乱調
モナド侵攻は恐らく実行されるだろう。無謀以外の何物でもないこの作戦は、情報省次官のフェドク・ウォッカムによって進言され、そしてそれゆえに重要で、遂行するに意義のある作戦とすでに見なされ始めている。導入する兵の数も予算も、膨大を通り越してめまいのするような数字だと言うのに、それについてひそひそと疑心のささやきを交わす者はいても、面と向かって大声でその是非を問う者はもういない。
ウォッカムは、ひそかに会心の笑みを漏らす。作戦の成功はもちろん最重要として、自分の発言が軍の御歴々を黙らせ、自分を認めさせ、そしてフェドク・ウォッカムの一挙一動が、軍にとっては非常に重要な意味を持つと知らしめたこと、それが何よりウォッカムには愉快だった。
これからは、ウォッカムがふとこぼしたひとり言さえ、彼らは恐ろしい細心さで拾い集めるだろう。ウォッカムの指の動きひとつ見逃さずに、あらゆることが彼らの情報として残されるようになる。
ウォッカムは、皮肉な笑みをこぼした。情報と言うならウォッカムは言うまでもなくプロフェッショナルだったし、彼らに下手な尻尾を捕まれるようなヘマなど、想像することもできない。彼らが、ウォッカムについてあれこれ取り沙汰する以前に、すでにウォッカムの手の中には彼らの秘密がよりどり取り揃っている。
おまえたちの後ろ手後ろ手と来たら、悪い冗談にもならんな。
彼らは、もっと早くウォッカムの、軍にとっての重要性に気づくべきだった。モナド侵攻を言い出してようやく、軍はその重い腰を上げ、この作戦の成功を深く願うと言う体で、ウォッカムのその有能ぶりを賞賛することに決め、相変わらず泥地を這い回って──実際に這い回るのは、名もない兵たちだけれど──得た勲章の数を披瀝するしか能のない将校たちの、あの時代遅れの有様と来たら。
終戦となれば、真っ先にお払い箱になる彼らは、ウォッカムの提言する豊かな終戦とやらの青写真に、自分たちがきちんと含まれるようにと、ウォッカムの足下へ這いつくばりにやって来るだろう。
彼らの、自分のご機嫌取りに必死になる様を想像して──じきに、ほんとうにそうなる──、ウォッカムはまた隠し切れない微笑をこぼした。
「閣下──?」
モナド攻略の動議提出、その反応の予想通りだった後の、少々浮かれた気分をウォッカムはルスケの前では隠しもせず、会議の一旦終了後はウォッカム自身よりも歓喜の表情の濃かったルスケは、今は自分の上官の喜びを優先するつもりか、差し出されたコーヒーの香りが、いつもと少し違うことに気づいて、ウォッカムは素直に感謝の色を口元の笑みへ混ぜて見せる。
「クズスク到着までわずかです。」
ああ、とコーヒーへ唇を寄せて、目を細めてウォッカムはうなずいた。
「しかし閣下、何もわざわざ閣下じきじきになどと──。」
出発の前に言った同じことを、ルスケが繰り返す。クズスクへなど、直接にせよ電話1本入れればすむことだ。それをウォッカムが自ら足を運ぶなど──特に今、モナド攻略の作戦指揮官着任の間違いないフェドク・ウォッカムが──、扱いがあまりに手厚過ぎはしないかと、この部下は気懸かりのようだった。
「元、とは言え、いずれ元帥にとまで言われた男だ。そしてこの作戦は、あの男の働きの結果が一端を担ってもいる。雑にも粗略にも扱えまい。」
「ですが──」
「私が、この目であの男の絶望する様を見たい、ただそれだけだ。声だけで、何もかも隠されてはたらまんからな。」
またコーヒーへ唇を寄せて、空いた方の手の指先が、何か華奢な物に触れるような動きをしたことに、ウォッカム自身は気づかず、ルスケはいつもの聡さで、それをしっかり見咎めていた。
視線を隠すミラーグラスを取り上げてしまえば、あの男は以前は有能だった元軍人に過ぎない。自分に従う兵士も持たない今、軍服も勲章も剥ぎ取られて、彼自身がそう皮肉を込めて自称する通り、あの男はただの老いぼれだ。
ただひとつ、あの男はいまだ恐ろしいほど切れる頭脳を持ち、言葉を尽くす必要もなく、ウォッカムの思考を理解する、そのことがウォッカムを、あの男に魅きつけてやまない。
天才を理解できるのは、やはり天才だけなのか。
ウォッカムは、半分に減ったコーヒーの香りをまだゆっくりと楽しみながら、ふっと遠い目をした。
もっと別の出会い方をしていれば、親しい友人くらいにはなれたのかもしれない。歳が近ければ、良きライバルとして比肩し、互いに切磋琢磨する未来もあったのか。
残念だ。今だけ、ウォッカムは歓喜の色をどこかへ置いて、しみじみと胸の中でひとりごちる。
あの男でなければ、異能生存体の存在になど気づきもしなかったろう。あれほど偉大な発見を、なぜあの男は頑強に間違いだと言い続けるのか。或いはあれは、失脚し、軟禁状態に置かれ、脳細胞の中身までさらけ出された挙句、終生を賭けた研究を奪われた悔しさゆえか。ウォッカムに、実験を止めろと、そう言うのは、あの研究が間違いだからではなく、誰にも触らせたくはないからだ。あれは自分のものだと、ペールゼンは言葉にはせず主張し続けている。それが、ウォッカムの理解だった。
残念だな。今では、おまえの功績もすべて、私のものだ。功績だけではなく、おまえ自身もだ。
ウォッカムは知らず自分の空いた手を見下ろし、そしてそこでぎゅっと握り締める。そのウォッカムの仕草を、ルスケがただ見つめている。
クズスクへは、キリコたちの分隊を呼び寄せてもあった。ペールゼンがあれほど執着した彼らと、ウォッカムはついに対面するのだ。ペールゼンとキリコと、一目くらい会わせてやってもいいと、そう思いもしたけれど、いや、とウォッカムは思い直したことを思い出す。
必要はない。あの男はもう、異能生存体のことを諦めたのだ。キリコひとりきりの存在でなければ意味がないとでも言うように、他の者たちの存在を否定し、あの頑迷さはあの男の老いの証拠なのかもしれない。ウォッカムが手に入れたいと思って止まない優秀な頭脳も、寄る年波──そして、過酷な拷問──には耐えられなかったのか。残念だ。ほんとうに、残念だ。思いながら、口元へは陰湿な笑みが浮かんでいる。
コーヒーが膝の上で冷め始めている。ウォッカムがひとり物思いに沈み込んだのを、妨げないように、ルスケは足音を消して後ろへ下がった。
あの男を、こんな風に消し去らなければならないのは、真に悲劇だ。ウォッカムの笑みが、片側だけ歪んだ。
ペールゼンのキリコへの執着を、心のどこかで揶揄しながら、同時にウォッカムは、自分の執着もまた同じようなものだと気づいている。ペールゼンの思考に魅かれ、彼の功績に魅かれ、彼の生き方に魅かれ、今なお、ウォッカムの足元へひれ伏すことを拒んでいるあの男のしたたかさに魅了され、なぜ自分たちは、もう少し穏やかな出会い方ができなかったのかと、どこか悔やみすらするように、ウォッカムは考え続けている。
結局のところ、どれほどそうあれと望んだところで、同じような優秀さを有する男が和気藹々など、有り得るはずもないと言うことなのか。
残念だ。ウォッカムはまた、今度は唇を動かしてそうつぶやいた。ペールゼンを惜しんでいる。今ではもう、生きていても死んでいてもどちらでも同じほど無意味な男を、わざわざ自分の手に掛けて消さなければならないことを、ウォッカムは心底残念に思っていた。
自分に、わずかでもなびく様子を見せれば、多少の温情の余地はあったと言うのに、結局ペールゼンはウォッカムに対して一向に胸襟を開かず、その誇り高さゆえか、拷問にかすかにでも怯む気持ちを見せることさえ拒んだ。
大した強情さだと、半ば感嘆しながら思い、そして、それでこそペールゼンだとも思いもした。それでこそ、ウォッカムが魅かれてやまない、ヨラン・ペールゼンだ。
だから、私の手で、きちんと始末してやる。それこそが自分の見せる、唯一の優しさのあかしだと、ウォッカムは本気で思いながら、また自分の掌を見下ろした。
生かすも死なせるも、どちらも無意味な老人を、ウォッカムがわざわざ手を下すのは、そうしなければ断ち切れない未練があるからだと、ウォッカムは自分のほんとうの気持ちには気づかない振りをする。
このまま生かしておいては、どうせまた何か企むに違いないからと、そう言い訳しながら、実のところ、ペールゼンをこれ以上生かしていては、自分がどこへ向かうか分からないからだ。
あの男に間違いなく魅かれ、すべてを手に入れたいと思い、強引にそれを果たしはしても、あの男は心の一片さえウォッカムに差し出しはしなかった。弱々しい老いた体を晒してさえ、彼の心はしっかりと鎧われたまま、そこへ己れをねじ込んではみたものの、結局のところ、ウォッカムはその中へ指1本触れることはできなかった。それが、ウォッカムの、決して口にはしない本音の感触だった。
負けるわけには行かず、彼に対して膝を屈するわけには行かず、表面は、彼を屈服させ、支配し切ったと、そう見せるしかなく、けれど実のところ、ウォッカムはペールゼンのあの素肌のひと筋にも触れてはいない。ペールゼンは、ウォッカムをすべて拒み通した。
それを笑って許せるほど、ウォッカムは心の広い男ではなく──紳士ではないとそう言い続けたのは、あれはつまりそういう意味だ──、こうしてモナド侵攻など思いついてみたのも、ペールゼンへの念のようなものが凝り固まりねじ曲がって、鬱屈した挙句にようやくそうやって吹き出す場を見つけたと言うだけのことなのかもしれない。
戦争の方がよほど楽だと、ふとウォッカムは思った。人ひとりの気持ちを忖度して、それを手に入れようとするよりも、敵の陣地や基地を落とす方がよほど簡単なことのように、今のウォッカムには思えた。
だからこそ、モナド攻略は成功させなければならなかったし、成功して当然の作戦だった。
ペールゼンを手に入れ損ねはしたけれど、ウォッカムの手の中には、あの5人の兵士たちがいる。死なない兵士たち。どんな無茶な作戦の中でも、必ず生き延びて戻って来る兵士たち。ペールゼンの代わりになるはずもない、それでも、ウォッカムの成功のあかしとしては十分な彼らだった。
ペールゼンが手にできずに終わり、今ウォッカムが手にしているもの。ペールゼンを手に入れられなかった代わりに、ウォッカムが得たものだ。
どちらがより魅力的か、まだ分からない。作戦が終わって、ほんとうに"豊かな"終戦がやって来れば、それはおのずと明らかになるだろう。それを、ペールゼンが己れの目で確かめることはないにせよ。
残念だペールゼン、おまえを消さねばならんとはな。ほんとうに、残念だ。
今だけは、素直に本音を心の片隅に滑り落として、ウォッカムはいつの間にか消えてしまっていた微笑を、また改めて唇の端へ浮かべる。
キリコを手に入れられなかったペールゼンを、ペールゼンを手に入れられなかったウォッカムが殺す。皮肉な巡り合わせをわずかに笑える余裕を取り戻して、ウォッカムは、コーヒーへ再び唇を寄せた。
すっかり冷めたそれへ、眉の間を狭めると、それを見て取ったルスケが素早く自分の方へやって来るのを見やって、ウォッカムの頬には、いつものあの世界を見下し切った笑みが浮かんでいる。
クズスクがもう、目の前だった。