湯川学×内海薫
その日彼は研究室でひとり静かに、翌日の講義で行う実験準備をしていた。穏や かな秋の風が、カーテンと戯れて大きく膨れ上がる。 (余計な雑念が入らなければより質が良く高い集中力を発揮できるというのは、 誰が書いた本だったかな。) 着々と事を進めながら、彼は自慢の頭脳で様々な思考を巡らせる。最近は邪魔も 入らず考えるという行為ができている気がして、自然と笑みがこぼれた。 (しかしほぼ毎日のように来ていた厄介事が急になくなってしまうのは、逆に淋 しくなる気もしなくはないか。) 「湯川先生!」 瞬間、彼は打って変わって嫌な表情を浮かべた。バン、と激しい音を立て開け 放たれた扉を気遣うように閉めると、軽く乱れた前髪を撫でながら再び湯川に 向き直る。 「すみません連絡もなしに!ちょっと急ぎだったもので!」 「……前言を撤回しよう、内海君。」 「は?」 「君はノックすらできなくなったのか。」 「え?あっ、あーすみません、先生に会おうと急いできたからつい……」 「全く関係無い。ノックが出来ないことを僕のせいにしないで欲しいね。」 「久しぶりに会ったのに超相変わらずですね、湯川先生。」 「ありがとう。」 「褒めてませんよ!」 超、という部分を強調してみるも、まるで相手にされないことに若干 負の感情 がこみ上げたが、なんとか抑え込み話題を持ち出す。 「そんな事はどうでもいいんです、実はまた訳の分からないことが起こっ 「僕は忙しい、悪いが他を当たってくれ。」 「こんなこと相談できるの、湯川先生以外にいると思ってるの?」 「いないなら、探せばいい。」 「じゃあ一緒に探してくださいよ。」 そう言ってむくれる薫を見向きもせずに、彼は黙って様々な実験器具を取り付け 組み立てていく。相手側のリアクションをもらえず次の言葉が見つからなかった 彼女は、とりあえず湯川に歩み寄った。 「……何作ってるんですか」 「丁度いい、そこにある箱を取ってくれ。」 「はいはいどうぞ。」 「ああ、ありがとう。」 湯川はにこっと笑い箱を受け取った。嫌味を込めた物言いも、彼の前では全く意 味を為さない。それに無視されることには(悲しいことに)すっかり慣れてしまっ ていたため、素直に彼に合わせた。もちろん、心にはどす黒い感情の霧がかかる のだが。 「……結局、いつものパターンですよね、これも。」 「?何か言ったか。」 「いえ別に何も。」 薫はため息をつき、ふと彼に渡した箱の中に目を遣ると、小さな部品がいくつか 並べられていた。 「こんなちっちゃい部品も使うんですか?」 「そんなに小さい器具でも、この実験にとっては欠かせない重要な役割を果たし ている大事な存在だ。」 「へぇ〜」 「わかったらさっさと帰ってくれないか。」 そんなに追い出したいのか、とまたしてもどす黒い感情の霧が心を覆う。 「大事な存在」 小さく呟いてから彼の目の前に回り込む。そしてフフンと鼻で軽く笑うと、彼女 は言った。 「私だって、小さくても重要な役割を果たしてると思いません?」 「……君が?」 彼は手を止め、薫と目を合わせた。そして視線を少しずつ彼女の唇、首筋、鎖骨 へと落としていき、 「小さくても……」 「ちょっ!ここじゃない!」 それが自分の胸に行き着いたことに気が付くと、肩に掛けていた鞄で素早くガー ドした。 「なんだ違ったのか。」 「当たり前です!なんで私が先生に自分のむ、胸の話なんか……」 「事件よりも厄介そうだな。」 「なっ、厄介、って、言うほど小さくは…ってか見ないで!」 湯川がからかうように笑っているのをキッと睨みつけた。 (ムッツリ科学オタクめ……) 行き場のない恥ずかしさをやり過ごそうと彼女は強引に話を進める。 「と、とにかく私が言いたかったのは、胸とか、外側じゃなくて内側!」 「相変わらず脈絡がないな。」 「私って結構重要な役割果たしてると思いませんか?」 「何が言いたいのかさっぱりわからない。」 そう吐き捨てると、彼は付き合っていられないとばかりに白衣を翻して 準備を再開した。彼女は慌てて言葉を紡ぐ。 「先生におもしろい話を持ってくるじゃないですか。実におもしろい話。」 「それは君が都合の良いように言い換えているだけ。」 「でもほら、物理の勉強にもなるし!」 「君が持ってくる事件の大半は物理学とは程遠い物だったわけだが。」 「あと車で遠出も出来る!」 「話がズレ過ぎだ。辞書でその中身とやらを引いてから出直した方が得策だと 僕は思うね。」 カチャカチャと、器具を組み立てる音だけが部屋に取り残される。 「……先生の方がよっぽどズレてます、色んな意味で。」 「ほらまた話が飛ぶ。君はもう少し―― 彼の言葉は、薫に腕を捕まれたことによりそこで途切れた。彼女のまっすぐな瞳 の中には、湯川が映し出されていた。 「先生じゃないとダメなんです。」 「……。」 笑顔で見つめとんでもないことをぬかす目前のその人に、おそらく自覚はない。 腕をキュッと捕まれる感覚よりも、白衣の上から伝わってくる体温の方が、彼を 強く締め付けた。ほんの数秒目を合わせ、再び実験器具へ向き直った。しかし手 は作業を止めたままだ。 「内海くん、一つ気になったんだが」 「はい。」 「君は、出会った時よりも僕に対して挑戦的になったような気が 「気のせいじゃないですか?それより先生、これ見てくださいよ。」 「ちょっと待て僕は――」 彼女は適当に返し、現場の写真を広げ始めた。湯川はしまったと思ったが、すで に研究机は沢山の資料で埋め尽くされていた。 「……僕はもう手を貸さないと言った。」 「これ、こんな死に方っておかしいと思いませんか。」 「聞いているのか」 「きっと何かあるはずですよ。」 「内海君」 「手掛かりはこのガラスの破片と、青い光です。」 「青い光?」 「はい。目撃した女性が、そう証言したんです。小さな雷みたいにこう ピシャーッ!って光が走った、と。」 「雷……。」 「ちなみに目撃したのは昼頃だそうです。どうですか?何かわかりそうですか?」 ふむ、と顎に手をあてて考える湯川を、彼女はニヤリと笑って見つめる。それに 気が付いた彼は、まんまと嵌められたという顔色を悟られぬように薫に背を向け て言った。 「……おもしろい。」 「では現場にご案内致しますっ!」 「随分とやる気のようだが。」 「久々ですから。じゃっ、駐車場で待ってます!」 「ああ。」 小走りで出て行く彼女の背中を見送り、湯川はやれやれと白衣を脱ぎ、コートを手 にして駐車場へと向かうのだった。 変人ガリレオが恋人ガリレオになる兆しは、まだまだ見えない。 SS一覧に戻る メインページに戻る |