2時の憂鬱
野立信次郎×大澤絵里子


疲労困憊、という言葉を思い出しながら、
「憊」の字が思い出せないのに苛立つ。
雨の多い季節になると、今ひとつ滑りの悪くなる自宅の鍵に
更に苛立ちながら、乱暴に扉を開ける。
靴を脱ぎ捨て、上着を脱いで、ネクタイを緩めて、
靴下も脱ぎ捨てて、野立は派手な音を立てて、
ぐったりとソファに座りこんだ。

顎を上げて背もたれに頭をのせ、両腕も大きく広げて乗せる。
思わず

「あ”ー」

と出てしまう声に、不本意ながら年齢を感じ、
更に苛立った。
時計は既に日付変更線を超えている。

あれから一年。

日本版CIAを画策した各省庁の関係者は全て一掃された。
ただし、その膿を出すのに半年かかり、大勢の逮捕者・更迭者が出る度に、
とりあえずの組織改編や人事異動で、各省庁の現場は混乱を極めた。
今は検察に引き渡し裁判中だ。
全てが落ち着くまでには少なくとも後一年はかかりそうだが、
とりあえず警察側の仕事は落ち着いた。
そして、関係者の一掃が一段落すると、今度は開かれた組織作りのために、
各省庁の枠を超えてのプロジェクトチームが立ち上げられ、
この半年で少しずつそれは形になり始めた。
警察機構も以前よりも風通しがよくなりつつある。

野立は、まずは日本版CIA画策事件の現場の指揮を任された。
政治家や官僚の数多くが関わっていたため、
この事件の対応は総監直轄の特別室として設けられ、
実質野立がトップだった。
人事から捜査方針、各省庁との駆け引き、黒原の逮捕直後から、
正しく分刻みでそれらの対応に明け暮れた半年。
退院して一月も経たないうちに、
再びアメリカに旅立った絵里子の見送りにも行けなかった。
それどころか、事件後当初の予定通り解散となった対策室だったが、
その後の人事を絵里子が直接総監に頼み、
アメリカに戻ることになった事を知ったのも、
絵里子が出発する前日だった。
更に、ようやく事件の収束が見えたのに、
開かれた組織作りのためのプロジェクトチームへの警察からの担当は、
嫌な予感はしていたが、野立となった。
このチームも総理直轄チームであり、各省庁より選ばれた者たちが
実質のトップであり、この半年で天と地がひっくり返るほどの
大英断が繰り返された。

この一年あまりにも大きなものとの闘いの日々に、毎日が疲労困憊だった。
おまけに、プロジェクトチーム立ち上げ直後に、
某省庁から選ばれた者への狙撃未遂事件が起こり、
その後プロジェクトチームの者には常にSPが付けられている。
これがまた、仕方ないと頭では分かっているが、
自他共に認める自由人である野立のストレスの増加に拍車をかけている。
そしてストレスが溜まれば溜まるほどに絵里子のことを思い出す。

先の事件の特別室の人事も、プロジェクトチームの人事も、
野立自身が選んだ精鋭たちだ。
一癖も二癖もあるが、長いものには巻かれない、根は真面目な正義感。
確固たる信念の下、野立と同じく日々闘ってくれている。
あの面子でなければ、事件の収束もプロジェクトも
恐らくもう半年や一年は遅れている。
けれど、後から後から湧いて出てくる仕事に、
この世で最も使える部下・大澤絵里子を思い出す。
基本方針さえ示せば、後は全て任せて安心、大澤絵里子。
言わなくてもこちらの意図を汲み、厳しくはあるが、
周囲への気遣いも忘れない。

「お前がいたら、俺の仕事も、半分とは言わないが、
今の2/3くらいになってるぞ。」

思わず口に出して、野立は苦笑した。

野立にとって絵里子は、同期であり、近年ではよき部下ではあるが、
大きな心配の種でもある。
そこらの男よりも、腕っぷしも鼻っ柱も強いし、頭もいい。
学生時代から、飄々とはしているが常にトップを走り続けている自負も
プライドもある野立が、唯一気を抜くと負けると思ったのが、
絵里子と森岡だった。実際、勝てない部分も多分にある。
その分、口にはしないが尊敬もしている。

ただ野立からすると、絵里子は自分の強さを過信していると思える。
「女だから」と下に見られるのを嫌がり、
心身ともに並みの男には負けない強さを持ったことを否定するつもりはない。
それに助けられたことも沢山ある。
けれど、目の前の多きな壁には真正面からぶつかっていくし、
開かない扉の前では諦めることなく扉を叩き続ける。
大抵の壁も扉も人が作ったものだから、弱いところはあるだろうし、
小さな綻びや、隙間だってある。
正面から向かってもダメなら、小さな窓や裏口だってありそうなものだが、
絵里子は正々堂々正面から向き合うことを選ぶ。
当然、傷つくことも多いが、大丈夫だと言って、
また満身創痍でも立ち上がる。
本当に惚れた男には猫のように甘えてるなどとほざいてはいるが、
あれだけ強情な性格が、そう簡単に180度変わるとは思えない。
人一倍人に気を遣うこともあり、相手の期待に答えているだけで、
素の自分を曝け出せているのかは、怪しいところだ。
演技だけは確かに上手い。
だから、どんなに傷を負っても泣きごとを言わない代わりに、
できれば傷つかずに、けれど絵里子が絵里子らしくいられるように、
可能な限り近い場所で、見守ろうと思っている。
もうちょっと若い頃は、それは恋愛感情かとも思ったが、
頑張りすぎる妹や娘を見守る兄や父親の心情に近いと思う。
今はもう、ただ普通に幸せになって欲しい。

絵里子が再びアメリカに発つのを知ったのは前日だったが、
きっと野立の希望と力を持って、それを反故にすることは出来た。
野立の部下として、手足として働かせたいと進言すれば、
易々と通っただろう。
けれど、そうはしなかった。
アメリカにいる方が、絵里子が絵里子らしく、
かつ能力も如何なく発揮できるのなら、その方がいいと思った。
ただし、研修は一年と言う期限付きなので、
本人が帰りたくないと言い、向こうで引きとめる様な要望がなければ、
来月末で絵里子の研修は終わる。
現時点でそのような話は出ておらず、
8月には日本に帰国の予定間違いない。
身近にそんな希望もあってか、

「まぁ、俺は俺で頑張るしかねえか。」

と野立はつぶやいたが、
顔は笑っていた。

開き直ったように、また一つ大きく息を吐くと、
目の端に光るものが引っかかった。
顔をそちらに向けると、留守番電話の点滅が光るのが目に入った。
面倒くせぇなぁと思いつつ、立ち上がり電話の録音を再生した。

『もしもし?私…、絵里子です。突然なんだけど…。
私もう日本に戻らない…。こっちで明後日結婚する。…ごめん。』

腕を組んでぼーっと聞いていた野立の目が見開いた。
慌てて再度再生する。

時計の針は午前2時。

米国東部との時差は15時間。今、向こうは昨日の正午だ。
絶賛仕事中だろうが、迷わず携帯の短縮ボタンを押す。
三度かけたが、繋がった瞬間に留守番電話のメッセージに切り替わるだけだ。
自宅にも一応かけてみたが、当然留守電だ。
くそっ!と言いつつ乱暴に受話器を置き、自宅のPCの電源を入れる。
立ち上がるまでの数秒にイラつきながらも、
手早く自宅と携帯両方にメールを送る。
同じことを携帯電話からも行った。

おそらく、後数時間待たなければ、向こうからの連絡はない。
おまけにそれは「早くて」だ。
運が悪ければ、数日放っておかれることもある。
眉間に深い皺をたたえていた野立の目が再び見開かれた。
再度携帯とPCを前に、諸々の準備を始め出した。

その日の午後、野立は機上の人となっていた。

キャンセル待ちで取ったニューヨーク直行便のビジネスクラスの大き目の座席を
ギリギリまで倒して、野立は目を閉じ、この一年を思い巡らす。
去年の梅雨明け丁度位に絵里子が旅立ってから、
二回ほど野立は絵里子に会っている。
一度目は、ほぼ病み上がりで旅立った絵里子が気にかかり、
九月に無理矢理もぎ取った四日ほどの遅い夏期休暇で、
一泊四日で顔を見に行った。
人の心配を余所に、元気ハツラツ絵里子は仕事をしていた。
その時担当していた捜査で、結局絵里子と会えたのは、
帰りの飛行機の間際だったが、
どうせいないないんだしということで(いてもそうするつもりだったが)、
絵里子のアパートメントに泊まった時には、男の気配はなかった。

二度目は、つい最近三月だ。
野立のあまりの忙しさを見兼ねたのか、フロリダで行われる国際犯罪対応のための
各国警察首脳の会議の随行員として、選ばれた。
総監の直接命令で、「この忙しいのに!」と思ったが当然逆らえず、
仕方なく付いて行ったが、滞在五日間の予定の内、野立の仕事は二日だけ。
残りの三日は好きにしろと言われ、何をどう気を利かせたのか、
一人では何だからと案内役に絵里子を呼んでいた。
そして、誰の趣味なのかディズニー・ワールドのチケットと
そのオフィシャル・ホテルの予約をされており、
何故か絵里子と三日間そこで過ごした。
あの時は、確かに電話やメールを時々していたが、
まぁ付き合っている男がいるのかもくらいは思った。
が、結婚するなどと、そんな様子は一切見えなかった。

けれど、まぁいい。
いつどこで知り合ったどんな男でも、向こうに永住することになっても、
絵里子が普通に幸せになるなら、それでいい。
ただ、本当に幸せになれるのか、この目で確かめたかった。
兄気分も父親気分も相当なものだと我ながら思う。
お陰で機内食は一切手をつけられなかった。


JFK空港に降り立つと、時計は午前11時。
まずは、通信専用タブレットと携帯を取り出す。
結局、出発前に絵里子とは直接連絡が取れなかった。
だが、自宅と携帯へメッセージを残し、
携帯と自宅PC両方にメールを送った。
さらに、野立会の人脈および秘書として動いてくれている部下を使い、
絵里子の結婚式の日時と場所を調べさせていた。
電源を入れると、次々にメールが配信されてくる。
その間に、とりあえず携帯の留守電を聞くと、
怒った絵里子の声で5件もメッセージがある。
面倒なので、飛ばしていると最も必要な情報が部下の声で入っていた。

『セントラルパーク近くの○△教会で○日11時半より結婚式予定…』

専用ラウンジの更衣室で一応正装し、空港を出てタクシーに乗り込む。
急げばライス・シャワーくらいには間に合うはずだ。

運の悪いことに事故渋滞に巻き込まれ、その小さな教会に着いたのは、
午後の1時を過ぎた頃だった。
とても小さな教会で、既に人気がほとんどない。
恐らく式は終わり、パーティー会場にでも移動したのだろう。
絵里子の結婚式が見れなかったのは、
きっと一生の不覚と悔やむこと間違いない。
大きなため息をついて、けれど野立は一応教会の中を見ておこうと、
キャリーを重く転がしながら、足を進めた。
扉を開けようとしたところで、後ろから声をかけられた。

教会は小さいが古く由緒あるものらしく、扉は固く重かった。
中に入ると、一番前のベンチに座るウェディング・ドレスの後ろ姿がある。
キャリーを扉の横に置き、野立は足音高く近付いた。
床に散らばる花弁や金属やガラスかけらやら何やらを上手によけながら。
それに気付いた絵里子が振り返ったが、すこぶる不機嫌な表情をして、
再び前を向いた。

「よう。」

野立がいつもの調子で声をかけ、絵里子の隣に腰掛ける。

「やっぱり来たの。」

まったくその姿形に似合わない、表情と口調で絵里子が返す。

「お前の結婚式だ。俺が来ないで誰が来る。」
「帰りは?また忙しいのに無理矢理来たんでしょう?明日には帰るの?」
「いや、チケットが取れなくて、明後日の夜の便で帰る。」
「そう。私はこの後一週間休みを貰っているから、
明日も明後日も付き合えるわよ。泊まるところは?
どうせまだなんでしょ?またウチでいいわよ。」

乱れた髪飾りを無理やり引き抜いて、バサバサと絵里子は頭を振った。

「あぁ、疲れた。」

と愚痴る絵里子を横目に野立は言う。

「結構似合うじゃねーか、それ。」
「当たり前じゃない。散々試着して買ったのよ。
それらしくするために、2千ドルもしたんだから。
ったく、ホントに経費で落ちるのかしら…。」
「ここ破れてるぞ。」

野立が袖口のレースを指した。

「えぇ!!!破損したら買い取りかも知れないのよ!!ちょっと!マジ?」

絵里子は額に手を当てて、がっくりと落ち込んだ。

「ま、買い取りだったら、本当の自分の時に使え。」

そう言って鼻で笑う野立を、相手を殺しかねない程の視線で睨み、
再び絵里子は盛大に大きなため息をついた。

腹の虫が鳴り始め、時計を見ると2時を過ぎていた。
お互いに朝からほぼ何も口にしてないことに気付く。
止まったタクシーに荷物を積んで、
ボリュームのあるドレスの裾を野立は持ち上げ、絵里子と並んで乗り込む。
邪魔くせぇなぁ、という呟きをギロリと睨んで
絵里子は言い慣れた部屋の住所を運転手に告げる。

「まぁ、異国の地で一人頑張っている完全に婚期を逃した女なら
囮に打ってつけだわな。」
「まだ逃してませんから。」

不穏な空気が流れる後部座席に見かねた運転手が声をかける。

『結婚式だってのに、ケンカかい?相当派手にやったみたいだねぇ。』

運転手は絵里子の乱れた髪を不躾に眺める。

『ええ、こいつ強いんですよ。いつも負けてます。
そうだ、指輪の交換がまだなんで、ここでしていいですかね?』
『はい、はい、どうぞ。』

野立は絵里子がずっと握りしめていた白いビロードのケースを奪うと、
中から指輪を取りだし、絵里子と自分の指にはめた。

「おっ、これ俺のサイズぴったり。丁度いいな。」

一瞬、何が起こったか分からなかった絵里子が声を上げる。

「ちょっと!何するのよ!!」
「どうせこれも買い取りだろ。サイズも丁度いいし、丁度いいんじゃねーか。」
「はぁ?何が丁度いいのか、全く分かりませんが!!」

再びケンカを始めたと認識した運転手が仲裁するように大きめに声をかける。

『健やかなる時も、病める時も』
『誓います』

言いながら近づく唇を阻止しようと、思わず絵里子は自分の口を両手で覆った。
至近距離で、眉を寄せた野立が低く告げる。

「教会の前でテログループの資金源・情報源になっているらしい
結婚詐欺の囮捜査だって聞いて、マジでほっとした。」

目が大きく開かれ、絵里子の口からゆっくりと手が離れる。

「それって私を好きだってこと?」
「ああ。だから年も年だし、もう結婚でいいだろ。」

ゆっくりと絵里子の瞼が下りる。

唇が合わさる直前に「指輪は5千ドルだから」という絵里子の台詞は、
野立は今は忘れることにした。






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