村井茂×村井布美枝
ある日茂が外出から戻ると、布美枝が一心不乱に本を読んでいるところだった。 茂が入ってきたのにも気付かない。 「おい」 「はい!」 布美枝はとびあがった。 「か、帰っとられたんですか。 ああ、びっくりした。」 さりげなく後ろに本を隠すようにしている。 「お帰りなさい。」 少し顔を赤らめ、明らかに挙動不審だ。 女房と本、というとり合わせに、嫌な記憶が蘇った。 まさかと思いつつ、 「その本はなんだ。」 「あの、ちょっこし、美智子さんのところでお借りして…。」 ―その手があったか! 浦木を追い返して済んだ気になっていたが、こんなところに思わぬ伏兵がいたとは。 「ちょっこし見せてみい。」 「でも…。」 布美枝はしばらく俊巡していたが観念したのか、茂の方に表紙を向けて本を差し出した。 「なんだこれは」 気の抜けた声が出た。 それは、乙女チックな装丁の、どうやら翻訳された小説のようだった。 「何だと思われとったんですか?」 「てっきり…こないだの浦木の本かと」 ほっとするあまり本音が出てしまう。 布美枝は気まずげに、 「実は…浦木さんの本も、美智子さんに仕入れてもらえるようたのんどったんです」 「!」 新たな攻撃に、茂は言葉もない。 「美智子さん、最初はとっても乗り気で、任せといて!と言っとられたんですが…。 でも結局、仕入れはしてもらえんかったんです。」 九死に一生である。 「それが、仕入れのできんかった理由を聞いてみたら、美智子さんものすごく言葉につまっとられて… 夫婦で協力して、とか、まずは水木先生に色々と教えてもらって、 とかよくわからないことをつぶやかれてました。 どげされたんでしょうね?」 「あーそれは、ほれ、あれだ。 あんたが楽しみにしとったから、きっと悪いと思われたんだろう。」 とぼけるしかないのが情けないが、伏兵はどうやらこちらの味方だったようだ。 「そげですね。 私があんまりがっかりしとるんで、美智子さんが代わりにこの本貸してくれたんです。 ふみえちゃんの好きそうな、ロマンチックな本なのよ、って。」 こみち書房の女将もうまく説明できず、さぞ困ったことだろう。 茂は噛み合わない二人のやりとりを想像して、おかしくなった。 「あっ、やっぱりわらっとられる。 ええ年して、恋愛小説で喜んでって。 だから隠れて読んどったのに…。」 「いや、そうでなくて」 また見当違いのことで口をとがらせている女房をごまかすために、 あわてて右手で細い肩を引き寄せた。 「恋愛小説くらい、いくらでも読んだらええ。 わしはそういう本にでてくる男みたいに、気の効いたことはいえんしな。」 布美枝は茂の心臓のあたりに頬をあて、しばらくじっと固まっていたが、やがてぽつりとつぶやいた。 「言うてくださっとりますよ。」 「え?」 「あなたの手が、言うてくださっとります。」 「手?」 布美枝は小さくうなずき、 「口では何も言われんけど、この手に触れられるたびに、 あなたの気持ちが伝わってくるような気がするんです。 ちゃんと大事に思って下さっとるって、わかっとりますから…。」 恥ずかしくなったのか、だんだん声が小さくなる。 押しつけられた顔が熱い。 「そげか」 「はい」 自分の手がそんなお喋りだとは知らなかった。 ―しかし触れられるたびって、どんな場面のことをいっとるんだか。 この女房は、無意識に夫を煽っている事にも気付いていないのだろう。 お喋りな右手は、布美枝の背骨を辿っていく。 布美枝はびくりと跳ね上がり、顔を上げた。 「もお…ふざけんとって下さい。」 まっ赤な顔でこちらを見上げ、抗議してくる。 「いや、今もつたわっちょるかと思って」 笑いながら背を支える手に少し力をこめ、こつんと額を合わせた。 布美枝はもう何も言わず、じっとしている。 二人の吐息が混じりあう。 ―甘いな。 茂は甘い吐息の源にそっと唇をよせた。 「こんにちはー!皆様の浦木が参りましたよー! あれっ?なんだなんだ、二人してこんな狭い部屋でそーんなに離れて座って! 相変わらず淡泊な夫婦だなあ〜!」 「い、いらっしゃい、浦木さん。」 「ん?奥さん顔が赤いですよ? いけませんな〜、今は悪い風邪がはやっとりますからね〜。」 「…お前何しに来たんだ。二度と来るなと言っただろう。」 いつもの五割増しで茂から立ち上る怒気に、さすがの浦木も後ずさる。 「ええっと…そうそう!こないだの妻の心得!なかなか評判がよくてなー。第二弾を作ったん だ!」 「第二弾?」 「その名も夫の心得だ!」 じゃーんとばかりに本をだした浦木の腕を、無言で掴んでいつものように放り出す。 「ちょっとまてって! こんどは前回と趣向をかえて、口下手な夫に救いの手を! ロマンチックな愛情表現の手法だぞ!」 一度閉められた扉から突然茂が顔を出した。 「この本はもらっとく」 浦木の掲げた本がひょいと取り上げられ、またしても鍵の閉まる無情な音が響く。 「ってええー!本だけ?俺は? おかしいなー、俺としたことが最近負け続きだ…。 ま、ゲゲがあの本を気に入ったら漫画のページ使って宣伝させてやるからいいか…。」 その夜、閉めきられた仕事部屋では。 「浦木の頭は絶対膿んどるな…。 まず花を贈れ?次に片膝をついて、あ、愛してますと言えだとー! だらっ!できるかっ!」 夫の心得を開いてみるも、とても自分には出来そうにない事ばかりで、 茂は頭をかきむしるのであった。 その頃襖を隔てた隣では、布美枝の読書も全く進んでいなかった。 「…昼間あげに言われとったけど、 うちの旦那さまは、自分がどんだけ甘いことやっとるか気付いとらんのだわ…。 あー心臓がもたーん!」 いろいろ思い出し、真っ赤な顔を本に伏せじたばたと照れる布美枝の前で、 一反木綿まで恥ずかしそうに身をくねらせていた。 SS一覧に戻る メインページに戻る |