磔の蝶 続編パターンA
田上昇一×内海薫


それは、声にさえなっていないただの繰言のはずだった。しかし、玄関で鍵穴を回す音がしたのは、確かにその瞬間だったのだ。
気付いた田上が身構えるのと、薫が目を開けるのとが同時だった。それから、暗闇の中で何が起こったのか、薫には分からない。
たった数秒、田上が誰かと取っ組み合うような音がして、気がつけば田上は壁に背を叩きつけられていた。夜目にも分かるその誰かは、
息を弾ませながら、顔だけはいつもの仏頂面だった。

「―――お久しぶりです、湯川先生。意外だったな、部屋まで行き来する仲だったなんて」
「君に詮索される覚えはない」

田上のにこやかな挨拶に、湯川はにべもなかった。それでもなお、田上は笑う。

「駄目ですよ、先生。そこまで仲良しなら、もっと大事にしてあげなきゃ。浮気されちゃいますよ、今日みたいに」
「薬を嗅がされてか?これ以上、君の戯言は聞きたくない。現行犯逮捕だ、今すぐ警察に突き出してやる」

ほんの一瞬、湯川の声が震えたのを、察知したのは薫だけではなかったらしい。田上は実に愉快そうに、けらけらと笑った。

「遊びですよ、薬もカメラも。大人なんだから、色んな楽しみ方があるでしょう?警察は、男女のいざこざには関与したがらない。
彼女は、僕とホテルで食事したことがある。僕があげたブローチも、喜んでつけてましたよね。和姦じゃないって、証明できますか?」
「……」
「悪いね、『薫』。今日は帰るよ」

わざとらしく薫を呼び捨てて、田上は湯川の手を払った。そして来たとき同様、悠然と廊下を渡っていく。
殺人鬼なのに、現に私は殺されたかったのに。今はこの男を野に放すしかない。事件前、田上の外面にまんまと騙された自分が、
薫は悔しくてならなかった。歯噛みしたい思いは、湯川も一緒だろう。

「待て」

不意に、湯川が田上を呼び止めた。背を向けたまま、田上は歩を止める。

「君のことだ。内海くんをレイプして殺すだけなどと、単純な復讐をするつもりではなかったろう?」
「あれ?まだ僕をそんな風に買ってくれるんですか。嬉しいな」
「勘違いはやめてもらおう。君の過剰で醜悪なプライドと、自己顕示欲から察しただけのことだ。君のような人間は、敗北したのと同じ
フィールドで相手を見返さないと気がすまない。作ったんだろう?新しい殺人装置を。それを使って内海くんを殺し、溜飲を下げようとした」
「さぁ、どうでしょう?でももしそうなら、きっとまたお会いしますね」

振り返った田上の顔に、薫は恐怖した。今までの笑顔とはまるで違う。目だけを見開いて酷薄に笑う様に、鮮やかな狂気が滲んでいた。

アパートの階段を降りていく田上の足音を聞きながら、薫は放心していた。
助かった。でも、助かってない。帰り際の田上の目が視界に焼きついている。あの目に、死ぬまで追われるのだろうか。
再び泣き出しかけたそのとき、掛け布団がふわりと浮かんで、薫の身体に被さった。気がついて見ると、湯川が枕元に立っていた。

「すまなかった。全て、僕の失態だ」
「……」

目を伏せて謝る湯川は、相変わらずの鉄仮面だったが、心からの謝意だと分かった。臆面もなく人の目を見るのが、彼の常だからだ。
らしくもない湯川のしおらしさを見るうち、薫は切なくなって、湯川の言葉を否定しようとした。失態どころか、彼のおかげで
薫は、強姦殺人に遭うところを強姦未遂で済んだのだ。しかし、いかんせん薬が残っていて声が出ない。

「朝になったら、管理人に鍵を返そう。しかし、名刺と免許証を見せただけで簡単に合鍵を渡してきたのは問題だな。安全管理がなっていない」

その間に、湯川はつらつらと自論を展開し始めた。どんな状況でも頭の回転だけは忘れないらしい。薫は呆気にとられた。

「君は僕のマンションに移ってもらおう。オートロックだし、エレベーターには監視カメラがついている。まず侵入の危険はない。
あとは仕事だが緊急事態だ、あの男が尻尾を出すまで、無期限の休暇をとることだな。僕から草薙に話そう」

どんどん勝手に話が進んでいく。薫は思わず『嫌です』と抗議を口にした。薬が抜けてきたらしく、どうにか声になったが、発音は

「いあれふ」

と間抜けだった。湯川が眉をひそめる。

「何が?マンションか?」
「ひはいあふ」

『違います』。

どうにか通じるが、どうにも間抜けだ。しかし、湯川は気にも留めていないらしい。至って真面目に問い直してきた。

「……仕事か」
「はひ」

わずかに動くようになった首を懸命に上下させ、薫は必死で訴えた。無期限休業なんて、冗談じゃない。こっちは生き甲斐を持って刑事を
やっているのだ。田上のことは恐ろしいが、人気のないところは一人で歩かないようにするとか、スタンガンを持ち歩くとか、対処法は
いくらでもある。言葉にはならなかったが、意思を持った薫の目に、湯川はおおよそのことを察したらしく、ため息をついた。
そうして、いつものように苦笑するかと思った。実に君らしい、とか何とか言って。
しかし、顔を上げた湯川の表情は、今までに見たことのない、はっきりとした怒気を孕んだものだった。

「君は、ほんの10分前、僕がどんな思いをしたか分かっているのか?」

「へ……」

薬がなくても、ここは間抜けな声しか出なかっただろう。思ってもない問いかけに、薫は返答できなかった。

「もともと、僕は後悔していた。余計な論文を書いてあの男に逃げ道を作り、あまつさえそのことを、君に謝れなかった。あの男を逮捕に
追い込んだのは君の観察眼だったというのに。すぐさま君に電話をかけたが、君は出なかった。やむなく、
手帳に控えてあった草薙の電話番号を頼り、君の住所を突き止めた。間違いを正すのは早いほうが良いからだ」

電話を受けたときの草薙の顔が目に浮かぶ。薫は少なからずげんなりした。

「車を飛ばして、ここまで来た。そして、ドアの辺りで微かにあの男の声を漏れ聞いた。目の前が真っ暗になった。君が研究室を出た時刻から
逆算すれば、時間的に言って君が殺されている可能性は十分にあった。事実、聞こえてくる声はあの男のものばかりで、君の声はしなかった」

刹那、湯川の目に怯えが宿ったのを、薫は見た。意外なんて、生易しいことではない。知らず知らず、心臓が高鳴る。

「頼むから、二度とあんな思いはさせないでくれ。代わりと言っては難だが、あの男の逮捕協力に全力を尽くすことを約束する」

切々とした言葉に、薫はほとんど反射的に頷いていた。湯川は、満足な実験結果を見たときのように、「よし」と頷く。

「一刻も早く移動したいが、さすがに二度も管理人を叩き起こすのは忍びない。やはり朝までここにいるとしよう。君も寝むといい」

湯川は結局何もかも一人で決めて、自分もその場に座り込み、あっという間に眠り始めてしまった。もう、いつもの変人ガリレオだ。
そのことが、ひどく薫を安心させていた。あんなことがあったのに、もう少しずつ眠気がさしている。

『守られるっていうのも、たまにはいいかも』

ベッド横の湯川の寝顔にそっと笑って、薫は眠りに落ちた。






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