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絵チャにて即興。ネタばれ注意。お題拝借 / 30の感情に関する一文字の御題1@6倍数の御題

 「動くなよ。」
 呼び出しておいて何だと思ったら、突然後ろから抱きつかれた。キリコは、何も言わないザキを5分黙って待って、口を開かないのを確かめて、立ち去ろうと背を向けたところだった。
 まるで、キリコが背を向けるのを待っていたようなタイミングで、ぶつかるように自分に肩をぶつけて来て、後は逃がさないようにと、みぞおちに腕が回る。胃の辺りを軽く締めつける腕の、意外と細いことにキリコは下を向いて驚いていた。
 「なんだ。」
 「なんでもねえ。」
 背骨の始まる辺りに押しつけられる、額か頬か、キリコはザキがそう言う通り動かず、ふたりとも珍しく耐圧服の上は着ていなかったから、キリコは少なくともこんな体温の近さには慣れていない。ザキもどうやらそのようだと、かすかに伝わって来る震えを感じながら、キリコはちょっとあごを胸元に引きつける。
 不安と恐怖、明日があると定かでもないすべて曖昧の中に放り出された日常。軍隊とはそういうものだ。まだ、完全に少年のザキには、それが辛いのかもしれないと、キリコは黙ったまま考える。
 自分も、だからと言って少年から抜け切ったわけでもないキリコは、それでも経験だけはザキとは比べものにならない自分の、この生活への慣れ具合を、少しばかり嫌悪はする。
 だからと言って、軍を辞めることを考えるほどの激情はなく、ここを出て何をするんだと冷静に考えられる程度には成長している自分が、今自分に抱きついて、日々募ってゆく不安を消そうとしているらしいザキと引き比べれば、ずいぶんとすれたベテランのようにも思える。
 確かに、とキリコは考え続けた。16やそこらで、もう何百もATを破壊して来たと胸を張られる方が困る。この、まだ幼さがザキらしさだ。キリコは慰めのつもりで、自分の体に巻いたザキの手に、自分の掌を乗せた。
 指先同士が触れた途端、びくっとザキの体が背中から浮く。振り向かなくても、ザキの表情が手に取るようにわかった。自分は何か、求められている以外のことをしているのだろうかと訝しがりながら、キリコは逃げなくていいと言うつもりで、もう片方の手もザキの手の上に重ねた。
 誰でも、不安になる。淋しくもなる。あの死体が自分の明日の姿かと、想像するのをやめられない。自分がひとりでないと思い知りたくて、手近な体温に触れたいこともある。それだけだ。誰にでもある。ゴダンにも。コチャックにも。バーコフにも。そしてキリコにも。
 ザキに抱きしめられて、ザキに触れることを許して、自分もザキに触れながら、そうやってキリコ自身も他人の体温を求めている。ひとりではない。明日死ぬにしても、誰かがきっと傍にいてくれる。死ぬなと、最期に自分の目を見て、その目の中に、弱々しく最期の息をする自分の姿を見て、死ぬことができる。そう信じなくて、どうして今日を過ごせるだろう。
 自分のその時に、自分が映るのは誰の目だろう、とキリコは思った。ザキの姿は、誰が見るのだろう。その時が、決して近い未来ではないことを祈りながら、キリコはザキを正面から抱きしめるために、体の向きを変えようかどうかと迷っていた。
 背中をわずかに動かした時、すっと触れてゆくものがあって、キリコはそこで動きを止めた。肩越しに少しだけザキを振り返って、自分に触れて行ったぬくもりが、一体何だったかと確かめるように、自分に回ったザキの手を取り、もっと近く自分に引き寄せる。
 重なりの深くなる体温と、そして、他人の匂い。嗅ぎ慣れたはずの汗の匂いは、けれど何かが違う。石鹸の匂いかと思ったそれが、けれどひと色、別のところへ寄る。これは何だったか。記憶を探って、行き着いた先が、いつも靄のようにかすんでいる軍隊以前の記憶へゆき着き、浮かんだのが、ひとつの少女の顔だった。
 違うと打ち消す前に、すとんと心のどこかで腑に落ちて、そうして、近づいた体の重なる線の奇妙な柔らかさに、突然思い至った答えがあった。
 ああ、そうか。おまえは──ザキ、おまえは──。
 今突然振り返って、それを問い詰めようとは思わなかった。本人が言わないなら、そして他の誰も気づいていないなら、あるいはただ口にしないなら、自分も黙っていればいい。これが、ザキが少女だからなのか、自分が男だからなのか、あるいは単に、手近にいる仲間だからなのか、それはザキがいつか出すべき答えだと、どこか冷淡に考えて、キリコはそれでもザキが自分を抱く手から、自分の手を離せずにいる。
 ザキは多分、キリコの背中に触れている自分の柔らかさには自覚がない。腕の意外な細さや、首筋から立つ、他の連中とは違う自分の匂いに、気づいているはずもない。青臭い、見た目で苦いと分かる実り始めた果実に、わざと歯を立てたいと思う輩がいるのだと、まだ知らないのはキリコとザキの幸運だった。
 触れ合う以上のことは知らず、唇の重ね方さえ知らないふたりは、正確な自分の姿さえ伝え合わないまま、すでに肩幅は大人の、真っ直ぐな背中に、掌を乗せればゆるく盛り上がるそのふくらみ掛けた、他はどこも薄い胸を重ねて、幼い衝動を一緒に、別々に持て余して、そうしている。
 次があれば、その時はザキを正面から、自分から抱きしめるかもしれないと、そう思う自分の自信のなさを、キリコは胸の奥底へ押し隠した。心の揺れを隠したつもりで、キリコは、ザキの指の間に、自分の指先を滑り込ませていた。

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