。
 ひとりきり、もう孤独に押し潰されることもない。沈黙すら雄弁に、交わす呼吸の中に、音にはしない言葉が詰め込まれている。
 離れてゆくシャッコの躯に名残りを惜しんで、キリコはシャッコの肩の傷跡に掌を当てて、そこから手首まで、ゆっくりと滑り落として行った。シャッコが視線の先にそれを追い、キリコの手が自分の指を取って口元へ運ぶのを、ただじっと眺めている。
 自分を満たしたシャッコへの、それは感謝の意を示して、取り上げたシャッコの手の、ひときわ長い真ん中の指先へ、キリコの唇がそっと寄る。押し当てられ、まだ消えない熱と湿りが指の腹へ移り、シャッコは思わず目を細める。
 離れた体をまた寄せて、シャッコは自分の指先ごと、キリコの唇を自分の唇で覆った。するりと、さり気なく自分の指をそこから抜き去って、そうしながらキリコの手を取った。
 互いに、互いへの感謝を示して重なる唇と、いとおしさのあふれて止まらずにまた重なって絡む指先と、夢の間にもふたりの手は繋がれたままだろう。
 そうして眠るつもりのふたりは、触れるだけの唇の重なりをまだ外さずに、空いている方の手で、互いの首筋をまるで押さえつけるように撫で合いながら、その後で伸ばした喉同士を重ねて、ふざけてあごに噛みつくじゃれ合いの合間に、絡んだ指先と同じ深さに、もう一度唇を触れ合わせた。

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