湯川学×内海薫
![]() いつものように研究室に入って席に腰を下ろし、いつものように インスタントコーヒーを飲みながら、いつものように軽い口論をし、 いつものようにどちらかが先に部屋を出て行く。 そんな風に彼女の頭の中で思い描かれたものは、確かに的中していた。 ――途中までは。 数十分ほど前、内海薫は某有名大学内を歩いていた。向かう先はもちろん、 変人ガリレオこと湯川学のところへである。 というのも、彼女の携帯電話にまたしても意味不明なメールが入っていた からある。件名は空白、本文は絵文字のみというものだ。これは一体どう いうことなのか?その真相を究明すべく薫はやってきたのである。 彼女は研究室の前で足を止め、扉の横へ目をやった。そこには湯川と、その 関係者と思われる人物達のネームプレートが数枚。彼以外は『退席』という 札が貼り付けてあった。湯川は中にいる。そう確信した薫は、目の前の扉を やや強めにノックをした。しかし、返事はない。もう一度繰り返したみたが、 結果は同じだった。 (何……いないの?) 彼女はムスッと顔に不満の色を浮かべた後、ふと思い出した。 今日ここへ来ることを、湯川は知らない。薫が告げていないのだから、まあ 当然のことである。というのも、あのメールが全く解読できない苛立ちが募 り、その勢いで彼を訪ねてしまったからだ。 しばらく考えて、(さすがに連絡なしはまずかったかな)と今になりようやく気が ついたが後の祭。それにここまで来てしまったのだから、最早関係ない。そう 思考を巡らせていると、中からカチャカチャと音が聞こえてきた。 (居留守かよ) 口の動きだけでそう呟いた薫は、息を吐いて意味もなく気を引き締める。そして 彼女はノブに手を掛け、軽く捻った。扉は思ったよりすんなりと彼女を受け入れ た。 キィと声を上げる蝶番の音は、以前聞いた時よりも大きく響くように感じられた。 部屋の中は片づいているようなそうでないような、微妙な状態だった。台に広げ られた新聞紙の上には何かの実験器具、横にある棚には、何かの薬品の瓶が数本 収まっていた。その近くに散らばっていたメモ書きをなんとなく手に取ってみた。 なにかの数式やらアルファベットで埋め尽くされている。全く訳が解らなかった。 もしかしなくとも湯川が書いたものなのだろう。それにしてもなぜこんなにこそ こそしなくてはならいのか。(別に悪いことしてるわけじゃないんだけど……)と 首を捻り、メモを元の場所に戻そうとした時だった。 「君は一体、誰の許可を得てここにいる」 「ほぁ!!」 「それが返事か?君は変わった返事をするんだな。」 予期せぬときに声を掛けられた薫は、目を大きく開き声の方向へ振り返る。 背後から話し掛けてきたのは、湯川学だった。白衣の袖を肘まで捲り上げて いる。どうやらコーヒーカップを洗っていたようだ。 「い、いるんなら返事くらいして下さいよ。そそそれにいい歳して居留守……」 「僕はノックの返事をしなかった。つまり僕はここに居なかったということにな る。まあそれも君が入ってこなければの話だが。だいたい返事が無ければ入っ てもいいと判断するところが全く信じられない。それに居留守というのは―― 「あーあーもういいです、すべて私が悪かったです申し訳ありませんでした!」 (だったらネームプレート退席にしとけよ)と胸の内をよぎった言葉を飲み込み、 彼女は湯川を遮ることを優先した。 「全然わかっていない。」 湯川やれやれといった表情で軽く文句をこぼし、溜め息をつきつつも、慣れた 手つきでインスタントコーヒーを作り始めた。薫は(またあのコーヒー)という 思いを払い除けて荷物を置き、彼の様子を見ていた。やがて部屋中にコーヒー の香りが漂ってきた。湯川は両手に一つずつカップを持ち、一つは薫のそばの 机にコトリと置き、もう一つはそのまま自分の口へと運んだ。 「で、君が僕のところに来るからには、何かあるんだろう。」 「あるんだろうって、こっちがそれを聞きに来たんですよ。」 「座らないのか。」 「すぐ終わりますから。」 あのコーヒーを味わいながら言う湯川に、人の話を聞いているのかと文句を投 げつたかったが、そうしたところで彼が返してくる行動は、薫にも大方予想が つく。負けるのが目に見えて悔しいが、薫は言葉をしまいこんだ。 「メールですよ。あの意味不明な。何なんですか、あれ。」 「ああ、あれ。そのことなら僕が自分の中で既に解決した。」 「は?」 「だから、もう忘れてくれて構わない。」 自分勝手な答えはいつものことだ。薫は怒りを抑え会話を続ける。 「先生、からかってます?」 「別にからかっているつもりはない。」 「……ならせめて、それが何だったのかくらいは教えてくれてもいいんじゃ 「メールを送信した後に解決してしまったことは、申し訳なかった。」 「先生 「用件はそれだけか?なら帰るんだ。僕は忙しい。」 「湯川先生!」 薫は机に向かって手を打ちつけながら言った。彼の見たところは、いたっ て冷静のように見える。部屋には静寂が立ち込め、洗い立てのコップに 注がれたコーヒーが、彼女の怒りを察したかのように激しく揺れていた。 「先生、何か怒ってます?」 「怒っているのは君のほうじゃないのか。」 「私は怒ってなんかいません!いや、怒ってますけど、怒ってるけど 今は私のことじゃなくて!」 「前にも話したが僕は感情的な話は 「知ってますよ嫌いなんでしょ!何回も同じこと言わなくて結構です!」 「しかし君は何回も同じように怒っている。」 「屁理屈はもういいです!先生……最近なんだか変ですよ!」 そう口にしてから薫はハッとした。最近?なぜ自分は今、最近と言ったのか。 しかし思い返してみれば、湯川の様子がおかしいとは思っていた。彼は薫と あまり口を利かなくなった。電話にも出てくれなくなった。ような気がする。 いつからだろう?先週の月曜日だろうか。薫はその日何があったかハッキリ 覚えていた。田上の一件である。しかし何故―― 「変……?」 「へっ?」 彼女の思考回路は、湯川の発した一言によって切断された。彼は飲みかけの コーヒー入りカップを傍へ置き、薫の方へゆっくりと近づいていく。先程の 強気はどこへやら、彼女は後ずさりをした。しかし彼は止まることなく一歩 一歩と進みながら、言葉を続ける。 「君は変、といったのか。僕が。」 「え、いやあの、変っていうかなんていうか……」 「では逆に言わせてもらおう。」 薫には彼の言葉が耳に入ってこなかった。後ずさりしていた彼女の背中は既に 壁を押している。一方湯川は、そんな薫のことなどお構いなしに、彼女の顔を 挟むようにその壁に手を着いた。その腕はまるで彼女を逃がさないと言ってい るようにさえ思われた。そして彼はそのまま、さらに顔を近づけて言った。 「変なのは君のほうだ。」 心臓が破裂しそうだと、薫は本気で思った。近過ぎる。彼の吐息が感じられる ほどの距離。瞬きもできないこの状況をどうにかする術など、今の彼女に考え ることなど、不可能であった。薫は沈黙が怖くなって、小さく声を発した。 「せ、せ先生、ちちち近いですっ。」 「そうだな、今にもぶつかりそうだ。」 「え……何が―― その瞬間、彼女の中をめぐっていた思考は一気に消し飛んだ。 「ッなにしてるんですか湯川先生!!」 薫は声を荒げて抵抗した。掴まれた彼の白衣には、彼女の指 に合わせるように皺がよっていた。 「ちょっと聞いてるんですか先 「説明が必要なのか?僕は君にキスをした。それだけだ。」 「そそそういうことじゃなくて!そんな、なななんで?!」 「これはまだ仮説の段階だ。君に教えることはできない。」 「ひ、ひひひとにそんなことしておいて、仮説がどうだとかっ!」 呂律が廻らない。湯川はしばらく黙って、彼女を解放した。 「ゆ、湯川先生?」 「君は、他の女性とはどこか違うんだ。」 恐る恐る後ろから話しかける薫に、彼は口を開き始めた。 「僕をあれだけ怒鳴れる女性と出合った事は、未だ嘗てない。」 「す、すみません。」 「それに君は」 ――余計なことを僕に考えさせる。 「先生?」 「……いや、いい。」 「えっ」 湯川は彼女のかばんを手に取ると、「今日のことは忘れてくれ」 そう言って扉を開けた。どうやら彼は、帰れといっているらしい。 さっきの、突然の出来事に心の整理のつかない薫は、されるがまま にかばんを受け取り、部屋を後にした。 結局のところ薫は、メールの真意も聞きだせず、キスの理由も中断 され、何の収穫もないまま自宅のベッドへと倒れこんだ。ギシッと 軋む音も、今の彼女の耳には届かず虚しく消えた。まだ、体が熱い。 (あの時 湯川先生、何を言おうとしてたんだろ……) 小さな唇に自分の指先でそっと触れた。つい先程の記憶が鮮明に蘇り、 彼女はうずくまった。明日からどうしよう。どんな顔して先生に会えば いいんだろう。とにかくいろんなことが頭の中でぶつかり合っているよ うで、何の答えも出てきそうになかった。 今夜 彼女は、眠れそうにない。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |