寝坊之介さん(非エロ)
村井茂×村井布美枝


「…もう…」

仕事部屋の戸口に仁王立ちした一反…、いや布美枝は口を尖らせていた。
ゆうべは何時まで起きていたのだろうか。
子守歌代わりにカリカリッとペン先の走る音が聞こえていた。
せめても戦士の休息を与えてやりたい、とは、思うのだが……
もうとっくに陽は天高く上がり、朝の洗濯物まで乾いた昼過ぎだ。

「このままではカラスが鳴くまで起きんわ…」

義母からも重々、茂は寝坊介だと聞いてはいた。
けれどそれは、安来の兄弟達が少年時代もそうだったから、
子供時代の昔話なのだろうと思っていた。が、
四十路近い大男が、酒で酔ったわけでもないのにこんな時間までぐーすかしているのは
如何にも体裁が悪い。

「うん。これではいけん」

ひとつ大きく頷いて気合いを込めると、大口開けて寝息を立てる茂の元にお膝した。

「あの…っ」

遠慮がちに肩を揺すったぐらいではびくともしない。
義母より手紙で直伝されたように声を張ろうとも思ったが、

「や…ご近所さんに聞こえたら…恥ずかしいわ…」と、うまくできない。

上掛けにした布団を一度巻くってはみたが、
大きな背を丸めて背を震わせるのが不憫で、またそっと掛け直してしまう。

「……はあ。うまくいかんことばかりだわ…」

新婚早々間借り人もいる奇妙な新生活。
慣れないことばかりの胸の内を話そうにも、旦那はいつも忙しくて……。

「……うぅん。きっと、私には…私のやり方がありますけん」

胸元に拳を握りしめて、内気さを掻き消すためもう一度気合いを入れた。

「起きて…、起きてごしない?」

いくら呼びかけても聞こえている様子もない。返ってくるのは盛大ないびきばかり。
聞こえていないのならば遠慮はいらないと、布美枝は布美枝なりに大胆に、
その耳元に唇を寄せた。

「ほーら…昨夜から何も食べてませんけん、お腹も鳴いちょる頃でしょう?」

頭よりも先に腹が反応して、茂はぐぅと腹を鳴らした。

「美味しい美味し〜いすいとんが冷めますよー? 香ばしい焼き魚も身が硬うなってしまいます」
「…うーん…」

食欲への呼びかけが成功したのか、茂は寝返り打って眉をしかめた。

「あは。ほら、ちゃーんと顔洗って、それで……、え?」

急に視界が横倒しになり、布美枝は素っ頓狂に声を裏返らせた。
長い右腕に絡め取られるように引き倒されて、気付けば茂の腕の中。
遅れて事態を飲み込んだ途端、布美枝の頬は朱に染まった。

「……あ…あの……」

不意にいびきが途切れ、胸高鳴らせた布美枝の鼓動が聞こえてしまわないか心配になる。
しかし……
抱き枕でも抱えたように安定すれば、すぐにまた大いびきが上がった。

「……はぁ。ひと筋縄ではいかん人だ…。ね、もうほんとに起き…」

身を起そうとしても茂の腕に抱き寄せられたまま、身動きがとれない。

「あの…っ、あっ…痛たたた……」

無理に身をよじってみても、しっかと抱き包まれた腕の力が枷となり、
振りほどけそうにはなかった。

「ほんに…力の強い人なんだな…。もう、いい加減に起きてっ、起きてー!」

布美枝の願いもどこ吹く風。閉じた目蓋は一向に開く気配がない。
起こすことも、その腕から逃れることもできず、
ただじっと並んで横になっているしかなかった。

「……。こんな間近でこん人の顔見たこと…なかったわ…」

大柄なのに丸顔で、こうして眠っている顔はどこかあどけなく映る。
だらしなく開いたままの口は無防備で、厚みのある唇を見上げた。
ちょっこし男前ではないか? と思うのは、女房の欲目だろうか。

「…何思うとるんだろ…私」

思わずくすくすと肩を揺らすと、ふと肩越しに視線を感じてた。

恐る恐る襖の戸口に目を向けると……

「! あ…っ」
「……あ…いや、そのぉ……お水を…。いや、いや…いいんです。スミマセン」
「な…中森さんっ。や、違うんですよ、あの…すんません…っ」

こんな恰好をしていたら誤解されてしまう。いや、すでに誤解はばく進中だ。
見られた布美枝も、見てしまった中森も真っ赤で、ただ茂だけが澄ました寝顔を晒している。
こんな時にばかりは、誤解を解く証拠のいびきが止んでしまった。

「あのっ…、お水でしたら…」

起き上がろうとしても茂の強固な腕から逃れることはできない。

「いえ、いえ! こ…これから出かける用事が…できました。
いや! 用事がありました、んで……夕方過ぎになりますので…では」

まるで「ごゆっくり」とでも気遣われたようで、布美枝は頭を抱えた。

パタパタと大慌てで玄関口を出ていく足音が遠のくまで、顔も上げられなかった。

「あちゃー……もぉっ」

こんな(布美枝にとっては)一大事だというのに、茂は今も夢の中。

「ほんっとに…こん人は大人物だわぁ…っ」

恨めしく睨み上げても効果はなく、布美枝は深く息をついた。

「……一体…どげな夢の中におるんだろ…?」

普段から穏やかで大らかな人なのに、精根込めた作品は重厚で不思議な物語ばかりだ。
まだまだ知らないことばかりだと思うと、こんなにそばにいるというのに、
二人の間はどれだけ遠いのだろうかと、不安になる。

「……ぇ…」
「?」

むにゃむにゃと歪めた唇の端から、聞きなれた名前が毀れ落ちる。

「…ふみえ……」

寝息に掠れた声。
布美枝がびくりっと肩を上げて硬直すると、茂の腕がその輪郭を確かめるように動いた。

「な、な…」

なんて声を出すのだろう。
優しく響く茂の声に胸がきゅっと軋んだ。
面と向かってそんな風に呼びかけられたこともまだなくて、
不意打ちの呼びかけに耳まで熱くなる。

「…ん……、んん…?」

恐る恐る見上げると、屈強に閉じていた目蓋が薄く開いていた。
腕の中の布美枝をその手で、その目で確認すると、茂の口元が穏やかに笑む。

「……もう…そんな恰好…しとってか…」
「は…はい?」

軽笑いまで浮かべて、茂はうわ言のように途切れ途切れに呟いていた。

「あんた…着替えるん……早……て…、また脱が……大変…だ……な」

「??? あの…起きて、ます? よね…?」

徐々に腕の力が弱まり、堅い枷からは解放されたが。
代わりにその腕が布美枝の身をなぞるように上下して、布美枝はどうしていいのか分からず、
不思議そうに茂の再び閉じた目蓋を見つめていた。

「……まだ…寝とぼけとるんだろうか…??」

感極まったかのように茂の深い吐息が漏れ、己の吐息に驚いたように、
その目蓋がゆっくりと開いた。

「……ん?」

口端の笑みが消え、茂はぱちくりと瞬きを繰り返す。

「ようやっと、お目覚めですか…?」

見開いた目は、さっきの寝ぼけた薄目とははっきりと違う。
目の前の布美枝、抱き寄せている自分の腕、そして煌々と陽の差す窓辺に視線を走らせて、
茂は言葉を失って「こ、こ、こ…」と言葉にならない驚きに喉を詰まらせた。

「おはようございます。朝ごは…いえ、もう、昼ごはんですね。冷めますよ?」
「お…おぉ、はい。すまんです」

慌てて腕を引っ込めると、起き上がりざまに横向いてしまった。

「私もお腹と背中がくっつきそうですよ。顔を洗ってきてごしない」
「あ…あぁ…はい。か、構わんと先に食べててくれていいですけん…」

ああ。もういつもの茂に戻ってしまった。
二人で過ごす日が浅いせいか、いつまでも「飯田家の娘さん」としか
思っていないのかと思うほど、よそよそしい口調。

「そうもいきません。旦那さんが寝とられるのに、先に食事なんて…」
「気遣うことはありません。夜も遅い稼業ですけん…」

夜、という言葉に何か夢の中でも思い出したのか。
茂は所在なさげに頭をぼりぼりと掻いてごまかした。

「? どげしました…か?」
「あっ、いや。心配には及びません。……おかしな時間に寝ついたせいか…
ミョーな夢を見た…」

ブツブツと独りごちたのを、布美枝は聞き逃さない。

「どけな夢、見とったんですか?」
「え……。そ、れは……」

茂はブルブルとかぶりを振って、そんなこと、女子供には言えんとばかりに口を閉じた。

「なんだか、いーい夢やったんですよね? そげな寝顔しとりました」

そんな楽しげな夢に、自分も出ていたのかと思えば気になって仕方ない。

「は、はあ……、それはそれは極楽…で…。いや! 夢は、夢ですけん」
「気になりますー」
「あまり、覚えてなぁです…よ。さ、早くごちそうにありつきましょう」

そそくさと洗面に向かう茂の背で、布美枝は首を傾げていた。



卓袱台に向かい合って遅い朝食をとる間も、茂は物問いたげな布美枝の視線をちらり見て、
目を戻してはまたちらり見て……
そんな奇妙な沈黙に耐え切れず、肩で息をついた。

「……寝ぼけて、おかしなことしちょったようで…すまんでした」
「は? あ…いえ…。それは…ええんです」

今度は布美枝が目を俯かせて、肩腕にまだ残る茂の腕の感触に頬を染めた。

「へ? えぇのですか?」
「はい? あ、いえ…そー…いうわけじゃなくて…」

怒らせてしまったのかと思えば、すぐに朗らかな笑顔を見せる。
ころころ変わる布美枝の百面相に、茂は口元を緩ませた。

「……いずれ、ちゃんと教えます…けん」
「はい?」

不意に贈り物の時計が時を告げて鳴り響く。もう三時になっていた。

「もうこんな時間か…。では、戦線復帰しますけん。そういうことで」
「あ…、あの……っ」
さっさと食事を済ませて仕事部屋に戻る背中は、すぐに襖の向こうに消えた。


布美枝はまだ半分も減っていない茶碗の中に目を落とし、ため息をもらす。

「…忙しい…人なんだな……」

寂しげに呟いた布美枝の声は、襖に閉ざされて掻き消えるほど心もとないものだった。






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