湯川学×内海薫
![]() 「先生……マンション着きましたよ」 「ああ、ありがとう」 湯川の手によって東京が救われた後、薫はいつも通り車で湯川をマンションまで送り届ける。 湯川を車の助手席に乗せるのは、操作の協力をしてもらって以来、毎度のことで慣れっこだった。 ……慣れっこだったはずだった。 しかし……。 今日の薫の心臓は、普段とは違い、パトカーのサイレンのごとく派手に暴れていた。 ――湯川先生に、私の心臓の音、聞こえちゃう……。 運転の最中、薫はそんなことばかり考えていた。 運転に集中できなくて、警察官が事故を起こすなんて洒落にならないとはわかっていたが、 湯川と、先程の湯川との抱擁で頭がいっぱいだった。 そんな落ち着かない薫とは対照的に、湯川はいたって落ち着いているように見えた。 少なくとも、薫の目にはそう映っていた。 ――湯川先生は、さっきのこと、なんとも思ってないのかな……。 時折会話はあるものの、いつも通り調子。 わずか1時間程前までのドラマチックな展開なんてなかったかのようだ。 ふと会話がなくなったとき、横目でこっそり湯川の顔を見ても、 いつも通り真面目くさった顔で、正面を見据えていた。 きっとまた難しい科学の理論だかなんだかを考えているのだろう、と思い、 薫はこっそりため息をついた。 そして、湯川のマンションの前に到着したわけだが、車を降りる間際の湯川の態度はいつも通りだ。 運転中はそっけなくても、クリスマスの夜だし、もしかしたら……、 もしかしたら素敵なことがおこるかもしれないと期待していた薫だったが、 あまりにも普段どおり過ぎてがっかりしてしまう。 ――本当に、このまま別れてもいいのかな。 薫の胸に不安のインクがぽとんと一滴落ちた。 ――この前、もう頼らないなんて言っちゃったし。このまま別れたら、またいつも通り、研究室を訪ねられないかも……。 一滴のインクのしみはどんどん薫の胸に広がっていく。 「では」 湯川は、ドアのロックに手をかけた。 ――このまま別れるなんていやだ! 「湯川せんせ……」 思わず、湯川のコートの裾をそっとつまんだ。 「どうした、内海くん」 ドアの方へ向きかけていた湯川の顔が、薫の方に向いた。 「や……あの……」 「早く用件を言いたまえ」 薫は、高鳴る鼓動を抑えるように小さく息を吸った。 「先生、私のこと、死なせたくないって言ってくれましたよね」 「確かに、そういったが。それが何か」 湯川の口調はいたって冷静だった。 しかし、薫はここで引き下がってはダメだと、どこかでわかっていた。 「それ、どういう意味ですか」 「言葉通りの意味だよ」 「だから、それがどういうことか知りたいんです!」 「相変わらず君は感情で動いているようだな」 少しだけ、湯川の口元が緩む。 「いつもいつも、君の反応は僕にとって非常に興味深い」 「はぐらかさないで下さい!」 「別にはぐらかしてなどいない。僕の感想を素直に述べただけだ」 ――この先生には、かなわないかもしれない。私の気持ちなんて届かないかもしれない……。 怒りと、先生は好いてくれているのかもしれないという勘違いをした恥ずかしさで、薫の頬は赤く染まる。 しかし、目だけはまっすぐに湯川を見据えていた。 「ふはははははは」 耐えていた湯川だったが、薫の様子についに我慢しきれなくなり、笑いが爆発した。 「何がおかしいんですか」 「笑うという現象は、おかしなことがあった以外でも……」 「今は、先生の理屈なんて聞いてられません!」 「じゃあ、今度は僕の方が聞こう。内海君、君はなぜあの時、僕に死んでほしくないと言ったんだ」 「それは……」 薫は頬を染めたまま、俯いた。 ――ゆ・か・わ・せ・ん・せ・い・の・こ・と・が・す・き・だ・か・ら。 声に出したつもりだったけれど、声は出なかった。 二人の間に無言の時間がゆったりと横たわる。 突然、薫の頭にふわりと何かが被さった。 湯川の手だった。 実験をするとき、パソコンを打つとき、器用に動く、美しい指をもつ手だ。 そして、先ほど、薫を拘束していたものを取り除き、椅子から立たせてくれたのも、このやさしい手だった。 湯川はその手でゆっくりと薫の頭を撫でた。 そして……薫はゆっくりとその言葉を口にした。 「せんせ……キスして」 湯川のやさしい手は頭から髪、頬へとゆっくり降りる。 薫がおずおずと顔をあげると、今までにないほど優しい表情をした湯川の顔が、目の前にあった。 そっと目を閉じると、薫の唇に温かく優しいものがそっと重なった。 湯川の唇は、一度薫の髪へ、そして、もう一度唇にあてられた。 湯川の舌が薫の口に侵入する。 薫は、そっと自分の舌をからめた。 「……ん……ふぅ……」 気持ちが良くて、そのまま意識が薄れそうな勢いだった。 ……長いキスの後、湯川は再び、薫のあたまにそっと右手をのせる。 左手で器用に、薫の髪のゴムをはずして、頭にのせた手は、愛おしそうに薫の髪の上を滑らせた。 「先生、私、不安でした」 薫はそっとつぶやいた。 「ん?」 「研究室で、だ……抱き合ったのに、先生は車の中ではいつも通りで。 自分ひとりで盛り上がってたのかって、馬鹿みたいに思って……」 「………」 「それに、先生には頼らないって言ってたのに、結局迷惑かけちゃったから、呆れられてるかな……って」 「ああ、君にはいつも驚かされる」 「先生……」 「でも、呆れてはいない」 薫の髪を撫でていた手で、湯川はそっと薫を自分の胸に引き寄せた。 「驚かされると言っただろう。車の中で黙っていただのは、君に抱きつかれた後、どう接すればいいかさっぱりわからなかったからだ」 湯川の表情は見えなかったが、胸から伝わってくる心音は早く、大きく感じた。 「でも、君が抱きついてくれたことは、うれしかった」 湯川は、内海の髪にそっとキスをした。 「これから、僕の部屋にくるか」 「はい……」 「覚悟はできているのか?」 突然、湯川の口調が強くなった。 「え?」 湯川の口調の荒さに驚いて、薫は大きな目を見開いて、湯川の顔を見上げた。 「君は普段、僕の事を冷徹なロボットのように考えているようだが、僕も、人間の男だ。 君を部屋に招いたら、紳士のようにふるまえる自信はない」 「先生のこと、ロボットだなんて思ってません。だから、好きになったんです」 湯川は、口の端を面白そうに吊り上げて笑った。 「ロボットではないから好きになったというのは、非論理的だ。 ロボットを愛することができないなんていう……」 「ふふ」 薫は思わず噴出してしまった。 「何かおかしいか」 「先生、いつも通りに戻ったな、と思って」 「そうだな」 二人の笑い声が車の中に響きあう。 クリスマスイブの夜に相応しい場面だった。 「先生」 薫は、笑顔のまま湯川に言った。 「先生の部屋に、行かせて下さい」 近くのコインパーキングに車を止め、二人で車を降りた。 少し前を歩き出そうとした湯川の美しく優しい指に触れると、 すぐに、その指が絡みついてきた。 二人はそのまま、湯川のマンションの部屋へ向かって歩き出す。 「ところで先生」 「どうした、内海くん」 「先生、さっき、私の髪のゴムをはずしちゃいましたけど、どうしたんですか?」 「………」 少し前を行く湯川の表情は見えない。 「あれー、もしかして……」 薫の顔に笑みが浮かぶ。 「髪を下ろした方が好きなんですか、せんせは」 「………」 「先生、ムッツリすけべの上に、髪フェチなんですね」 湯川は立ち止まって、くるりと薫の方へ向き直った。 「髪を下ろしているほうがよければ、フェチなんて、君は安直に物事を考えすぎる」 湯川はもっともらしい口調で言ったが、薫の笑みは消えなかった。 湯川は根負けしたらしく、また前を向いて歩き出した。 ……手はつないだままだが。 「でも、髪をくくっているよりも、髪をおろしている方が好きなのは、事実だ」 そのまま二人は、マンションの一室に吸い込まれていった。 翌日、捜査本部にいる草薙の元に現れた薫の表情は非常に眠そうだった。 そして、普段のポニーテール姿ではなく、長い黒髪は降ろしたままだった。 「内海、昨日は早く帰ったから、ゆっくり休んだんじゃないのか」 「え!? あの、やっぱり昨日は、捜査状況が気になって眠れなかったので」 薫の挙動不審な様子に、草薙は内心は笑い出したくてたまらないのを極力押さえて、 事件の捜査に当たらせた。 薫が出て行ったのを確認した後、草薙は携帯を取り出して、電話を掛け始めた。 「もしもし、桜ちゃん? 実はね……」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |