ちょっとした罠
湯川学×内海薫


からん、と指先でグラスの中の氷を回す。
ぼんやりとする湯川の傍らでは、大学の同期の草薙が、饒舌に語り続けていた。

草薙の声、少し離れた所の男女の会話、店内のBGM。
それらは、事件――またもや内海薫の持ち込んだ物だ――のトリックを暴こうとしている湯川の耳を通り抜けていく。

「……で、この間内海がな」

しかし、草薙が口にしたその人名だけは、湯川の耳を手易く通り抜けはしなかった。
氷が一際大きな音を立てたと同時に、湯川は草薙の顔を見る。
幸い、草薙がそのことに気付いた様子はない。
変わりなく、饒舌に語り続けている。

「可笑しいのなんのって。ちょっと揶揄っただけだっていうのに、あんな声出して」

草薙は心底可笑しそう笑い、その思い出し笑いを飲み込むかの如く、グラスの中身を喉に流し込んだ。

「しっかしなあ……あんな風にされると、悪戯心に火が着くっていうか、余計に虐めたくなるんだよな」

思い出し笑いは消えたが、内海に関する話題は絶えない。
湯川は、さりげなく草薙から目を逸らした。

自分の血が、熱く煮え滾っていくのが分かる。
紛れも無い、嫉妬だ。

草薙が、自分の知らない内海を知っているということ。
しかも、それが恐らく性的な意味合いを含んでいるであろうということ。

――あんな声?あんな風?
どんな声だ、どんな風だ。
どんな嬌姿を見せたのか。

ぼんやりとだが、湯川の脳内に、草薙と内海の交わっている姿が浮かんだ。
与えられる快楽に身を任せ、内海は草薙の律動に合わせて嬌声を漏らす。
翻弄され、そして遂に昇りつめる彼女。

――自分との時と同じように、まだ初々しさの残る、あの反応だったのだろうか?
それとも、まるで真逆の娼婦のように?

湯川の脳内で、内海を翻弄する男が忙しなく入れ代わる。
草薙から湯川へ、湯川から草薙へ。
いい加減にしてくれと、湯川は己の思考回路に対して怒号する寸前だった。

草薙に気付かれない程度の溜息をつき、湯川は冷静になろうとした。
無理だ。
それが、数秒の間で彼が導き出した結論だった。

それから半時間経った後、湯川と草薙は別れた。
湯川は時折、自分と別の方向へ歩いている草薙を見遣る。

そのうち、草薙は店から少し離れた所に停めておいた愛車に乗り込み、エンジンをかけた。
彼の車がそのまま走り出すのを見届けると、湯川は携帯を手にし、ある番号を呼び出す。

内海薫、とディスプレイに表示された名前を確認し、躊躇うこともなく発信ボタンを押した。
プッシュ音が数字の数だけ続き、少しの間の後呼び出し音に変わる。

1、2――と、無意識にその音を数えた。
湯川が5つほど数えたところで、彼女が出た。

「こんな遅くに……どうしたんです?トリックが分かったんですか?」

内海の声は、とても眠そうだった。
それに、何処か不機嫌だ。
まだ捜査に追われている彼女だ、気持ち良く居眠りをしていたか、思うように調べが進まないかのどちらかだろう。

「それはまだ、仮説の段階だ。だから、君に頼みたいことがある」
「もう、何ですか?」
「もう一度、事件の詳細を聞かせてくれ。場所は――そうだな、研究室で」
「……まさか、今すぐだなんて言わないですよね」
「その“まさか”だ。当然だろう、君が持ち込んだ事件だ」

内海は、湯川の言葉に面倒臭そうな溜息をついた。
今は見えない彼女の表情も、そうであるに違いない。

「あー……分かりました、行きます」

呻くような声の後、諦めたように内海は言った。
机の上に広げていた資料だろうか、がさごそと、何かを纏めている音が聞こえる。

「早急に頼む」

湯川はそう言って念を押し、彼女が文句を言い出す前に電話を切った。

文句ならば、後で存分に言わせてあげよう。
ただし、仕置きが終わった後でだが――。

ふ、と笑みを漏らすと、湯川は大学のある方へと歩いていった。

夜の大学は、気味が悪い。
そう感じると同時に、内海は身震いした。

よくもこんな所に、人を呼び出せるものだ――そう心の中で呟きながら、湯川に指示された場所から研究室を目指す。
他の出入口や通路は、当然ながら施錠されているのだ。
研究室に到るまでの場所のみ、鍵が外され、蛍光灯が灯っている。

「余計に不気味」

廊下を歩きながら、内海はぽつりと漏らした。
無意識に鞄を抱えて、必要以上に辺りを警戒しながら歩く。

そして漸く、あの殺風景な研究室の前に辿り着いた。
ドアの行き先表示板によると、湯川のみが在室していることになっている。

「湯川先生」

内海は扉を半分開いて顔を出し、彼を呼ぶ。
研究室の中――内海の視界に入る限りだが――に、人の気配はない。

「内海です」

その静けさが薄気味悪く、内海を自ずと忍び足にさせる。
怖い、と思った。
人の気配よりも、何と言うか殺気のようなものの方が、強く感じられるのだ。

「……遅い。早急に、と言ったはずだが」

頭上から降ってきたその声に、内海は体を強張らせた。
声のした方向を見ることも出来ずにいると、階段を降りてくる足音が近付いてくる。

「湯川、先生……」

内海の怯えた瞳に、長身の男性が映った。
眼前に立っている彼は、珍しく感情を露にしている。
明らかに“不機嫌”なのだ。

「あ、あの、広げてた資料の片付けに手間取って。それに夜の大学って、何だか怖くって」

足が竦んで、なかなか進まなくて――と、そこまで言ったとき、自分の言葉がやけに言い訳めいていることに気付いた。
そして、言葉を続けるほど、湯川が更に不機嫌になっていくことにも。

「内海君」

名前を呼ぶと同時に、湯川は扉の前で立ち竦む内海を、強引に引き寄せた。

「君は、僕には大変堪え難いことも簡単にやってのけてしまう」
「え?」

そのまま腕の中に収まり、訳が分からず茫然としている内海に、湯川は不意打ちとも言えるキスをした。

「……ゆ、湯川先生!」

一瞬の間の後、内海は顔を真っ赤に染めた。
いつか彼に見せた、余韻に浸る艶冶な表情も、甘い声も今はない。

「な、何をっ」
「“何を”?今更、そんなことも説明しなくてはならないのか?」

僅かに抵抗を示しはじめた内海を無視し、再び、しかし強く口付ける。
乱暴だが、甘く淫らで――それは内海に、いつかの夜を思い起こさせた。

あの夜の、内海の記憶が甦る。
初めて湯川と愛を交わした、その夜の、美しさも艶かしさも全て。
体の芯が熱くなる。

「説明しなくても、君は分かるだろう」

唇を離し、そう言って笑う湯川を、内海は欲情した瞳で見つめた。

「このキスの意味を。そして、僕が君に問い詰めたいことも、だ」

湯川は少々乱暴に内海を抱き上げ、彼女を黒い合皮のソファに下ろした。
内海の掌に、それの冷たさが伝わる。

「先生。問い詰めたいことって……何ですか?」
「――知らんふりか。面白い」

そう湯川は微笑むと、躊躇いもなく内海のスーツを上下とも脱がせ始めた。
勿論遠慮もないその動きに、内海は困惑しないはずがない。

「や、ちょ……っ、湯川先生!?」

湯川は構わないといった素振りで表情を変えないまま、内海のシャツのボタンを外し、前を寛げた。
淡い水色の、ごくシンプルな下着。
身に着けている本人からしてみれば、恋人にあまり見られたくない代物であるが、湯川はそれを射るように見つめた。

「あんまり、見ないでください」
「何故」
「まさかこんな風になるだなんて思ってなくて、その、用意なんてしてなくて……」
「僕は構わない」

そう言うと、湯川は内海の火照った首筋に唇を這わせながら、ブラジャーを外しにかかる。
ぷつ、とホックの外れる音がすると、背中に回されていた手は肩を撫で、肩紐をずらした。
自分で腕を抜け、と湯川が無言で促すと、内海は静かに、素直にそれに従う。
内海が自らブラジャーを外そうとしたとき、湯川の手――というより指――は、彼女の秘部に宛てがわれていた。

「何故、もうこんなに濡れているんだ?」

揶揄うような湯川の調子に、内海は全身を火照らせた。

「“あの夜”のことを思い出したのか?」

恥ずかしい。
そう思いながらも、内海は黙ってこくりと頷いた。
あの夜、とは、無論湯川と過ごした夜のことであった。
内海の中では。

「そうか」

湯川の口調が、僅かだが冷ややかになった。
彼の中では、草薙と過ごしたであろう夜のことだったのだ。

「……君は」

湯川の手が、内海の腿を愛撫する。
その動きと呼応するように、既に湿りはじめていた下着が下ろされていく。

「僕の好奇心も加虐心も独占欲も、そして性欲も――何もかも、刺激してくれる」
「!」

くち、と淫らな水音を立てて、内海の秘部に、湯川の指が挿れられた。
爪先まで力が入り、内海の体は固く縮こまる。

「実に面白い。だが、そこが不満だ」

内海の全身を解そうと、湯川の指が増え、妖しく蠢めく。
彼の思った通り、内海は艶かしい吐息を漏らしながら、徐々に脱力していった。

「あのときも、こうだったのか?」
「っ!や、ゆ……かわせんせ、何……」
「彼もこうして君の体を解してくれたのか、と訊いているんだ」

何を言ってるのか、さっぱり分かりません。
と、内海は甘い吐息の狭間に呟いた。
しかし、それはとても弱々しく、到底湯川には聞こえそうもなかった。

「彼のことだ。時間をかけて、優しくしてくれただろう」
「あっ、わ、私何も」
「言い訳は後で聞こう。――君が何と言おうとも、こちらには証人がいるからな」

指が抜かれ、カチャ、とベルトが外れる音がした。
内海の両脚を広げさせ、そこへ湯川の体が滑り込む。
内海の体は、これから味わう快楽と、原因の分からない恐怖に震えた。

「んっ……!」

下半身から全身を支配する、圧迫感。
遂にきた、と内海は思った。

湯川が胎内にいる喜びか、単なる苦しみか。
内海は、今にも涙を零しそうになっている。

「やっ、ぁあ、ゆ……かわ、湯川せんせぇっ」

突然、しかも遠慮なく律動を始めた湯川に、内海は戸惑う。
同時に、底知れない快楽へと溺れていく。
やめて、という言葉は、到底口に出来そうもない。

ぽろり、と内海は一滴の涙を零した。
快楽と、それに溺れていくことの恥ずかしさが、吐息となって、時に涙となって溢れていく。

「あっ、は……ふ、湯川……先生っ」

着衣のままの湯川の背中に、内海は必死に縋り付いた。
湯川の白衣は垂れ下がり、天蓋のようになって彼女の裸体を隠している。

「良い眺めだ」
息の上がり始めた湯川が、内海を見下ろして呟いた。

涙を零しながら、快楽に翻弄され、湯川の名前を譫言のように繰り返す彼女。
美しく、艶冶だ。
出来ることならば、自分だけのものにしておきたかった――。

「さあ言え、内海君。彼には、どんな反応をしてやったんだ?」
「あ、っ!」

湯川は冷静な口調で尋ねながら、眼前にあった内海の胸を掴み、揉みしだく。
その手の動きには、愛情よりも深い嫉妬が込められているように思われた。

「湯、川先生、何……」
「彼に見せた反応を僕にも見せてみろ、と言っているんだ」
「っ!……わ、たし、何も、知らな……」
「早く」

そう言った途端、湯川は内海を一層力強く突き上げた。
内海は、思わず気を失いそうになる。

「達するのはまだ早い。まず、僕の質問に答えろ」

ぐい、と内海を抱き寄せ、湯川は体位を変えた。
内海の体は重力によって、湯川自身をより深く咥え込む形になる。

「知ら、ない……何も、私、ぁあっ!な、何も知りません……」
「僕の言っていることが、理解出来ないとでも言うのか」

湯川のシャツにしがみつき、内海はこくこくと頷いた。
彼女の涙が、小さな染みを作っていく。

「ど……うして?何で、湯川先生、は」

突き上げられ、嬌声をあげながら、内海は途切れ途切れに呟く。
どうして湯川先生は、私にそんな意地悪を言うの?と。

「理解出来ないなら……体で覚えておくんだ」

激しさを増す律動、上がっていく呼吸。
内海を追い詰める湯川もまた、追い詰められていた。

「君は僕だけのものだ、と言うことを」

湯川が囁いた次の瞬間、二人の中で全てが爆ぜた。

「最低です」

ハンカチで涙を拭いながら、内海は呟いた。
肩に湯川の白衣を掛け、先程まで二人が激しく愛を交わしていた、黒い合皮のソファに腰掛けている。

最後まで「知らない」と言い張り、情事後もその主張を崩さない内海に、湯川は草薙から聞いたこと、そしてそれを受けて自分が思ったことを全て話した。
それが、彼女が「最低」と呟くことになった経緯である。

「早とちりですよ、早とちりっ!先生も、他人のこと言えないじゃないですか!」

以前のやり取りを思い出し、内海は言う。
あの時の彼の記憶力には驚いたけれど、自分も相当なものかもしれない――内海はそう思った。

「草薙さんは、単に私を揶揄ってただけです。それを、に……肉体関係と結び付けるだなんて」

どうかしてます、と言って膨れる内海。
耳まで赤くなっていることに、彼女は気付いているのだろうか。

「どうかしているのは、僕じゃない。草薙の方だ。誤解を招くような表現はやめろ、と言っておいてくれ」

湯川は極力内海から目を逸らすようにしながら、マグカップを渡した。
湯気の立っているそれは、早くも冷えてしまった内海の指先を温めてくれる。

「まったく……」

理屈っぽくて、マイペースで、時折腹立たしく思える。
だけど紳士で、時に優しくて、憎めない。
惚れた弱みかな、と思いながらコーヒーを飲んだ内海の頬は、より一層赤くなった。


後日、湯川にとっては大学の同期、内海にとっては職場の先輩である草薙が「やっぱりお前たち、そんな関係だったんだな」と揶揄ったのは、言うまでもない。
今回のことが、彼の仕掛けたちょっとした罠であったことに、二人が気付くまで大して時間は掛からないだろう。






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