村井茂×村井布美枝
![]() 布美枝が夕ご飯の支度をしていると、玄関の開く音がした。 「お帰りなさい!」 茂が散歩から戻ったのかと笑顔で振り返ってみれば、 「やっ。奥さん、ごぶさたしとります。 ゲゲは留守ですかな?」 「浦木さん!」 茂の腐れ縁の幼友達が我が物顔で入ってきて、断りもなくちゃぶ台の前に座り込んだ。 「いや〜、いい匂いですな〜今日の夕御飯はなんです?」 とあつかましく鼻をひくつかせている。 「うちの人はそろそろ帰ると思いますが…。 あの、よかったら、夕飯食べていかれますか?」 「おおっありがたい!旦那と違って奥さんは気前がええですな〜。」 布美枝は苦笑する。この傍迷惑な男はいつも問題を起こす悩みの種ではあるが、 なぜか憎めないのだ。 「そうそう、今日は奥さんにええ土産があるんです。」 と、浦木は後ろ手に持っていた一冊の本をだし、ちゃぶ台におく。 「じゃーん。この浦木がプロデュースした本です!」 「?何ですか?この本。えっと…妻の心得?」 浦木が持ってきた本は、薄紫色の表紙に黒で「妻の心得」とだけ書いてある、 布美枝にはあまり馴染みのない装丁のものであった。 しかし題名には心惹かれるものがある。 「これは…妻として、勉強になるような本なんでしょうか?」 「そう!まさにそうですよ〜奥さん! この本に載っている、ありとあらゆる手管を習得すれば、 旦那大喜び!家庭円満!」 「あのっ、うちの人の役にも立つでしょうか?」 布美枝は勢いこんで尋ねる。 「もちろんですよ〜!ゲゲも喜ぶに決まってます! すべての夫婦に贈る、旦那の夢がつまった素晴らしい本ですよ!」 布美枝は期待に頬を染め、早速ページを捲ろうとした。 その瞬間、 「おう、今帰ったぞ。」 「あっ、お帰りなさい!」 布美枝は開きかけた本を閉じ、夫を迎えるために立ち上がる。 「なんだ、浦木がきとるのか。突然どうしたんだ。 …さてはまた何かたくらんどるんじゃないだろうな?」 茂が冷たい目で浦木をじろりと見た。 「たくらむとは失敬な。新しく作った本をお届けにきただけだ!」 と浦木は胸を張り、ちゃぶ台の上の本をビシッと指差す。 茂は本を手に取り、 「なんだ?妻の心得?」 不審気にパラパラと開く。 と、みるみる茂の目が見開かれ、布美枝が横からのぞきこむ前に、 本はバタンと勢いよく閉じられた。 「浦木〜!!!なんちゅうもんをもってくるんだ!」 それは夫婦の夜の生活、特に女性側の技巧や誘い方について懇切丁寧に書かれた、 図解入りの指南書であった。 「どうだ〜ええ本だろう。 これで奥さんが勉強すれば、めくるめく夜が…って、おい!ゲゲ!何すんだ!」 「だらっ!余計なもん持ってきおって!」 茂は本を投げ捨て、片手で浦木の襟首を掴み、玄関へ引きずっていく。 「ちょ、ちょっと待てって!ゲゲだってうれしいだろ? 奥さんがあげなこと、こげなことだぞ?」 引きずられながらも必死な浦木の言葉に、一瞬茂の動きが止まったかに見えた。 が、すぐに強制送還を再開し、器用に開けた玄関から浦木を放り出した。 「なんだよーゲゲ!お前だって今一瞬想像したでねーか!」 鼻先で閉められた扉に縋りついて叫ぶ浦木の言葉を無視し、 部屋へ戻った茂の眼に飛び込んできたのは、、 今まさに女房が件の本を開こうとしている姿であった。 「こらっ!そげなもん見てはいかん!」 「あっ!」 布美枝から慌てて本を取り上げ、玄関を開け、扉の前に座り込んでいた浦木に投げつけ、 「それ持ってはよう帰れ!二度と持ってくるなよ!」 乱暴に扉を閉め、鍵を掛ける。 「ああ〜、晩飯食べ損ねた…。ゲゲのやつ…一瞬迷ったくせに…あーのムッツリが…。」 そしてその夜村井家では。 「なして私には見せてくれんかったんですか?」 「あげなもん、あんたには必要ない!」 「だって浦木さんがあなたも大喜びだって。夫の夢が詰まっとるって。」 「つまっとらん!」 「だけどちょっこしくらい見せてくれてもええでないですか…。 何かひとつくらい参考になったかもしれんのに。」 「参考になどならん!」 「じゃあせめて、どんな本だったか教えてください!」 「そげなもん忘れた!」 ため息を吐いてがっかりする布美枝。、 「なしてそんなに気にするんだ。もうええだろ。」 「だって、少しでもあなたの役に立ちたいんです!」 子猫のようにキラキラと潤んだ目で見つめられ、茂は思わず目を逸らす。 「今だってこの目にこげに惑わされとるのに、下手になんか勉強されたりしたら、 どげな事になるか…。」 横を向きブツブツとつぶやく夫の顔を、布美枝が下から覗き込む。 「?何か言いましたか?」 「な、何でもなぁ!とにかくこの話は終わりだ!仕事する!」 無邪気な目に更に動揺させられ、茂は慌てて仕事部屋に逃げ込んだ。 「まったく、あいつは妙に生真面目だからな…。 あげな本を渡したら、必死に勉強して免許皆伝までいきかねんぞ。 なんとか見せずにすんで助かった…。」 茂は胸を撫で下ろし、仕切り直しとばかりに原稿にむかったが、 どうも先程ちらりとみただけの図解と女房の姿が重なり、目の前にちらついてしょうがない。 「あげな本、普段はなーんにも感じんのに…。」 茂は机に突っ伏し、今夜は仕事になりそうにないと、浦木と女房を怨むのであった。 その頃、襖を隔てた隣では。 「もお、自分ばっかりみて、全然教えてくれんのだから…。 よっぽど難しい内容で、私には無理だと思われたんだろうか。 あーん、気になる! …そうだ!美智子さんに聞いてみよう! ええ本だったら店に仕入れてもらえるかもしれん。そうなったら貸してもらおう。」 隣で夫が悶々としているとも知らず、無邪気な女房は自分の思いつきに機嫌を直し、 ニコニコと壁の絵を見つめていた。 一反木綿は何故か、あーあ、と肩をすくめたように見えた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |