湯川学×内海薫
![]() 「……怖かったあ!」 薫はそう言うと、わっ、と盛大に泣き出した。 縋り付いた、湯川の胸で。 自分が置かれていた危険な状況を、改めて理解した――とでも言うのか。 とにかく彼女は、込み上げてきたものを一切我慢しなかった。 「そんなに泣くな、みっともない」 「だって、本当に怖かったんだからー!」 湯川のベストが濡れるのもお構いなしに、薫はひたすら泣く。 こんな風に、子供のように泣かれてしまっては、湯川の手は更に行き場を失う。 どうしたら良いものやら、さっぱり分からない。 「泣くな」 「うう……」 「聞いているか、内海君」 「……聞いてますー」 くぐもった声が、返ってきた。 多少は落ち着いたのだろうか、目立った泣き声は少なくなった。 「泣くんじゃない」 「う、わかりました」 「そして、僕のベストを濡らすな」 「はい……って、うわ!す、すみません!」 ばっ、と薫は素早く、湯川から離れた。 そして焦った彼女が取り出すのは、ピンク色のハンカチ。 「なるほど」 「え?」 「君の好きな色だ。ピンクと言っていただろう」 「ああ……そう、ですね」 そう言うと何故か俯き加減になりながら、薫は申し訳なさそうに、自分の作った染みを拭う。 薫の、好きな色。 そして、二人と皆の未来を救った色。 「感謝しなければならないな。君に、君の勘に。君の好きな色にも」 湯川はハンカチを眺めながら、しみじみと言った。 そのうち、彼の眼前で、ハンカチが震えだす。 正確に言えば、震えだしたのはそれの持ち主だ。 「どうした」 「だ、って先生……何かしみじみと、おかしな事言うから……」 薫が、震えている。 ただそれは涙や憤り、恐怖ではなく、堪えきれない笑いからだ。 「っ……だめ、我慢出来な……!あはは!」 とうとう、彼女は声を上げて笑った。 今まで流していた涙を拭いながら、楽しそうに。 「……それは良かった」 「へ?」 「君が笑えたのなら」 「せ、先生?」 これまでに見たことのない、湯川の優しい眼差しが、そこにあった。 不思議と、薫の顔が火照っていく。 ――何、その表情。湯川先生は、狡い。 最高のクリスマスプレゼントだ、とか思っちゃだめ。私―― 薫は一人、心の中で葛藤していた。 それを知ってか知らずか、この眼前の変人物理学者は――。 「内海君。今、最高のクリスマスプレゼントだ、等と思っていただろう」 「なっ!ひ、人の心まで読まないでください!」 言ってから、しまった、と薫は思った。 だが時既に遅し、湯川は満足げな笑みを浮かべて、彼女を見つめている。 「思っていたのか」 薫は、何も言えなかった。 出来ることといえば、恥ずかしそうに湯川から目を逸らし、顔を真っ赤にすることだけ。 「実にくだらない」 「……くだらないとか、言わないでください」 「違う、内海君」 次の瞬間、薫は強い力に引き付けられた。 何、何?と混乱する、彼女の頭。 冷静になってみると、再び湯川の胸に身を委ねている自分に気付く。 「ゆ、湯川、先生?」 「くだらない、と言ったのは」 す、と湯川の手が、薫の頬に伸びてきた。 それは頬を撫で、顎まで伝い、彼女の顔を上げさせる。 「もっと良い、クリスマスプレゼントがあるからだ」 湯川がそう言ってから、薫の視界が暗闇になるまでに、あまり時間はかからなかった。 ほぼ同時、と言ってもおかしくはない。 湯川の唇と薫のそれは、重なっていた。 事態の飲み込めない薫は、暫く目を閉じられないでいたが。 もっと良い、クリスマスプレゼント。 それが、湯川からのキスだとは。 「内海君。今の君は、実に面白い表情をしている」 「……!」 唇が離れても、薫はただ、口をぱくぱくさせるだけ。 耳まで赤くなった彼女には、到底言葉が発せそうになかった。 「さて、僕も君からプレゼントが欲しいところだが」 「な、せ、に、を……」 「何を貰おうか」 薫に構わず、湯川は真剣に考えているようだった。 言葉になっていない声は、やはり彼に届かないらしい。 「……内海君」 暫くの間の後、何やら考えついたらしい湯川が、薫を真っ直ぐに見据えた。 薫の思考回路、というより処理能力は、次々に起こる事の収拾に追い付けていない。 「君が欲しい」 その言葉を聞いた途端、薫はとうとうフリーズした。 意識の続くぎりぎり、最後に彼女の視界が捉えたのは、反転する研究室の天井。 倒れた薫を抱き上げ、湯川はやれやれ、と溜息をついた。 同時に、彼は決心する。 彼女が目覚めたら、開口一番に言ってやるのだ。 キスして、と。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |