角松一郎×堤芯子
「洋子!…や、芯子、芯子つ!」 角松の切迫した声が響く。 蒼白な顔で水面を見、左右を見、助けを求めても誰も居ないことを確かめると 慌しくスーツの上着を脱ぎ捨て、震える指先でネクタイを緩める。 ────ああ、溺れたことあったんだっけ……子犬助けて。 対岸の縁にびしょ濡れで腰掛け、芯子はわなわなと揺れる角松の両膝を眺めた。 も、ちょっと顔上げて前を見れば、あたしがここに居るってわかるのにねえ ……詰めが甘いんだから。 ────無理すんな そう声にする前に、 「芯子!死ぬなよ!」 角松が川へ身を躍らせる。 ────……っ! 思わず腰を浮かせた彼女の耳に、工藤と金田の心配気な呼び声が届き、 ぺたん、と芯子はまた座り込んでしまう。 「芯子っ!…た、助けてっ……!」 ばしゃばしゃと水飛沫をあげてもがく角松を見つけて 工藤達が上着と靴を脱ぎ捨てる。 「何やってんの?!」 やっと声が出せた気がする──── 芯子は水面の水飛沫と、対岸の二人に向かって叫んだ。 何故かうろたえた自分にほんの少し腹を立てながら、 芯子は脱いだ靴を逆さにかざして中の水を投げ捨てる。 「……ヴあ?!」 間の抜けた声と共に角松が芯子の方を見た。 「ああぁ?!芯子、おまっ……ヴふわっっ!」 「そこ、背が立つから」 「……ほんとだっ!」 水を滴らせながら、ばつが悪そうにぬぼぉと立ち上がった長身の男は、さながら… ────濡れそぼった大きな犬だね。羊とか追っかけてるやつ。 なんて言ったかねぇ……なんとかイングリッシュ・シープドッグっての? あわてて川岸に駆け寄った工藤達は、 川の中で腰まで水に浸かって立ち尽くす角松に安堵の息をもらす。 その直後、違和感を覚えた金田は眼鏡の奥の秀麗な眉を微かに寄せた。 金田の表情を捉えた芯子が問う。 「ねぇ、ここの水の深さってさ、何メートルあるはずだっけ」 「6メートル」 工藤の眼が見開かれる。 芯子は角松に向かって手をひらめかせた。 「そのまま真っ直ぐ歩いて」 「無茶言うなッ」 「いいから、歩けって! ………あたしも今、そっち行くからさ」 「……へ?」 巻き毛の先から水滴を飛ばしながら、 いいよ来んなよ危ねーよ、と叫ぶ男にはかまわずに 芯子は工藤に顔を向ける。 「シングルパー、写真撮って」 「はい!」 そのまま角松を指差す。 「こっちのシングルパー入れて撮って。深さがどれくらいかわかるようにさ。 あれだ、釣った魚のスケール代りのマッチ箱だね」 それって例えとしてどうよ、とでも言いたげな角松に向け、 カメラを持って戻ってきた工藤がシャッターを切るのを確かめて、 芯子は再び川に飛び込んだ。 音も立てず滑らかな動きで角松の傍まで泳ぎ着き、 すっと立ち上がると黒目勝ちな瞳で彼の顔を覗き込む。 たじろいだ角松が呟いた。 「河童か」 「古式泳法だよん」 「……おまえ、何者よ…」 ────ふう。 ようやく人心地がついて、芯子は湯の中で身じろいだ。 昨夜、角松が言っていた公営の温泉だ。 すっかり凍えた二人を、工藤達がここへ連れてきてくれた。 結局、川の中をほぼ1km、歩いたことになる。 水への恐怖心をなんとか押さえ込んだ角松は、つま先で川底を探りながら 芯子の半歩前を行く。 機材を担いだ金田と工藤が、川岸に沿ってついて来る。 「あ……!」 何かにつまずいた芯子の左腕をとらえ、背に腕をまわして支えた角松は 芯子の視線から逃れるように水流の先を見やった。 「ありがとな」 濡れて張り付いたワイシャツの白さが眩しい。 「おふくろも、この里も、これで……」 角松はいったん視線を落とすと、今度は芯子の眼を見つめる。 「ありがとな」 ぱしゃん、と片手ですくった湯を肩口にかけながら 芯子は微笑んだ。 その指を自分の首筋に添えてみる。 ────この辺に、ほくろがあるんだよな……あいつ。 覚えてる。 忘れちゃいない。 耳元でささやかれたあの声も。 ────洋子、洋子…… その名を呼んであたしを助けに来てくれた。 ……溺れかけたけどな。 芯子の唇からクスッと息が漏れる。 なんだか頭がぼうっとする…のぼせかけてるのかな。 うつらうつらと、彼女は角松が川に飛び込んだ場面を反芻する。 ────洋子!…や、芯子、芯子つ! 芯子の微笑みが消える。 あの時とっさに出てきたのは“洋子”の名…… あいつにとって、今だに忘れられないのは“洋子”なんだ。 こんな、はすっぱな口ばっかし叩いてる、前科持ちの“芯子”なんかじゃない…… あいつの隣に並んで一緒に歩いてくのは……芯子じゃあ、ない。 冷たい川の中で、確かに伝わって来た角松の体温が 暖かな湯の中で、さらに温もりとなって左腕と背に蘇ってくる。 両手で顔を覆って俯いている自分に気付くと 彼女はひとつ首を振って、立ち上がる。 見事な肢体に上がり湯を掛け終ると、不敵な笑みが浮かんだ。 ────まったく、見事に騙しおおせたもんさ……我ながら、ね。 SS一覧に戻る メインページに戻る |