磔の蝶
田上昇一×内海薫


「不起訴?」

自分のぼやきに湯川が実験の手を止めるのを、薫は初めて見た。しかし、驚かない。
不可解な事件の解析は面白がっても、犯人個人には興味を持たない湯川の、唯一の『例外』が
『彼』であることを、薫は知っていた。

「何故だ?超音波破壊装置による殺害は、装置の開発者である『あの男』にしかできない。
キューバの軍事企業向けサイトも、彼が作ったと証明されたんだろう?」
「それが、できなかったんです。私にはウェブサイトのことはよく分からないんですけど、
サーバ元からの情報では、作成者は関東圏の人間としか分からなかったとかで……」
「殺害方法の稀少性は?いや、それ以前に、あの男は自白はしなかったのか?」

薫は力なく首を横に振った。意識的に、湯川はあの男の名を避けている。それほど忌まわしい
存在だからだ。本当なら、薫も今更、あの男の近況など伝えたくはない。だが、何かの拍子に
湯川がその事実に―――特に、何故あの男が裁きを免れたかに、気付かない保証はない。伝えておくべきだと思った。

「あいつは、逮捕当初から犯行を否認し続けて、とうとう最後まで認めませんでした。
『全部警察のでっち上げです。僕が犯人だっていう、客観的な証拠はあるんですか?』って、顔色一つ
変えないで……取り調べた弓削さんも参ってました。私を殺すことを請け負った男も、最初からあいつと
口裏を合わせていたみたいで、あいつとは全く面識がない、と。私を襲ったときに持っていたものは、あいつとは全く別の
人間からもらったもので、殺人兵器とは知らなかったと主張してます。これが通って、実行犯は起訴猶予です」
「馬鹿な。最新鋭の殺人兵器の開発者と、それを持った人間が同じホテルの中にいて、それが偶然だと?
非現実的すぎる。検察はそんな供述を信じたのか」
「それが……その、あれの開発者があの男だっていう、立証ができなかったんです。弁護士が、有力な反証を持ってまして」
「何だ、それは」

薫は、臆せずにはっきりと、湯川の目に視線を合わせた。そうしなければ、責めているように見えるからだ。

「あの兵器についての、ある科学者の論文です。その科学者は、装置の機能も理論も、全て熟知したうえ、唯一の欠点である『殺害後の痣』さえ
克服していました。筆跡とかから、作成者があの男ではないこと、論文がたった数日で書かれたことが証明されて、短期間でここまで
できる科学者が国内にいるんだから、あの男が開発したのはそれほど独創的な技術ではないし、同じ着想をする科学者が複数いても不思議はない、
超音波を研究する全ての科学者が被疑者といっても良い事件だろう、って、弁護士が……」

何度も言葉を止めようと思った。ほとんど動かない表情の下で、湯川が顔色を失っているのが分かったからだ。「でも、」と薫は力を込めた。

「本当の理由は別にあるんです。超音波の研究者はたくさんいても、あの日にあのホテルにいたのは、多分あいつ一人です。何でも、
あいつの父親は検察の大物と懇意らしくて、多分その辺りで根回しして」
「いや」

薫の言葉を遮り、湯川は窓枠に手を置いた。それに頼って立っているようにも見えた。

「開かれた法治国家では、どんな根回しをされても、確かな根拠さえあれば起訴できる。僕は、その根拠を揺るがしてしまったんだ。
あの男が開発者ではなく、開発者候補の一人に落ちた以上、ホテルにいたことは何の証明にもならない。請負人に予め装置を渡して
殺害を依頼するのは、犯行時刻に現場から離れた場所にいてもできることだ」
「……」
「何故、僕に証言させなかった?その論文を書いたのが誰か」
確かに、それができれば状況は変わっていた。あの論文を書いたのがただの『国内の科学者』ではなく、帝都大の湯川と知れれば、
あの技術が超音波を研究していれば誰でも思いつくような代物だという証明は立たなくなる。
「弁護士が、知り合いの科学者に頼んで、論文の作成者を名乗らせたんです。特に独創的なアイディアではないと証言したのも、その科学者
だったとか……それが結構権威のある学者で気を遣ったらしくて、筆跡鑑定はされませんでした。私があの論文を見て、
湯川先生の字だって気づいたのは、不起訴処分がおりた後でした」
「……醜悪だ……聞くに耐えない」
二人のほかは無人の研究室に、湯川の声が重苦しく響いた。沈黙に耐えられず、薫は鞄の肩紐をつかんで席を立った。
「先生の責任じゃありません。検察に有無を言わせない捜査報告書が作れなかった、私たち警察の責任です。はじめから湯川先生に
証言をお願いしていれば……今日は、それが言いたくて来ました」
「……」
「失礼します」

