谷底の夜
クエントは奇妙なところだ。砂漠ばかりの風景にもうんざりしていたけれど、谷底へ降りて、シャッコの村へ着いてからは、クエント人とクエント語ばかりに囲まれ、何もかも初めてのキリコはすべてに戸惑うばかりだ。
キリコは"手を加えられた民"──PSを、彼らはそう呼ぶらしい──ではないと結論づけはしたものの、それ以上のことはまだ何もわからず、疑問に思うことすべて、ここではこうだと、それで説明が終わる。キリコが疑問に感じることそれ自体が、彼らには奇異に映るようだ。ここではテダヤを除いて、唯一言葉の通じるシャッコでさえ、キリコの質問にはほとんどまともには答えてくれない。
キリコに理解できるような答えそれ自体が、彼らの中に存在しないのだと思い至るまでに、少しばかり不満の募る時間があって、その余裕のなさを、ほとんどなだめるようにシャッコに指摘されて、3日目の夜を迎えようとしていた。
ここの夜は恐ろしいほど静かだ。地上の音は、ここまでは届かず、昼も夜もなく暗いばかりの谷底で、人たちは音もなく動き、声をひそめて言葉を交わす。クエント語がわかったところで、よほど耳をそばだてないと聞き取れないだろうとキリコは思う。
よそ者の自分がいるからかと思ったけれど、シャッコも、村人たちと話す時にはごく自然に声を低め、それを秘密めかしているとは本人たちは自覚もないらしい。シャッコの言うところの、ここはそういうところだ、と言うことだ。
大きな音を立てるのを嫌い、誰も皆大柄なのに、ほとんど空気を揺らしもせずに動き回る。騒がしいのは、たまに見かける子どもたちと家畜くらいだ。
背の高さと手指の形で、辛うじて男か女か見分けがつく程度の、村人たちはほとんどがフードのついた長衣を引きずるように着込んで、まれにちらりとシャッコと並んで通り過ぎるキリコへ視線を投げはしても、わざわざ声を掛けては来ないし、大抵はキリコの姿など目にも入らないように、顔を伏せたまますれ違ってゆく。
こんなところで、よくベルゼルガのようなATを作れたものだと、ボトムズ乗りらしい、八つ当たりめいた感想を抱いて、とは言え、自分は外から来た完全な邪魔者だと思えば、頭に浮かんだことをそのまま口にはしない程度の分別は取り戻して、主には自分をここへ連れて来てくれたシャッコのために、人目がある間はおとなしくしている。
日などほとんど一片も届かない昏さのせいで、夜の訪れは早い。夜だと言われれば、もう外に人の気配はなく、ひっそりと静まり返った谷底の空気は、いっそう重く淀んで、それをかき混ぜる動きなどどこにもないから、少なくとも地上からの裂け目近くに、爽やかな朝の風が吹き込み始めるまでは、まるで息をすることすら皆やめてしまったように、恐ろしいほどの静謐が落ち込んで来る。
静けさは足元へ溜まり、それは足枷のように、キリコの体を重くする。見えるはずもないそれが、水か何かのように、確かに自分の体を縛るのを感じながら、今夜も寝台へひとり横たわり、闇に目を凝らしていた。
これで3日だと言うのに、シャッコはキリコへ自分の寝台を譲り、椅子に腰掛けたまま眠る。それで疲れが取れるのかと訊いたら、クエント人は元々眠りが浅いと答えが返って来て、キリコはこっそり頭を振った。
クエントも、クエント人もよくわからない。わかろうとする必要はないのに、なぜかこの星へ着いて以来、よそ者と言う扱いが神経に刺さる。ここで生まれたシャッコといれば特別扱いをしてもらえるはずと、心の底で思い込んでいたせいかもしれない。恐らく、彼らにとっては、この扱いすら十分にキリコを受け入れていることになるのだろう。
おれは確かに余裕を失っている。
ここに来さえすれば、すべての謎がすぐに解けると期待していたのに、実際にわかったことなどまだひとつもなく、理解の範疇をはるかに越えたクエントの在り方が、キリコの苛立ちにいっそう拍車を掛けていた。
焦燥の理由はわかる。けれど、クエントに対する、ほとんど不愉快に近い自分の反応の原因が今ひとつはっきりしないことが、キリコをさらに苛立たせる。
静か過ぎて眠れないのを言い訳に、キリコはむやみに高い天井に視線を据えて、そのことを考え始めた。
シャッコがいなければ、テダヤ以外の誰とも意思の疎通もままならないこと、自分が明らかによそ者だと言う、まとう空気の違い、彼らにその気はなくても、疎外されているように感じることに、なぜか慣れない。
どこにいても、場違いな空気を振りまいて、馴染まないことに陰口を叩かれ理不尽な暴力の対象になることも珍しくなかった軍隊生活に比べれば、ここで遠巻きにされることなど、蚊に刺されたほども感じる必要はないはずだった。ひとりぼっちも異質であることも、キリコにとっては慣れ切ったことのはずなのに、なぜかここではそれが神経に障る。
おれを受け入れろと、大声で叫びたいわけではないし、まったく同質のものとして受け入れられると思っていたはずもない。この程度のことは、最初から予想していたじゃないかと、自分の内側へ、まるで諭すように話し掛けていた。
なぜ、とまた考える。そうして、天井を眺め続けるのに飽きたように、キリコは首を回し、顔の向きを左側へ変えた。そうして、下目に見えるシャッコの、坐ったまま眠っているらしいおぼろな輪郭を視界の端に入れて、思わずひどく小さな声で、シャッコ、と呼び掛けていた。
キリコのその声は届かなかったのか、シャッコは目を覚ます様子はなく、20秒ほどシャッコを見つめ続けた後で、キリコはそっと寝台から降りた。
「シャッコ。」
近づきながら、もう少ししっかりした声で呼ぶと、その声のせいか足音のせいか、シャッコはうつむいていた顔を上げ、胸の前で組んでいる腕はそのまま、すぐには焦点の合わない目を、それでも真っ直ぐにキリコへ向けて来る。
「どうした、眠れないのか。」
シャッコが、この谷底の静けさを壊さない低い声で言うのに、キリコは眉の端を上げて応えて、こうすれば視線の合うシャッコをやや見下ろす形に、今この近さが、なぜかひどく胸を突いた。
時々、自分がひどく幼くなるのを感じる。息を吐いて体の力を抜いた瞬間のように、自分の内側のどこかで背中を丸めている、子どもの自分が声を上げているのを感じる。少年ですらない、まだほんとうに、子どもの自分。ほとんど記憶のないその自分自身が、抱き上げてくれと両腕を伸ばす姿が、はっきりと見える。
その自分を抱きしめるように、キリコはシャッコに向かって両腕を伸ばした。
突然自分に抱きついて来たキリコを、シャッコは驚いたように、けれど振り払いはせずに、どうしたとも訊かず、数瞬戸惑った後で、シャッコの長い腕がキリコの裸の背中に回って来る。拒まれなかった安堵で、キリコはシャッコの肩の上で大きく息を吐き出し、シャッコの首に巻いた両腕の輪をもう少し縮めた。
「・・・おれを、ひとりにしないでくれ。」
思うより先に、唇からこぼれた言葉の塊まりに、キリコは自分で驚いていた。同じことを、ウドの街で思った。焼け落ちるあの街の真ん中で、キリコは猛烈な淋しさに襲われて、それにもう耐えられないと思ったのだ。
この谷底で、キリコは今同じことを考えている。自分の傍らにいるはずのシャッコが、ずっと遠かった。キリコの知らない言葉を使い、キリコの知らないこの星の人間たちと、それが本来のシャッコの在るべき姿で、親しげに振る舞う。キリコはそこへ入り込むことはできず、こちらへ向いたシャッコの背中を眺めるばかりだった。
だからだ、とキリコは思った。疎外感。感じる必要のないはずの、孤独。ひとりではない時の孤独は、ひとりきりの時の孤独よりも胸に突き刺さる。おまえのせいだ。わざと、キリコは胸の中でひとりごちた。それはまったく真実ではないのに、シャッコなら、実際にそう口に出して言っても、笑って受け流すだろう。
「眠れないのか。」
キリコの背中を撫でながら、シャッコがまた訊いた。
「ここは静か過ぎる。」
「そうだろうな。」
おまえにとっては、と続く言葉は、言わないまま、シャッコの声はどこかからかうように響いて、クエント語を使う時はいっそう低くなる声が、今はキリコの聞き慣れたそれに変わっていた。
立ち上がったシャッコから、自然に腕が外れ、けれどシャッコの腕はキリコの背中からほどけないまま、泳ぐような危うげな足取りで後ろ向きに、押された体は寝台へ戻され、けれどそこへ横たわったのはキリコひとりではなかった。
「あんまり、声を出すな。」
耳の近くで聞こえた声にうなずいた後で、あごの先に指が掛かった。
自分がどんなつもりだったのか、もう思い出す余裕も今度こそなく、シャッコの長い腕の輪に躯を収めて、触れられるまま、たちまち消えてゆく孤独を、キリコは見送ることもしない。
頭まですっぽりとかぶった毛布の中で、手指が静かに動く。こもる熱も、この谷底の静けさは壊さない。漏れる声は、シャッコの唇と舌が全部吸い取った。
シャッコの短い髪の中に両手の指をもぐり込ませながら、キリコは、いずれ知ることになる、まだ知らない自分のことを考えた。ひとりで、その自分に出会うことを、心の奥底で恐れて、その自分を知った後に、自分の孤独は消え去るのか、あるいはいっそう深まるだけなのか、そこへ一刻も早くたどり着いて答えを知りたいと思うのに、足を緩めて、永遠にそこへ行き着きたくないとも思う。
おれをひとりにするな。
今抱きしめているシャッコにと言うわけでもなく、虚空に向かって、キリコは唇だけを動かした。
ゆく先に何が待っているのか、キリコはまだ知らない。
今だけは孤独ではないと確信するために、音のない浅い口づけを重ねて、キリコはシャッコと一緒に、谷底の静謐の底へ沈み込んでゆく。ふたりが交ぜる熱も呼吸も、何もかも静けさの中に吸い込まれて、気配を消した。
昏い静かな夜が、終わりも見えないまま続いている。床にそっと落とされたキリコの耐圧服とシャッコの衣服が、毛布の中のふたりを写したように重なって絡まって、この静かな夜が確かに静かなだけではなくなったあかしのように、無音のまま佇んで、そこからふたりを見ていた。