爆弾発言
村井茂×村井布美枝


「あのっ……昔、べとべとさんに追われてた女の子を助けませんでしたか?」

フミエが目をきらめかせて訊いてくる。

「ん?そういえばそんなこと……」

なにを藪から棒に。〆切は明日だ。いつまでもお喋りはしていられない。

「あったかもしれんし、なかったかもしれんなあ」
「そうですか……」

フミエがしょんぼりする。茂はペンをインクに浸し、ペン入れの続きに取り掛かった。
しかしフミエはまだ両手を見つめたまま、筆を取ろうとしない。

(そんなにべとべとさんが気になっとるんか?
それよりベタをべとべとさんしてくれんことには間にあわんのに)

一言注意してやろうか。茂が顔をあげたとき、ようやくフミエが筆をとり、ベタの続きを塗りはじめる。手つきはいつもながら丁寧だ。そして、幸せそうに笑んでいる。

「……なに、にやにやしとるんだ?」
「なんでもありません。ただ、あれが私の初恋だったのかなあって」
「なにをいっちょる」

また馬鹿なことを言いだす。笑いとばして原稿に向かったが、

(初恋?)

ペンが止まる。フミエは(茂にとっての)爆弾発言などなかったように、
幸せそうにベタ塗りを続けていた。

(そうか、初恋か……こいつも三十になっちょったんじゃから、好きな男の一人や二人おったのかもしれんな。
ひょろりとした一反木綿で顔は航空母艦でも、わしよりはいい相手と結婚できたんじゃなかろうか)

「うーむ」

集中できない。茂がペンを投げだしてうなると、フミエがすぐに気づいた。

「どうしました?」
「なんでもない」
「肩がこったんですか?なら、湿布つくりましょう」

勘違いしたフミエが立ちあがりかける。茂は思わず、フミエの手をとった。
さらさらした肌だ。汗をかかせてやりたくなる。

「なんです?」

茂がなかなか手を離さないので、フミエは恥ずかしそうに振り返った。
茂は横目でちらりと残りの原稿の枚数を数え、いけると思った。

「なんでもない……が、おまえ、ちょっこしここに座れ」
「はい、なんです?」

素直に正座するフミエは、茂の役に立つことができると疑ってもみない。

「ちょっこし、目を閉じていてくれんか」
「こうですか?」

フミエが目をつむる。その、嬉しそうな笑みに茂は顔を近づけた。
唇を触れあわせると、フミエがかすかに震える。

「あの……」
「まだ目を開けたらいかん」

高圧的に命令すると、フミエはぎゅっと目をつむった。

「はい」
「それでいい……じっとしちょれよ」

頷くフミエの顎をつまみ、耳元から首筋にそって唇を辿らせる。
電信柱のわりに感じやすい妻は、茂が触れるたびにびくっと身を震わせた。

「後ろを向いてくれ」

浴衣地のワンピースは、片手だけでは脱がせにくい。
フミエは真正直に目を閉じたまま後ろを向こうとしたが、

「あのう……原稿は、ええんですか?」
「あとでええ。いや、よくはないが、なんとかなる。いいからおまえは後ろを向け」
「すみません」
「髪をあげろ」
「こうですか?」

フミエが両手をうなじに添えて、黒髪を掻きあげた。裸電球のもと、女の白い腕と黒髪のコントラストがなまめかしい。
茂は唾を呑みこんだ。焦る手つきで襟元のホックを外し、ゆっくりとファスナーを下ろす。妻の背中があらわになった。

「汗、かいちょらんな」
「すみません」
「なにを謝っちょる……やっぱりおまえは一反木綿じゃな。さらさらして気持ちがええ」

浴衣地のなかに手を差しこみ、脇の下をなぞって胸に触った。
まだ馬鹿正直に髪をあげていたフミエが、小さく声を洩らして両手を放す。

ばさりと髪が広がり、せっかくの背中が隠れてしまった。

「だら。なにをやっちょる」
「すみません……」

フミエは息を堪えていた。決して大きくはない胸の柔肉を、左右交互に寄せたり揉んだりしてやっても、なかなか声をあげようとしない。

(辛抱強いというのか……いや、本当はわしに抱かれたくないのかもしれん)

夫婦だから義務は果たすが、そこに感情が伴うかどうか別の話だ――なにしろ、初恋の相手が別にいたというのだから。

「うーむ」

うなりながら片方の乳首を強くつまむと、フミエは「ひゃっ」と悲鳴をあげた。

「あの」

恐る恐る茂を振り向き、睫毛を震わせながら目を開ける。

「どうか、したんですか……?」

白い目玉が、怯えているようだった。なぜ、そんな目でわしを見る。腹が立った。
気に入らないことがあるならはっきり言えばいい。
はっきり言ってほしいと、夫婦なのだからと茂に教えたのはフミエだ。
なのにこいつは、自分で言ったことを守らんのか?いったい、どこまで耐えるつもりなのか……。
試してやる。茂は唾を呑みくだした。

「おまえ、髪をあげちょれと言ったのに、言いつけを守らなかったな」
「はい……」

フミエは神妙に頷き、いそいそと髪をあげようとするが、

「もうええ。それに、目を閉じちょれと言ったのに、それも守れんかったな。こげな簡単なこともできんようでは、漫画家の女房はつとまらん」
「そんな」

フミエは大きな目をみはり、茂の膝にすがった。ワンピースの襟は肘までずり落ち、うっすら汗ばんだ胸の谷間が見え隠れしている。

「すみません。目を閉じておくのがそげに重大なこととは思っちょりませんでした。これから気をつけますから、どうしたらいいのか教えてください」
「ふむ。まずは服を脱ぐことじゃな」
「は?」
「服を脱げ。そんで、足を開いて座れ」

フミエは信じられないことを耳にしたような顔つきだったが、茂が「早くせんか」と急かすと、おずおずとワンピースの袖から腕を抜いた。
靴下と下着だけの姿になり、両手で胸を隠しながら正座する。全部脱げと命じようかとも思ったが、いまでさえうつむいて羞恥に震えているものを、強引に進めたら泣きだしてしまうかもしれない。
それは避けたい。茂は、フミエの涙が苦手だった。

(こいつはイカルのように怒鳴りつけたりせんが、泣かれると、わしは勝てんからな)

慎重にいこう。茂は手つかずの原稿のように白く浮かぶフミエの肌を見つめながら、筆立てに手を伸ばした。未使用の中太の筆をとり、穂先を舐めて柔らかくする。そして、

「ひゃっ」

フミエが声を洩らした。思いがけない刺激だったらしい。茂の唾液で湿った筆が、両手で隠した胸のあいだから臍にかけてをつーっと辿ったのだ。
びくつく妻に、茂は低い声で命じる。

「手をほどけ。ちゃんと胸を見せるんじゃ」

フミエはおずおずと両手をずらしていったが、茂が握っている筆を不安そうに見つめた。

「あのう、それ、大事な絵の道具じゃないんですか?」
「ああ、これは筆だ」

茂は見えそうで見えないフミエの胸を凝視しながら、適当に答えた。

「これは筆だが、まだおろしたてなので仕事には使えん。筆を馴らすには、白い紙に何度か描いてみるしかないのだが、昨今は紙代もばかにならん。
そこで、おまえの一反木綿じゃ」
「はあ……」
「おまえの体にこれで絵を描く。そうしてはじめてこの筆は使いもんになるんじゃ。わかったら、はよ手を下ろせ。夜が明けてしまうぞ」

茂が急かすと、フミエは小刻みに頷いて、ようやく両手を畳につけた。
電信柱の中ほどに、二つの白い膨らみ。
頂点はほんのり桜色に色づき、茂が先ほどつまんだ片方だけ、ひかえめにつぼみを結びかけていた。

「ふはっ。おまえの体はまだ、うぶじゃな」

夫婦として何度か交合を重ねていたが、フミエの体をじっくり見るのははじめてだった。
茂は再び穂先を舐めて毛並みを整えると、妻の胸にそっと筆を近づけ、乳輪に沿って小さな円を描いた。

フミエが唇を結び、震える。うぶな乳首はなかなかその形を現さなかったが、茂が筆を舐めては描くことを繰り返していると、
やがてぷっくりと可愛らしい豆が筆先で転がりはじめた。
なにかに似ていると気づき、茂はぷっと吹きだす。

「見てみい。わしが絵具を使わんでも、おまえの胸には立派な目玉親父がついとるぞ」

耳まで赤くなって夫のいたずらに耐えていたフミエが、茂が筆でつついたものをじっと見つめて、感心したように頷く。

「……ほんとですね。似ちょりますねえ」

ああまったく、この女は怒るということがないのだろうか。
呆れ半分、感心半分といったところで、茂は筆を握りしめながら、あえて厳しい声を出した。

「だら。感心しとる場合じゃない。さっさと仰向けにならんか」
「なんでですか?」
「画用紙が縦になっとったら描けん」
「それもそうですね」

フミエはあっさりと納得して頷き、古畳に手をついて横たわった。
なにしろ狭い仕事部屋なので、足を伸ばすことができないフミエは軽く膝を曲げて天井を見る。
張りつめた乳房はぴんと上を向いていて、両手を臍の上で組むので、ますます一反木綿そっくりになった。
茂は唾を呑みくだした。また舌で筆を湿らせようとしたが、口がからからに渇いてちっとも濡れない。乾きかけた筆で肌に触れようとすると、フミエはわずかに顔をしかめた。毛がちくちくと尖っているせいだ。

「だら。我慢せんで、痛いなら痛いと言わんか」
「すみません」
「筆洗の水はあるが、色をつけたらせっかくの一反木綿が台無しじゃからな……おまえ、これ舐めてくれ」

茂が筆を突きつけると、先ほどから夫のすることを見ていたフミエはおとなしく口を開け、穂先をそろそろと舐めた。赤い舌が、毛先をちろちろと濡らしていく。

(垢舐めとは、こういう妖怪なのかもしれん)

「そんな舐めかたではいつまでたっても筆は使えん。ちゃんと口に入れんか」
「はい」
「唾を出してじっくり濡らせよ」

筆をぱくりと加えたフミエは、頬をへこませて頷いた。
唾液がたまると、ときおり息継ぎをしながら筆の中ほどまで口内に入れ、茂の満足いくまで濡らそうとする。
茂が戯れに筆を前後に動かすと、フミエも動きに合わせて首を揺らした。

(ろくろ首じゃな……この口にわしのものを入れたら気持ちええかもしれん)

すでに茂のものは充分な熱をもって張りつめていた。しかし、ここで安きに流れてしまっては、せっかくの新品の筆が無駄になる。
フミエはなぜかうっとりと目を潤ませて、筆を口に含んでいた。茂が「もうええ」と言うと、はっと我に返って唇を離す。
茂は充分に水気を含んだ穂先をフミエの目の前で動かし、指先で毛並みを整え、

「なかなかええな。柔らかくなってきた……これで、絵が描けるかもしれん」
「そうですか」

茂に誉められたと勘違いしたフミエは、ぱっと笑顔になる。茂は頷き、

「そうだ。ちょっこし、描いてみるか。足を開いてくれ」
「足を、ですか?」
「うむ。はじめに目立たんとこで練習せんとな。膝を立てて、開くんじゃ……そう。もっとじゃ」

茂に命じられるたびに、フミエは少しずつ膝を開いていった。二本の電信柱の中心を白い下着が包んでいる。眼鏡を外した茂は、じっくりとその部分を観察した。

「なんだ、こっちの布は使い物にならんな……もう湿っちょる」
「えっ」

フミエはびくりと膝を震わせたが、あいだに茂がいるので足を閉じることはできない。

「だら。使い物にはならんが、下書きくらいはできるじゃろう――この辺が濡れとるな。わかるか?」

茂は畳にうつ伏せ、原稿を描く時のように筆を立てて、フミエのその部分をすっとなぞった。

「……んっ」

抑えきれなかった声を洩らして、フミエが身を竦める。






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