ドアを開け、研究室を抜ける間際、薫は無言の湯川の背中に向かい、声を掛けた。

「また来ます」

返事はなかった。

「あーあ……へこませちゃったなぁ」

薫は晩秋の夜空を見上げ、白いため息をついた。これに懲りちゃって、もう捜査に協力してくれないなんてこと、ないかな?
冷え冷えとした夜道を一人で歩いているせいか、思考がどんどんマイナス方向へ転がる。しかし、しばらく考えているうちに、
それは杞憂だと自覚した。湯川は、もともと犯人の帰趨など気にもとめない。あの男だけが、特別だったのだ。そうだとすれば、
これから先、湯川にとっては顔無しの犯人が『実に面白い』事件を起こしてくれた場合、今度のことは湯川に捜査協力を
思い止まらせる理由にはならない。

“私も、ちょっとは『論理的』になってきたかな?”

家に着くころには、薫は一人で自賛して、笑顔になっていた。アパートの階段を昇り、鞄の中の携帯電話を探す。
湯川と話したいと思った。自分の笑っている声を聞けば、湯川も少しは元気になるかもしれないという、ささやかな自負があった。
探し当てた携帯電話を握り締め、玄関の扉を開ける。ボタンを操作し、湯川の番号を液晶に表示させた、そのときだった。

「んぐっ……?!」

不意に口元に何かを押し付けられ、薫は気が遠くなるのを感じた。遠くに、玄関扉が閉じる音を聞き、何が起こったのかを
朧に理解する。帰宅と同時に背後から押し入られる。一人暮らしの女性が襲われるとき、一番よくあるパターンだ。まさか、自分が
こんな手に引っかかるとは思っていなかった薫は、ハンカチを押し当ててくる手を払おうと必死に足掻いたが、手を振り上げることさえ
ままならない。薬物をかがされている。そう気付いたときには、薫は携帯を取り落とし、その場に倒れこんでいた。
動こうとして動けない、悲鳴もあげられない薫を、悠然とまたいで、侵入者は廊下のほうへ転がった携帯を拾い上げた。

「ビンゴ……待ってた甲斐があった」

その声に、薫は目を見開く。まさか。どうして。自由の利かない手が震える。その間に、薫は仰向けに身体を返され、侵入者に
横抱きにされた。近い位置から自分を見下ろしてくる、その端正な顔だちに、薫は吐き気を覚えた。

「こんばんは、内海さん。夜分に失礼します」
「た……が…み」

痺れる舌で名を呼ぶと、侵入者―――田上はにっこりと笑った。

「ずっと機会を狙ってたんですよ。内海さん、いつも隙がないから、抵抗覚悟で襲っちゃおうかなって思い始めてました」

ずっと、付けねらわれていた?いつから?さらりと告白された事実に、薫はぞっとした。

「でも、今日は珍しく上の空でしたね。何かあったんですか?湯川先生と」
「……なし……て」

離してと、必死に訴える薫を、田上は無視した。

「良いことだといいな……そのほうが、あの人の苦痛も大きいだろうから」

田上は靴を脱ぐと、薫を抱えたまま、当然のように薫の居室へ歩を進めた。ゆっくりとベッドに降ろす仕草は、相変わらず紳士的な
ものだったが、薫の安心材料には全くならない。殺人者に見下ろされながら身動きもできない薫の心境は、今まさに標本にされようとする
磔の蝶そのものだった。

「ああ……やっぱりあのとき殺さなくてよかったかも」

田上は服の上から薫の身体に触れ、田上は悪戯っぽく笑った。薫は、嫌悪感に顔を歪める。

「そんな顔しないで。本当ですよ。あの状況じゃ、たとえあなたを殺してても、湯川先生の証言で僕は逮捕されていたでしょう。
あなたを殺されていたら、湯川先生は僕が裁かれるまであの事件に執着していたはずです。あなたが無事だったから、あの人は
自分の論文がどうなったかも知らず、おかげで僕は起訴を免れた訳だ」

