君は、実に独創的だ(非エロ)
湯川学×内海薫


「じゃ、お疲れ様でした」

本日中に終えるべき仕事を全て済ませ、薫は椅子から立ち上がった。
それとほぼ同時に、彼女の携帯が、メールの着信を知らせる。

「先生からだ、何だろ」

先生、という言葉を耳にし、背後にいた弓削はにやりと薫を見た。
それを知らない薫の左薬指には、白金の指輪が輝いている。
携帯を操作する度にきらきら光って、眩しい。

“玉子が切れた。帰りに買ってきてくれ。”

さりげなく絵文字付きの、しかしあっさりとしたメール。
何作ってるんだろ、先生の晩御飯、楽しみだな――薫は思わず、笑みを零した。
先に家に帰った湯川が、炊事を熟してくれているのだ。

分担、ということには一応なっているものの、今のところ、晩御飯の仕度をした回数は圧倒的に
湯川の方が多い。
――その方が、余計な洗い物も増えず、材料費も無駄になることもないので、安心で確実なのだ
が。

「あーあーあー、すっかりにやけちまってよお、見せ付けられて気分悪いっつの」
「うわ!ゆ、弓削さん!」

携帯を覗き込むように後ろに立っていた弓削に、薫は心底驚いた。
慌てて、携帯を庇うようにして隠す。

「お熱いこったなあ。夫婦仲はよろしいようで何より、湯川准教授夫人」
「揶揄うのはやめてください、セクハラで訴えますよ」

きっ、と薫が弓削を睨んだ。
眼差しこそ鋭いものの、その頬は、ほんのりと赤い。
夫人、と言われることに不慣れなのだろう。

「つーかお前、あの先生に飯作ってもらってるわけ?」
「なっ、私だって作りますよ!……たまにですけど」

だって先生の方が上手だし、放っといたら先生が勝手にやっちゃうし――薫は、言い訳のような
それらの言葉を付け足した。
ちらりと弓削の顔を窺ってみれば、呆れたような諦めたような、何とも言えない表情をしている。
良く思われてはいない、それだけは明白だ。

「ちゃんと“大好きな先生”に、手料理振る舞ってやったらどうだ?俺だったら、毎晩、カミさ
んの手料理を食べたいもんだけどなー……愛想尽かされても知らねえぞ」
「よ、余計なお世話ですっ!それに何ですか“大好きな先生”って!私、そんなこと一言も言っ
てませんっ!」
「お、近くのスーパー閉まっちまうぞ、良いのか?」
「はぐらかさないでくださ……ああっ、本当だ!」

時計を見た薫は慌て、騒がしく署を後にした。
その後数分間、弓削が何やら楽しそうに笑っていたというのは、とある同僚の話である。

ベッドの傍に置かれた時計の針が、午前1時を指そうとしている。
隣でぐっすり眠る湯川を、薫はまじまじと見つめていた。

「手料理……」

先生も食べたいのかな、私の手料理。と薫は小さく呟いた。
思い返せばここ一ヶ月、炊事は湯川に任せっきりになっている。
薫の脳裏に、弓削の言葉が甦る。

“愛想尽かされても知らねえぞ”

それは困る。とても困る。
恥ずかしい話だが、薫は既に、湯川に依存しきっていた。
最初は水と油の関係だったものの、徐々に惹かれ合っていき、結ばれた者同士。
簡単に離れられない、離れたくなかった。

「……寒い」

薫の思考が暗い方向へと行きかけていたその時、湯川の腕が伸びてきて、彼女を捕らえた。
ぐい、と抱き寄せられ、薫は思わず硬直する。

「あの、先生?」
「さむい……」

そう呟きながら、湯川の腕は、何やら探るような手つきで、薫を抱きしめた。
まるで、ぬいぐるみの抱き心地を確かめる子供のようだ。

「先生、もしもし」
「うん」
「先生?」
「……」

湯川は一人頷いた後、再び深い眠りに就いてしまった。
寒い寒い、と連呼していた彼は、どうやら薫で暖を取るつもりだったらしい。
その熟睡っぷりと早さからすると、あれは恐らく寝言で、動きも無意識のうちのものだったのだ
ろう。

「子供みたい」

ぴったりと寄せられた体、その顔を見上げることもままならない。
分かるのは、湯川の体温が、僅かながら自分よりも低いことと、彼がよく眠っていることだけだ。

ふと、薫は湯川が子供嫌いであることを思い出した。
子供みたい。そう言ったならば、あまり感情を表に出さない彼でも、不機嫌そうな表情を浮かべ
るのだろう。
それとも、今の状況を話したなら「僕は、そんなことはしていない」などと言われるのが先か。

――言うだろうな、寝ぼけてたみたいだし。
薫はそう思い、湯川の胸に頬を寄せながら、溜息をついた。
同時に、朝は決して「夜、寝ぼけてたでしょ」と言わぬように決心するのだった。

時計の針は、とっくに午前1時を跨いでいた。
湯川の腕の中でまどろむ薫の脳裏には、炊事だの手料理だの、色んな苦悩が浮かんでは消えてい
った。

今日の薫は、非番だった。
朝、湯川を送り出すのは久々な上に何だか新鮮で、何処か気恥ずかしささえ覚えたほどだ。
そんな朝から、もう半日ほど経つ。

「遅いなあ、先生」

きっとまた、学生のレポートの採点に追われているのだろう。
最近の湯川からは、レポートの出来がどうだの、ある学生の単位がどうだの、とよく聞かされて
いた。

「……やって、みようかな」

かつて桜子に貰った料理本の頁を、ぱらりとめくる。
薫の目に留まった――というよりは、偶然開いたと言ったほうが近い――のは、酢豚だった。

これだ!と思ったのか、薫は勢い良く立ち上がり、勇んでキッチンへと向かう。
まだ新品と見紛うエプロンを身につけ、冷蔵庫にある食材を確認した。

「えーと。豚もも肉、玉葱、人参、ピーマンに、へえ、筍も入れるんだ……。よしっ、全部揃っ
てる!」

何か私、今“新妻”って感じじゃない?と、薫は思わずにやけた。
だが、買い出しに行かなくて済んだ、とやたら嬉しそうに独り言を言うのは、如何な物だろうか。

「先ずは、肉の下拵え……ええっ、下味なんて、こんな事するの?」

文句を言いながらも肉を一口大に切り、レシピ通りの調味料と分量で下味を付ける。

「片栗粉?どれだろ、小麦粉じゃ駄目かな」

ずらりと並ぶ、白い粉の入った箱たちを見て、薫は溜息をついた。
次々に開けてみては、凝視してみたり匂いを嗅いでみたり、指先で触ってみたりもすれば、遂に
は味見までしている。

「もう、先生ってば、ラベルくらい付けといてよね」

とうとう、湯川に責任転嫁。
薫は箱の中身の検分を諦め、まだ買ったままの袋に入っている物はないか、探索を始めた。
棚の奥を漁るその手に、何かが触れた。

「あ、あったあ、片栗粉!」

開封されてはいたが、箱に入りきらなかったらしい分が残っていた。
輪ゴムで留められている袋には、しっかり「片栗粉」と書かれている。
これで間違う者は、何処にもいまい。

「で、片栗粉をまぶして……うん、良い感じ」

手元のボウルの中身と本の写真とを見比べて、薫は大きく頷いた。

「あとはこれを揚げて、野菜を切って、と。甘酢?そんなのも作るの?」

揚げ油を用意しながら、薫は少し面倒臭そうに呟く。
もっと、簡単なのにすれば良かったな――彼女がそう後悔したのは、言うまでもない。

「油の温度、そろそろ大丈夫だよね」

暫く待って、と言うよりは待つのも面倒臭いといった様子で、薫は揚げ油の中に肉を入れた。

「……あれ?」

想像してたのと違う、と薫は思った。
肉は、一つの音も立てず、静かに底へと沈んでいったのだ。
油の温度は、低かった。

「や、野菜切ろう!野菜!」

べっとりとなってしまった肉を救出し、薫は、油の温度が上がるまで野菜の下準備をしようとし
た。
火加減も調節せずに。

「人参は乱切り、って、こんなに大きくても良いのかな」

乱切りどころか、斜め切りかと見間違えんばかりに思い切り良く切られた人参を見て、薫は首を
傾げる。
流石にこれはない、と思ったのか、その人参を取り敢えず半分にした。
この場に湯川がいたならば、薫の調理は即中止になっていただろう。

「えっと、玉葱……あれ?何か熱い」

コンロの方から何やら熱を感じ、薫はちらりとそちらを見た。
そこには、超強火で熱され、煙まで上げはじめた揚げ油。

「うわ、ど、どうしよう!」

落ち着け私、と薫は呟いた。
テレビで言ってたんだっけ、こういう時は下手に水で消火すると危ないって。で、どうするんだ
っけ――薫は自分の知識と記憶を総動員するが、思うようにいかない。
逆に、焦ってしまうだけだ。

「そうだ!」

油の中に、一度に沢山食材を入れると温度が下がる。
湯川が、天ぷらを揚げてくれたときに言っていた事を、薫は思い出した。
つまり、その時彼女が思ったのは「お肉、全部入れちゃえ」ということである。

「わっ、ちょっ……何これー!」

実行した途端、揚げ油は激しい音を立てはじめた。
凄まじい音と油跳ねに、薫は思わずキッチンから逃げ出す。
カウンターの影から見る限りでも、鍋の中、つまり揚げ油の中は、異常な事態になっているであ
ろう事が分かる。

どうしよう、火事になっちゃったら。
先生ごめんなさい――薫は、あらゆる恐怖に震えていた。

「でも、火。取り敢えず火、消さないと」

すっかり腰が抜けてしまい、半ば這うようにしながら、薫はキッチンへ戻る。

かち、という音と共に、薫の手によって、コンロの火は消された。
しかし、まだ音の鳴り止まない鍋。
薫はふらりと立ち上がり、恐る恐る中を覗いた。

そこには、彼女が想像していたのとは程遠い、黒い塊が幾つかあった。

――もう駄目。私ってば、奥さんとして失格なんだ。

未だ主人の帰らない家の中、ダイニングテーブルに突っ伏し、薫は打ちひしがれていた。

あの後、炭の塊と見紛うほどに真っ黒になった肉を油から引き揚げ、野菜と一緒にし、何とか調
理は終えた。
途中「水溶き片栗粉を回し入れ……回し入れる、って何?」などと思ったりもしたが。

しかし、料理、と呼ぶのも憚られる出来になってしまった。
肉は黒いし、野菜の大きさも疎らだ。

やらなきゃ良かった、と薫は呻いた。
いくら頑張ったって空回り、やっぱり最後は散々で。
声は押し殺せても、涙は止まらない。

「駄目だなあ……」

薫は、涙を誤魔化すように笑うが、上手くいかない。
そんな自分が悲しくて、哀れで、余計に泣けてくる。

「花嫁修業、ってやつ、やっとけば良かったな」

仕事が忙しくて、友人らに薦められたエステに通うことも精一杯だった、結婚間近。
出来ることなら、料理本を買い込んで、熟読して、ちゃんと実践していたかった。

「料理してもしなくても、愛想尽かされちゃうんだ、私――」

もう、声を押し殺すこともままならなかった。
何処か引き攣ったような笑みを浮かべて、薫は思い切り泣いた。

「何を泣いているんだ、君は」

湯川の声がして、薫は一瞬、泣くのをやめた。
だが、薫には「えらく都合の良い幻聴」と捉えられたらしく、彼女は再び、そして一層激しく泣
き出す。

「やめろ、そんな風に泣くな」

耳元で聞こえた声に顔を上げると、涙で溢れた薫の瞳に、湯川が映った。
幻聴じゃなかったんだ――薫はそう思い、安心すると同時に、申し訳なさが込み上げてきて、湯
川にしがみつく。

「おい……」
「ごめんなさ……っ、ごめんなさい、せんせえっ」
「待て、順を追って説明したまえ。さっぱり分からない」

一度は薫の腰や背中にやろうとした手を、湯川は宙に彷徨わせながら、冷静に尋ねた。
感情的な彼女のことだ、筋道の通ったまともな言葉を返してもらえるには、多少時間が掛かるだ
ろうが。

「呆れないで……」
「順を追って説明したまえ、と今言ったはずだが」
「愛想、尽かさないで」
「……分かった」

何を言っても無駄か。分かっていたが。
湯川はそう思いながら、行き場を失っていた自分の手で、薫を抱きしめた。

「君の同僚は、とんでもなくお節介な人間ばかりだな」

湯川は、溜息混じりにそう言った。
薫が話した、これまでに至る経緯を聞いてのことである。
しかし「とんでもなくお節介な人間ばかり」とは――果たして、草薙も含まれているのだろうか。

「本人にも、そう伝えておきます……」
「ああ、宜しく頼む」

薫の申し訳なさそうな声を聞くなり、湯川は心底つまらなさそうに、グラスの中の氷を回した。
このタイミングで、例の失敗作を披露するのは、流石に憚られた。
いや、彼に見せるつもりは、薫には毛頭無かったのだが。

「しかし、何だか焦げ臭いな。換気扇を回そう」
「はい……って、ちょっと待って先生!」

気付いて引き止めたときには、既に遅かった。
湯川の視線は、薫の作った酢豚の成れの果てに向けられている。

「何だ、これは」
「ああもう、酢豚ですよ!見えないかもしれないけど、酢豚なんですっ!片付けようって思って
たところなんです、放っといてください!」
「僕が知っている酢豚には、炭は入っていないはずだが」
「だーかーら、失敗作なんですってば!」
「君は、実に独創的だ」
「もうっ、先生!」

湯川に皿を奪われ、果てには高く掲げられてしまい、薫には成す術がなかった。
悔しいけれど、届かない。

「野菜の大きさも疎らだ。食材によって揃えないと、調理時間を大きく左右する。学生の時に習
わなかったか」
「ああ、ねえっ先生、返して」
「僕の質問に答えるのが、先だ」
「はい習いました、それに、母も言ってました!」
「ほう」

湯川は薫の返事に納得したのか、皿を彼女の手の届くところに戻した。
それを、薫はすかさず回収する。

「分かっているのに、実践するとなると出来ない。何故だろうな」

そう言いながら、湯川は薫の持っている皿から人参を一欠片摘みあげ、口に入れた。
薫が「あっ」と声を漏らしたのは、言うまでもない。

「――あとは、火加減と食材の過熱具合、そして見た目の問題だ」

ぽん、と薫の頭に手を置くと、湯川はキッチンから離れた。
訳の分からないらしい薫は、皿を持ったまま立ち尽くしている。

「……っ」

暫くして、漸く理解したらしい。
喜びで興奮しているのだろう、顔は真っ赤だ。

「先生っ!それって、味は認めるってことですよね!?」

さあ、どうだろう。
――嬉しそうに跳びはねている新妻に、そんな言葉が聞こえてきそうな背中を向ける湯川だった。






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