角松と芯子(洋子)の出会い(非エロ)
角松一郎×堤芯子


耳障りな音を立てている遮断機が、列車の通過が近いことを知らせている。
夜も更けて人通りも殆どなくなったその場所で、角松一郎は何度目か知れないその音を聞きながら一人立ちすくんでいた。
冷たい秋の風がヒューっと音を立てながら彼の目の前を駆け抜ける。寒さで両手を無造作にそのポケットに突っ込めば、その中で不意に何かに触れた感触に、思わず動きを止めた。


「……」


触れたそれの正体など、確認するまでもない。
今日の夕方、検査庁を後にする際に引きちぎるようにしてスーツのポケットに突っ込んだ一枚の紙切れ。
公務員の身である彼にとって、大切であるはずの『辞令』と書かれたその紙切れを、角松は惜しみもせずにその中で握り潰した。


「くそっ…!」


あの日から、声にもならないこの悲痛な叫びを一体何度繰り返したことだろう。
彼が信頼する部下と共に暴いた防衛庁の100億もの不正は、蓋を開ければたったの8億にされていたという事実。
その上、天下り先の確保が優先という、あまりにも身勝手で理不尽な理由のおまけ付き。

自分が選んで進んできた道は、何も間違ってなどいなかったはずだと今も角松は信じていた。
『国民が汗水を流して国に納めた税金を、無駄遣いする輩を絶対に許す訳にはいかない。』そう思ったからこそ、自分は会計検査庁に入ったのだから。
自らの正義を信じて進んだ道に後悔などないけれど、組織の中でのあまりにも非力な己の存在を思い知らされてしまう。そしてそれは、彼に絶望を与えるには十分過ぎる物だった。

ポケットの中で握りしめていたそれを徐に引っ張り出し、ゆっくりと広げて中身を確認する。
異動部署の欄にはっきりと書かれている『特別調査課』の文字さえも、彼を嘲笑っているかのように思えた。
『検査庁のパフォーマンス集団』の異名を持つその場所は、文字通り手のひらで踊らされていた自分にはまさにうってつけの異動先かもしれない。

いつの間にか列車は通過し、視界を遮っていた遮断棒が元の場所へとその姿を隠していたことに気がつき、角松はハッと我に帰る。向かい側からすれ違った人の姿が、自分の部下とよく似ているような気がした。


「金田の奴、大丈夫かな…」


彼の脳裏に蘇るのは、検査庁で最後に見た金田鉄男の姿。
『ごめんな、鉄ちゃん。こんなことになっちまって…』
『…謝らないで下さい。角さんが悪いんじゃありませんから。』
他に何を言うでもなく、黙って検査庁を後にした彼は、今頃どこで何をしているのだろう。
今回の件で、角松が唯一後悔していること。
それは、ノンキャリの自分とは違って、将来有望な金田を巻き込んでしまったこと、ただそれだけ。
けれどその一つが、部下想いの彼にとって、あまりにも大きな後悔なのだ。

ここに来る前に立ち寄った自宅のテーブルの上に置いてきた一通の『遺書』。
角松が今ここで、次にやって来る電車の前に飛び出すことが出来さえすれば、その中身は必ず公になるだろう。
『今回の件の責任は全て自分一人のものであり、部下である金田鉄男には何も落ち度はありません。』
とだけ書かれたそれを。

金田を救ってやることが出来ると分かっていながら、後一歩が踏み出せないままにただ時間だけが過ぎていく。
ガタンガタンと無情な音を立てる列車を見送る角松一郎のその頬には、一筋の涙がその痕を遺していた。

「はぁ…、まったくスウスウして寒いっつーの。」


同じ頃、履き慣れないピンヒールをカツカツと鳴らし、不機嫌な表情を隠すことなく一人通りを歩いていた堤芯子は、吹き抜ける風のせいで捲り上げられるスカートの裾を手で抑えながら、そんなことを一人呟いた。
つい先ほどまで、好きでもない男に興味もない話に延々と付き合わされていたために、彼女の機嫌の悪さは今まさに頂点に達しているところだ。
自らの利権の事しか頭になく、下らない自慢話ばかりのその男は、芯子が最も嫌いなタイプで、ふとした時に触れられた腰の辺りが気持ち悪くて仕方がない。


『あんな奴、騙されて当然だっての…』


そう思う一方で、ふと啄子やみぞれの顔が脳裏に浮かんでくる。それを追い出すかのように、彼女は慌てて頭を左右に大きく振る。
履き慣れないこの靴も、好きでもないこんな服装も、一刻も早く脱ぎさってさっさとシャワーを浴びて寝てしまいたくなった。

よし、と気合いを入れ直して顔をあげた彼女の視線の先で、一人の男が立ち尽くしているのに気付く。


「なにやってんだ?こんな時間に…」


電車はとうの昔に過ぎ去ったにも関わらず、全く動こうとはしない様子に、芯子は首を傾げた。
詐欺師の性なのか、まず足元に注目することを忘れない。
擦りきれたその靴の持ち主からは、どう見ても金の臭いなどしそうになかった。
とてもカモにはなりそうにもない男だとすぐに分かるのに、なぜか彼女はその視線を彼から離すことが出来ないでいた。そして暗闇の中で、男の頬を伝う一筋の涙に目を奪われる。


『あいつ…、泣いてんのか?』


「大の男が、こんな所でみっともないねー」
なんて毒づいてみせたものの、どうしても無視出来ない何かを、彼女はその男に感じてしまう。


「ったく、仕方ねーな…」


こんな場所で、どんなみっともない顔をして泣いてやがるのか見てやりたいだけなんだ、と自分で自分に言い訳をしながら芯子はその男が立っている所へと足を進めたのだった。

「あの、どうかされましたか?」

「うわっ!」

「す、すみません。何かお困りのように見えたので…」

「あ、こちらこそすみません。ちょっと考え事をしていたものですから…」

「そうですか。電車はもう通過しましたよ。また新しいのが来るかもしれませんから、早く渡られた方が…」

「そ、そうですよね!すみません、ありがとうございます。」


辿々しい会話が進むそばで、また一際強い風が吹き、疲れきっている芯子の足は、その風に耐えることが出来ず、彼女は思わず前のめりになってしまった。


「きゃっ!」

「うぉっ!?大丈夫ですか?」


小さな悲鳴をあげた芯子を、角松は咄嗟に抱き留める。思いがけず抱き締められる形になってしまった彼女は、驚きでその身体をびくりと震わせた。


「あぁっ!す、すいません。つい…」


初めて至近距離で見上げた角松の顔は、芯子以上に疲労の色を浮かべ、その瞳をとても寂しげに潤ませている。そして彼女は、無意識のうちに彼のその頬に白く長い指をそっと這わす。


「えっ…」

「泣いてらしたんですか…?」


身体を固くした角松に構わずにそう言葉を続けると、彼がハッと息を飲んだのが分かった。
バツが悪そうに視線を反らした彼に笑いかけてやると、照れくさそうに頬をかいている。
その様子を見ながら、今自分が会ったばかりの男と道端でとんでもないことをしていることにようやく気がつき、慌ててその身体を離した。


「す、すみません。私は大丈夫です!助けて下さってありがとうございました。夜も遅いですし、気をつけて帰って下さいね!それじゃ…」


突然失われた腕の中の温もりが、角松にもまた現実を思い出させる。
久しぶりに触れた他人の温もりが、張り詰めたままの彼の心を急速に溶かし、気がつけば芯子の腕を握りしめた。

それは、2人の複雑な運命の糸が初めて絡み合った瞬間。






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