滔々と語る田上は、しかし、まったく愉快そうではない。むしろ、言葉を進めるにつれ、その表情は冷徹な殺人鬼のそれに近づいていった。

「だけど、僕はあの人のおかげで大切なものを失った。重要事件の被疑者、それも弁護士のごり押しで不起訴になった人間なんて、
まともな大学は相手にしませんよ。まぁ、それはいいんです。海外に行けば、逮捕歴を隠してもぐりこめる大学なんていくらでもある。
もちろん僕自身そのつもりです。―――ただ、許せないのは」

不意に、田上は薫の首に指をかけた。手袋をしていないのが見えたのに、信じられないほど冷たい。外で待ち伏せしていたせいなのだろうが、
薫には、彼の非人間性の証左に思えて、恐怖した。田上の指が、ゆっくりと首の皮に食い込む。

「あの人は、失敗だと言ったんです。5年かけた、僕の研究を。そして、僕を雇う軍事企業などないと言った。
だから僕は、警察でその通り供述したんです。それが実って、僕は釈放された。―――どんなに屈辱的だったか、あなたに分かりますか?」

田上の指は、薫の気道を圧迫し始めていた。頭部に血が集まる感覚に、薫は戦慄した。

「不起訴が決まってから、僕はずっと考えてました。あの人に復讐するにはどうすればいいか。まず、今度こそあの人に解析できない
兵器を作る。それも、短期間で。ここまでは当然ですよね。あの人の言葉を、間違いだと証明してやるだけのことです。だけど、
それだけじゃ足りない。僕に挑んだこと、僕を侮辱したこと、全てを後悔させてやらなくちゃ、僕の気がすまない」

言葉と裏腹に、田上は薫の首を解放した。たまらず咳き込む薫に、田上はまたも無邪気に笑いかける。自分の勝利を確信して、
逮捕前の余裕を取り戻しているかのようだった。

「そこで、あなたを使うことにしました。僕の見る限り、湯川先生が個人的な関心を持っている人間は、あなた一人だ。
あの人は、僕を屈服させようとあんな論文を書いたばっかりに、大切なあなたを失うんです。そして、二度と取り戻せない」

楽しげに笑う田上は、まるで新しい遊びを考え付いた子どものようだった。
薫の脳裏に、プールで発見された富豪の娘の死体が鮮やかに浮かぶ。きっと今のように笑いながら、あの男は彼女を殺したのだろう。
私も、殺される。それも、あんな風に綺麗にとは限らない。どんなに痛いだろう、苦しいだろう。本能的な死の恐怖に、薫は打ちのめされた。
見開いた目から、自然と涙が溢れる。

「ああ、泣かないで。大丈夫、すぐには殺しませんよ」

田上は指の腹で丁寧に薫の涙を拭い、あやすように髪を撫でた。この様子を見て、誰が殺人鬼とその獲物だと信じるだろう。

「2時間……いや、3時間ってとこかな。あの人が泣いて悔しがるような絵が欲しいんです。いっぱい撮らせて下さいね」

嗚咽する薫には、田上の言葉の意味は分からない。ようやく反応を示せたのは、ボタンごとワイシャツを引き裂かれた後だった。
声が出るなら悲鳴をあげていただろうし、手が動くなら田上を張り倒していただろう。ただ表情を引き攣らせることしかできない薫を、
無遠慮な光が照らし出す。驚いて見ると、田上はデジタルカメラを手にしていた。

「そうそう、今の顔よかったですよ。泣いたり怯えたりは基本ですよね、この場合。だけど」

田上の手が、薫の背の下に入り込み、下着の金具を外す。緩んだところを下からたくしあげられて、ひとたまりもなかった。
乳房が転び出る瞬間、薫は固く目を閉ざした。瞼の上から、再びカメラのフラッシュを感じる。ついで、田上の手に乳房を掴まれ、
全身を寒気が駆けた。

「あの人が見たことないような、綺麗な顔の内海さんもいいな……あの人、どんな顔するでしょうね?見てみたいと思いませんか?」

ゆっくりと膨らみを揉みしだきながら、田上は薫の上身に身体を重ねてきた。目を閉じていても、唇を奪われようとしているのが分かる。

―――嫌。嫌。嫌。

呪文のように、薫は内心で繰り返した。






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