湯川学×内海薫
![]() 人気のない廊下に響き渡る足音が、早めなリズムで壁を行き来する。 「すみません湯川先生、会議が長引いてしまっ――!」 ノックをするのと扉が開くのはほぼ同時であったが、その日もその場所は、いつ もと同じように彼女を迎え入れた。窓からは夕方特有の赤い光が溢れて、きらき らと照らされたコーヒーカップたちが今日も飲んでいくかいと言わんばかりにこ ちらを向いている。しかしその先にいる内海薫の目が捕らえていたのは、彼らで はなかった。 「……。」 それは、言うまでもなく彼女が訪ねたかった人そのもの。―しかし、いつもと様 子が違うのは瞬間、わからなかった。 「先せ……」 彼――湯川学は、黒板の前にある大きな研究机の前に一人腰を下ろし、目を閉じ ている。その表情は考えごとをしているようにも見えた。 「ゆ、湯川先生?あのっ」 恐る恐る近付きながら声を掛けてみる。整ったその顔つきが変わることはなかっ た。薫は、自然と彼の長い睫に視線を走らせる。素直にかっこいいかも、などと 思いそうになったが、すぐに振り払った。 「もっ、もしかしなくても先生、寝てるんですか?」 「……。」 「お〜い」 「……。」 「湯川さ〜ん?湯川、学さ〜ん?」 「……。」 「……ムッツリ科学オタク。」 相手の目の前で手をぶんぶん振ったり、看護士のような口調で呼びかけてみたり、 そんな遊び心に一瞬、彼の眉根がヒクついたような気がして身構えてしまったが、 その瞼が変わらず閉ざされたままでいるのを確認すると、そっと安堵の息を漏ら した。 「これが科学者だなんてまっ…たく見えませんよ。」 (やっぱり寝てるんだ) と、起こさないようにともう一度彼の方を向くと、自分の 口が緩んでいるのに気がつく。本来の目的を忘れそうになった薫は、再び気を引 き締めた。 「先生ダメです、起きてください。」 「……。」 「本当は起きてるとかじゃないんですか?この前みたいに。」 「……。」 「も〜、起きてよ。」 眉間に皺を寄せて言うが、これでは本当に独り言そのもので虚しく、このまま彼 が眠り続ければ間違いなく空が夜に足を踏み入れてしまう。 「先生、夜になっちゃいます!」 「……。」 「今日月曜だから、ガリレオ始まる前までには帰りたいんですけど。」 そんなタイムリミットもあるわけで、長いこと研究室に居座り続けるわけにはい かなかった。そうなるとつまりは湯川を起こさねばならない事になるのだが、彼 女は心のどこかでめったに見られないであろうその光景を楽しむように彼に話し かける。と、そこでふと気が付いた。 「……眼鏡したまま寝てる。」 やっぱり疲れてたんだなどと思う彼女は(よもやそれが自分のせいであるとは微塵 も気付かずに)、そんな彼に近づいて言う。 「外さないんですか。」 そう問うたところで答えなど返ってくるはずないことはわかっていたが、なんと なく悪い気がして、聞いてしまう。反応がないのをいい事に、薫は続けた。 「そんなに寝てると外しちゃいますよ?外しちゃいますけど」 湯川は妙な問いかけに応えるはずもなく、同じように静かな寝息をたてていた。 薫はまたひとつ彼に歩み寄る。その距離は人一人分にも満たないような近さにま でなっていたが、彼女はやめなかった。 「……先生、好き。」 相手側が無反応だと、ここまで積極的になれるものだろうかと考えつつ手を伸ば す。彼の髪を撫でながら少しずつ下に降ろしていき、そのまま耳の後ろへそっと 人差し指を滑り込ませる。彼が起きる様子はない。薫は眼鏡の縁に手を掛けてゆ っくりと引き抜きぬくように外した。 かのように思われた。 「さっきから一体、何がしたいんだ君は」 「あっ!」 眼鏡を外そうとしていた薫の手首は、彼によって見事に掴まれていた。 「やっ、ちょ、やっぱり起き……!は、離して下さい!」 「それは僕が言いたい。」 薫はハッとして今の状況を把握した。彼の膝の上にのし掛かり、しがみつくよう な格好になっていたことを。 「違っ、あああのっ私」 困惑した色が顔中を染め、全身を締め付けて動けない。まさか、彼が起きてい るとは思わなかった。そのため急に腕を掴まれた事と、掛けられた声に驚いた せいで、前のめりに倒れ込んでしまったのだ。 「何が、どう、違うんだ。事実君は寝ていると思った僕に……」 「おっ、起きてたじゃないですか!」 「寝ていたと勘違いしたのは君だろう。それに連絡を入れた本人が遅刻。」 「う、でも」 「疲れているんだ、待ちぼうけを食わされては当然眠くもなる。」 「だからって…」 「結果僕は君のせいで約二時間を無駄にした事になった。」 「それはっ、その……すみませんでした。」 まともに顔を合わせることもできずしゅんとして俯く彼女を真っ直ぐ見つめ、湯 川は微かに笑った。眼鏡を持っている方の薫の手首は、未だ彼によって拘束され たままだ。 「まあ無駄にしたと言っても、色々と考えてはいた。例えば君が持ちかけてきた 例の事件の話だ。」 「あっ、はい。ありがとうござい 「僕は一旦考えるという行為を始めると、その集中力を途中で止めることができ なくなる。というよりも嫌いといった方が正しい。一種の体質のようなものだ と思ってくれればいい。」 「は、はあ…。」 相変わらず話が長いと思ったが、今は圧倒的に不利な立場に置かれている薫は、 素直に耳を傾けるしかなかった。蛇に睨まれた蛙である。 「だがそれを第三者に阻害されるのは」 「え――」 彼は薫を更に近くまで引き寄せ耳元で囁くように続ける。 「考えを中断させることよりも嫌いなんだ。」 「ちょっと せ、先生っ」 先程引き寄せられた事により、のしかかっていただけだった彼女は今や完全に湯 川の腿の上で足を広げ跨る状態になってしまっていた。 「先生、や、はず、恥ずかしい……降ろして」 「それより、君はさっき寝ている僕に何をしようとした?」 「だから起きてたじゃないですか!」 薫の必死の懇願も、彼の加虐心の前に為す術なく堕ちていく。こうして密着する 事は、これが初めてではない。ほんの数回だが、互いに体を重ねた事はあった。 今の状況が作り出す雰囲気によって、その時の記憶が薫をじわじわと蝕み始めて いる。湯川は、この時既に彼女の異変に気づいていた。 「あっ――」 湯川が軽く足を動かした際に漏れた甘い声。すぐに手で口を覆うが、それも意味 のない行為だ。彼は目を細め意地の悪い顔で言う。 「……内海君、ここは研究室だ。」 「わ、わかってます。」 「君は僕を性的処理器具か何かと勘違いしてないか?」 「してません!何なんですかそれ!ていうか誰のせいで…」 彼が指を二本、薫の脇の下からゆっくり腹部へ、そのまま太股へと這うようにな ぞる。たったそれだけなのに、まるで直に触れられているような感覚が体中を駆 け巡り、熱くなった。 「やだっ湯川先生!」 「さっきの話を続けよう。君は僕に何をしていたのか説明するんだ。僕が理解に 苦しまないように。」 「……研究室に、走ってきたんです。そしたら、先生寝てたから…」 「それで?」 言いながら彼は往復させていた指をスカートの端まで持っていき、彼女の腰まで たくし上げた。 「ちょっ、何、待って先生やめ……あっ…あっ、あっ」 「君は話を続けるんだ。」 彼の指が下着の上から、探るように秘部へと滑り込み、上下に行き来する。薫は 身を捩じらせ抵抗するが、心のどこかではそれを求めていることはもう湯川にも 見透かされていた。無表情で彼女を見つめつつも、指先の動きは止めなかった。 止まるどころか今度は直に指を入れ、小さく円を描くように刺激を与えてくる。 「あっ、私…起こ、起こそうと、したんですっ、はあぁ……先生ッ!」 「それから?」 「でも、っ先生の、あっ寝顔がその、ちょっとだけ可愛くて……」 「君がそんなに僕を観察したかったとは。」 彼の指の腹で描かれる円は、時折一点を押さえつけるようにしながら、早くなっ たり遅くなったりと不規則なスピードで繰り返される。きゅっと身を硬くしてそ の快感に耐える薫を許すことなく指は卑猥に這い廻る。 「観察ってそんなんじゃ……あぁあっ!」 「違うのか。」 「ぃ、やあっ、あっあんっ……っも、許し、て……ぁんっ」 「わかった。」 「へっ?」 急に動きを止められて、薫は(湯川にとって)実におもしろい顔になった。 「君は今日違う目的でここへ来たはずだから、もう許すことにした。」 「えっ!そ、そうですけどそんなっ……」 「何か不満でも?」 「先生からあっ、あんな事してきておいて……」 その声は目線を逸らしていくのと同じようにフェードアウトしていき、その頬は 更に紅く色づいた。 「ではこうしよう。」 「な、なんですか!」 「今夜はガリレオが最終回だそうだな。」 「?それがどうかしたんですか。」 「もし今夜、視聴率が初回を上回ったら……」 「上回ったら……?」 湯川は彼女の顔にぐっと近づき、耳元で囁いた。 「――放送終了後、君には僕の言うことを何でも聞いてもらう。」 「……ちょっ、と待って何なんですかそれ!なんかズルいですよ先生!」 「そうかつまり君は……嫌だ、と。」 「い、嫌とかそんなんじゃ…ない、ですけど……」 「ではなんだ。」 「いや、その……視聴率なんてそんなすぐにはわからないじゃないですか。」 「そこは裏の手を使うんだ。」 「裏?!なっ何、なんなの裏って!」 「ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ !」 例え視聴率が上回ろうと下回ろうと、結果が同じなのは既に見えるような気が しなくもない。 薫の苦難は、まだまだ続きそうである。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |