握りつぶした感情(非エロ)
藍沢耕作×白石恵


昨日も医局のソファーで寝て過ごした。
いつもと変わらない朝…病院内の敷地をランニングし
シャワーを浴びた後、HCUの状況を見ようとステーションへ向かう。
待っていたエレベーターがやってきて、ドアが開く瞬間から
中から会話の破片が聞こえた

「――…ら、早く行け…。分かったら教えてくれ」

黒田の声だった。しかし…違和感のある、柔らかな口調…。
自分の指先を見ていた視線を正面に上げる
エレベーターから黒田が出てきた…視線が合う、会釈をした。
黒田はいつも通り、自分の横を素通りしていく。
そしてエレベーターには、白石が驚いた顔でこちらを見ていた

「…おはよ…藍沢先生…」

ぎこちない挨拶、動揺してるのか?…何を?

「―お早う」

ドアの前に立ち、行き先の階数ボタンを押す。
背後の白石の動揺した空気が、伝わってきた
…しかし違和感のある、黒田の柔らかい口調が耳に残る

「白石…」
「――っん?なに…?」
「患者の検査結果の話か、黒田先生」

数秒、間が空いた。思わず振り向いて白石を見ると
動揺を隠し無理した笑顔で白石があわてて返事をする

「そう。早く302の中野さんの検査結果をって…」
「――そうか。」

…そんなに急ぐ症例だったか…?血栓症だったっけ…
白石の言う患者の状態を思い出そうとするが、少し曖昧だった。
そのまま会話もなく、エレベーターのドアが開く。HCUへと向かいながら
藍沢は、耳に残る聞いた事のなかった黒田の穏やかな口調が、引っかかっていた。

その日もいつも通りミッションをこなしていく1日だった。
ヘリで搬送してきた急患の処置も終わり、昼食を食べる時間があったので
一人、食堂へ向かうと、数十m先に白石の背中が見えた。
すると食堂の前で、白石が立ち止まった…そして、腰を屈める。
中腰のままこちらを振り向くと口元を押さえて近くにあるトイレへと駆け込んでいった
…大丈夫か、あいつ。
何か、気になり食堂の前で立って待っていると数分して白石がトイレから出てきた。
そして藍沢を見るなり、朝と同じ驚いた顔。

「どうした?体調悪いのか」
「…うん、ちょっと…。でも、大丈夫だから…」

ハンカチで口元と手をふきながら白石は頷いた。確かに少し…顔色が良くない。

「おー!白石、藍沢、こっちこっち!」

いつもの陽気な藤川の声だ。とりあえず無視して1つ斜め前のテーブルにつく。
白石は呼ばれるままに藤川と緋山が座る席へと進んでいく

「何?あんたもダイエット?」
「ううん…ちょっと、体調よくないから」

緋山との会話が聞こえる。白石は小さいサラダのみがトレーに乗っていたからだろう
食事をしながら嫌でも3人の会話が聞こえる。

「どうしたどうした〜?遅い夏バテか?」
「大丈夫。ちょっと、夏バテなのかもね…」
「藍沢は夏バテとかしそうにないよなー。仮眠少しだけでも毎朝走ったり、ほんとご苦労なこった」

…今日は朝からの違和感が、気になる。
気にしすぎか…。そう自分で丸め込もうと、食事をはじめた。

午後は比較的、暇になっていた。ホットラインも鳴らずヘリ要請もなく――
医局でデスクワークをしていると、電話が鳴る。「救命医局です」電話に出ると

「産婦人科の吉田です、白石先生はいらっしゃいますか?」
「――いえ、今は外してますが…」
「そうですか。PHSにかけたんですけど、出られないみたいで…。
 あの、15時過ぎなら大丈夫ですので外来に来て頂けるようお伝えください」
「…わかりました。伝えておきます」

そうして内線電話は切れた。
…そうなの……か?
漠然とした予測がついた、しかしその予測は、意外すぎるもので、自分で予測してから少し動揺した。
そこへ白石が医局に戻ってきた。

「おつかれ。大腿骨骨折の西田さんが暴れはじめちゃって…帰りたいって。大変だったぁ。
 ―あ、電話…」

PHSの着信に気づいた白石に、藍沢は預かった伝言を伝えた

「さっき…白石宛に産婦人科から電話があって、15時過ぎがOKだから外来にきてくれって」

ぎょっとした顔の白石は「…ありがとう…」小さく、搾り出すように礼を言う。
プライベートにかかわる事…放っておけばいい…そう言い聞かせるが
何かの衝動か、ついに聞いてしまう。

「白石…もしかして妊娠してるのか」

ボールペンを動かす手が止まり、白石はこちらをやっと見た。

「藍沢先生には、今日は気まずい所ばかり見られてるね…」

自分の身体を抱きしめるように両腕できゅっとしながら、白石がぽつぽつと話し始める

「ちょっと体調悪くて…生理も1ヶ月止まってて。疲れてるからかなって思ったら
 吐き気が一昨日くらいから始まって…。ドラッグストアで検査薬を買ったら…陽性だったの」

ああやっぱり、と自分の推理に納得したと同時に、一瞬で色々な妄想が頭に過ぎる。
という事は、それなりの「相手」がいて、その「相手」とは「それなりの関係」という事で…
白石の顔を見ると、泣きそうな顔になっていた。

「相手は…。知ってるのか」

うん、と頷くと白石の目から涙が零れる。それをあわてて腕で拭っている

「―相手は、何て?」

「…どちらにしても診察受けたほうがいいから、早く行け…。分かったら教えてくれ」

白石のその言葉は、ピタリとパズルのように藍沢の耳の中で当てはまってしまった。
朝聞いた…違和感のあった、黒田の穏やかな口調の言葉と――

更に大きく泣き出しそうな声をを抑える白石…不安に、決まってるよな…
藍沢はその不安を…少しでもなんとかしてやりたいと思う、けど、どうやって…
自分にできる事は、無い…。小さく震える白石の肩に…そっと、手を添えた。
抱きしめて震えを止めてやりたい――それは、衝動であって、相手は望んでいないかもしれない。
藍沢の衝動と白石の感情の中間地点である、肩に置いた手――

「ごめん…ありがとう…。
 誰にもいえないし、どうしていいかわからないし、びっくりしちゃってて…」

ティッシュで涙を拭いて落ち着こうとしている白石に、先程の言葉の主を聞く事ができなかった。

「その時間は、俺が白石の分もやっとくから。誰にも言わず行っていいよ」

そういい残し、医局を後にした。廊下を歩きながら動揺している自分を押さえようと考える。
あの白石が…妊娠。そして相手が…
有り得ない。どう繋がってこの結末になったのか、全く想像もつかない。
そして自分が白石に対して、何か、モヤモヤとすっきりしない感情を持った事が、イラついた。
小さくため息をつくと、胸元のPHSが鳴る。出ると相手は黒田だった

「今からバイク事故で3人来るぞ。早くこい」
「わかりました」

走って救急車の受け入れへと向かう。
今は…仕事以外の事を考えるのは、無意味だ――
藍沢は、割り切ろうと思った。


気づけば窓の外は薄暗くなっていた。
黒田執刀の緊急オペの助手も終わり、人が疎らになったロビーのソファに座る。
自販機で買ったコーヒーを飲もうとした時に「藍沢先生」と呼ばれ、顔を上げると
白石が歩いてくるところだった。そして、2人分あけた隣に座る。

「どうだった」
「うん…してなかった。簡易検査キットって、稀に陰性でも陽性反応出す事があるみたい。」
「そうか…」
「体調悪いのは、多分疲れからくるホルモンバランスの異常じゃないかって。
 暫くホルモン剤服用で、コントロールすれば安定するって」

よかった…。
コーヒーを飲み、よかったと思う自分が、どこか嫌だった。

「相手には、伝えたのか」

余計な一言。相手への嫉妬か、相手特定のためか――聞いてから、後悔したが白石は答える

「うん。さっき電話した…。よかった、って。」

白石も自販機にコインを入れて、何か飲み物を買っている。
自販機のほうを向いたままで白石はぽつりと言う

「よかった て言われて…少し、寂しいって思っちゃったの…」

紙コップを自販機から取り出すと、ソファにすわり俯いてコップを見詰めながら

「本当に妊娠してたとしても、多分…堕ろせって言われたんだって分かったから…」

また、白石が少し涙声になっている。
情緒不安定にもなるか…今日1日で、バタバタと自分の一生が少し左右される事が起こったんだ。
藍沢は指先を弄りながら話す

「白石の医者としてのこれからを思ったから、「よかった」って言ったんじゃないか?
 今…それで仕事を1年や2年休むと、取り戻すのに倍はかかるだろうしな」

「そういう意味…だったら、いいね…。そう思っておこうかな…」

暫くの無言。白石の鼻を啜る音が何度かした。

「――藍沢先生だった…どうする?もし…今、彼女が妊娠したら」

彼女…自分にはいない。しかしその例えは、白石が「相手」とつきあっていると
無意識に表現している事にならないか…そう推理して、黒田の声が耳にまだ残っている。

「どうだろうな…。相手の事を本当に好きだとしたら…相手に任せる。
 そういう時男にできる事は、経済的・精神的フォローだけだからな…」

「そうなんだ」と小さく白石が返事をした。
こっちを見て、涙で濡れた目を掌で拭いながら白石が笑っている

「好き、なんだな。相手のこと」

コーヒーを飲み干し、小さく聞くと「―うん」と小さい返事が聞こえた。
…妙な、感情は、やっぱり、無意味―――藍沢は「妙な感情」と一緒に紙コップを掌で、潰した。

「でも彼は…そうじゃないかもしれないね…。今日、わかった…」

立ち上がった藍沢に、白石が呟いた。

「―――黒田先生は、そこまで自己中心で冷酷な人じゃないよ…」

精一杯の、フォロー。そして、確認。
しかし振り向く勇気が…無かった。続く白石の無言に、答えを確信してしまう…。
また、鼻を啜る音がする。白石は涙声で、呟いた

「藍沢先生だったら…相手が藍沢先生だったら…もっと、分かり合えたかな…」

握りつぶした紙コップを、更に右手で握りつぶす。
彼女が言う意味は…詮索しないほうが、自分のため、と――

「だけど実際は俺じゃない…。白石が想った相手は。」

そう言うと、廊下を歩きはじめ白石から離れていく。
藍沢は、握りつぶした白石への「感情」を沈静させようと、一人病院の外へと出て行く






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