村井茂×村井布美枝
喧嘩、というわけではないけれど、 布美枝はその日一方的に茂と口を利かなかった。 その日の昼すぎ、茂が「金出してくれ」 と言って、さっさと財布ごと持って行ったかと思うと、 どっさり古本を抱えて戻ってきた。 戦記物の漫画を描くのに、もっとリアリティを追求すべく 資料用にと戦艦やら戦闘機やらの本を買ってきたのだという。 浦木から「少年戦記の会」の発足を促され、 その際に「お前の漫画は暗い」と言われたことに端を発していた。 それにしてもどうだ、 戻ってきた財布を開けてみればスッカラカン! その日暮らしでやっと食べているというのに、 日々の節約の努力をどうしてくれるのだ、と布美枝は憤った。 「夕食です」 「お風呂です」 それだけであとは無言を貫き通した。 風呂から出た茂と入れ替わって、急いで布美枝は風呂に閉じこもった。 仕事の資料なのだから、仕方がないという思いもあった。 それに…。 初めて聞いた戦地でのこと。 左腕を失い、多くの戦友を失ったこと。 どうしても格好のいい戦争漫画は描けないと言った茂の横顔…。 でも!! 日々の糧は何と言っても必要なのだ。 むやみやたらに、相談もなく使ってもらっては困る! 家計を預かったのは自分なのだから、そこはちゃんとしてもらわんと! 布美枝はキリっと顔を引き締めて、ゴシゴシと身体を洗いはじめた。 …が、やっぱり、と手が止まる。 「あげな都合のいい戦争があるか!」 と怒鳴った茂の顔は、苦悩と悲哀を複雑に絡めた表情だった。 その言葉に詰まった本物の叫びを、布美枝はその時ほんの少し心の耳で聞いた気がした。 風呂を出る頃には、すっかり今日の自分に嫌気がさしていて、 茂にどういう態度で接しようか、戸惑ってしまっていた。 茂は、布美枝が敷いた布団の上で腹ばいになって 今日買ってきた資料の本を眺めていた。 投げ出された足を左右に揺らしてどこかのんきな風だ。 布美枝が口を利かないのを特に気にする様子もなく 夕飯をたいらげ、悠々と風呂に浸かった。 そして今も、風呂から上がった女房を振り返ることもなく パラパラとページをめくっている。 その態度に布美枝は少しむっときたが、 すぐにやっぱり申し訳ない気持ちになってしまう。 自分の負けだ、と思った。小さなため息をつく。 もうすぐ4月になろうとしていた。 夜はまだ肌寒いが、昼間はずいぶん過ごしやすくなった。 ふたりの生活もだいぶ夫婦らしくなり、 二階の中森のこともさほど気兼ねすることもなくなった。 が、あれ以来夜の営みはとんと間が空いていた。 茂が仕事モードに突入すると、夜が不規則になる。 加えて、布美枝の月の周期が一度、その営みを邪魔したときがあった。 そのときは、布美枝は申し訳ないと謝ったが、茂は仕方ないと笑った。 そうするとずるずると何だかタイミングを逃し続けていて…。 しかし、今日は何だか言葉をかけづらい。 独りで勝手に怒っていたことを、布美枝は今さら後悔していた。 肩を落として櫛をとかす布美枝の背中から茂の声がした。 「やっぱり長門はええ。うん」 思わず布美枝は振り返ったが、茂は戦艦の本とにらめっこしている。 ああ、独り言か…。 それにしても、ずいぶんと熱心に見入っているものだ。 本当に資料として見ているのだろうか? 何だか、漫画に熱中する子どものようでもある。 布美枝は可笑しくなって、くすっと笑った。 茂が顔を上げる。 「どげした」 「え?いや、ふふっ、子どもみたいと思って」 「だら」 少し、緊張がとけた。 布美枝はほっとした。 また茂は顔を本に戻し、うんうんと戦艦の詳細を見ては頷いている。 布美枝は、茂の左腕を見た。 いや、正確に言うと左腕があったであろうあたりを、見た。 その視線に茂も気づく。 「ん?」 「あ…すんません。…ちょっと気になって」 「なにが」 「…あなたの、左腕は…今どこにあるんだろうと思って」 「ええ?さあ…切ったあとの腕のことは聞かんかったなあ」 衛生兵がどっかに片付けたんだろう、と茂は言った。 「今頃土に戻って、ラバウルの果物の肥料になっとるわ」 はははっと笑う茂だったが、布美枝は笑わなかった。 真面目な顔の布美枝を、茂は不思議そうに見た。 「あたしは…うちの家族は、戦中特に危ない目にも遭わんと過ごせました」 「うん」 「もしかしたら、あなたの左腕が守ってくれたからかも知れませんねぇ」 茂は遠くを見つめるような布美枝の表情に、 寝転んでいた身体を起こし、布団の上に座った。 布美枝はおばばの言葉を思い出していた。 『いずれ一緒になる人とは、ご縁の糸でちゃあーんとつながっとる』 「あなたの腕が、守ってくれたから、あたしはこうして居れるんだと思います」 「だんだん…」頭を下げた女房に、 茂は自身の左側がぐっと反応したような、くすぐったい感覚を覚えた。 いつものように、茂はぽりぽりと頭を掻き、少し鼻をすすると、 やがてそっと布美枝に近寄ってきて、その唇に軽く、口づけた。 布美枝は少し照れて、唇が離れたあとに俯いたが、 茂の寝巻きの左袖をきゅっと掴んで、もう一度、と無言で訴えた。 茂の右手が布美枝の頬を撫で、ゆっくりと口づけをくれた。 唇だけを触れて、お互いの柔らかなそれの感触を確かめたあと、 深い、甘い、濃い、口づけへ。 絡み合う舌が、少し淫らな音をたてて、二人の中心に火をともした。 布美枝は、まだかけたままだった茂の眼鏡をそっとはずした。 この男は、眼鏡をとるとあっという間に少年のような顔になる。 10歳も年上なのに、可愛いとすら思えてしまう。 しかしその顔をゆっくり愛でることもさせてもらえずに、 すぐにまた唇を奪われた。 茂の手が、布美枝と寝巻きを縛っている帯を解きはじめた。 布美枝は数日ぶりの胸の高鳴りに息を呑んだ。 しかし今日は前回より冷静に対応できた。 布美枝も茂の寝巻きの帯に手をかけると、ゆっくりほどいた。 適当に着こんでいたのか、簡単にはらりとはだけた。 現れた硬い骨と肉の肌にそっと触れると、胸の向こうの鼓動を感じることができた。 少し早い。 布美枝は嬉しくなった。 相手を求めて胸を熱くしているのは、自分だけではなかった。 今度は茂が布美枝の寝巻きを脱がせていった。 露わになった二つの山の山間に、その顔を埋めた。 柔らかな胸を優しく、強く揉みこむと、布美枝が小さく喘いだ。 一方で敏感な先端を舌で転がすと、また布美枝は熱い息を漏らすのだった。 布美枝が自分の胸の中で遊ぶ茂の額に唇を落とすと、 それに気づいた茂が頭を上げて、口づけを返してくれた。 ふふっと布美枝が微笑むと、茂もにこっとしてまた胸の中に戻る。 「あ…っ」 茂の愛撫が、布美枝の身体の中心をじん、と貫いて、血流を掻き乱す。 下半身に熱が移動して、じわっと泉があふれ出すのを感じた。 やっと布団に横たわった二人は、 じゃれあうように唇をついばんだり、 舌を絡めた深い口づけをしたり、 くすくすと笑いながらお互いの唇で遊んでいた。 すると。 ミシッ…トタトタトタ… 天井から音がした。 瞬間、はっとして二人は顔を見合わせた。 中森だ。 もう深夜だったが、中森も漫画家。 起きて仕事をしていても当たり前の職業である。 ずいぶんその存在が気にならなくなってきたとはいえ、 万が一この睦みごとの最中に降りてこられては困る。 布美枝はこれ以上の続きを望めないと思いがっかりして肩を落としたが、 茂は少しの間、視線を空に漂わせたあと、布美枝の下着に手をかけた。 「ちょっ…、だ、だめです!中森さんが起きとる!」 「気にするな、新婚の家でも構わんと言ったのは向こうだ」 「あたしは気にしますっ!」 「あずきはかりか何かだと思っとけ」 そんなことを言われても…。 布美枝は別の意味で胸がハラハラして苦しくなった。 が、そんなことはおかまいなしで茂は布美枝の熱くなった茂みの向こうを探りだした。 「やっ…あ…だめ」 「声を出すと聞こえるぞ」 「だ、だって…」 ずるい。 でも、布美枝もこの熱がこのまま冷めるのは嫌だった。 茂の指が、一本、二本、溢れる水の源泉へと出入りを繰り返す。 その度に布美枝はどうにも抑えられない嬌声を 手の甲を押し付けて何とか耐えしのいだ。 茂はもだえる布美枝を、まるで悦んでいるかのように見ていた。 (意地悪っ…!) ミシ、ミシ… 二階ではやはり中森がウロウロとしている気配。 下の情事に気づいたのだろうか。 しかし布美枝はそれを気にする理性を失いつつあった。 やがて茂は布美枝に覆いかぶさり、力の抜けた布美枝の脚を開かせた。 侵入してくる茂の熱いものに、布美枝は思わずのけぞった。 初めてのときは、指だけでも痛かったのに、 今日はどうだろう、布美枝は経験したことのない快感の中に居た。 さらに茂自身が布美枝の中を掻き乱し始めた。 思わず、 「ああっ!」 声をあげてしまう。 茂がすぐに唇をふさいでくれた。 押し寄せる快感の波。引いてはまた、押し寄せる。 源泉からどんどん水が湧き出てきて、尻を伝っていくのがわかった。 布美枝は脱ぎ捨ててあった茂の寝巻きを掴んで口にあて、 身をよじって必死に理性にしがみついた。 それなのに、茂は攻撃の手をゆるめてくれない。 打ち付ける腰に加えて、舌で布美枝の耳を舐めあげる。 「あっあっ…!」 我慢できない布美枝の喉から、喘ぐ声がもれ出す。 茂ももう、布美枝の声を押しとどめることはしなかった。 自分自身も限界が来ていた、というのもある。 布美枝の中の一番深い所に達したとき、茂はそこに全てを吐き出した。 またしてもぐちゃぐちゃになってしまった布団を避けて、 二人はひとつの布団にぎゅっと収まった。 しかし布美枝は茂に背を向けて寝ていた。 「明日どげな顔して挨拶すればええんですか…!」 「普通にしといたらええだろ」 「無茶言わんで!」 「声が大きかったのはあんただ」 「だって!」 「だって?」 「…」 ふふん、と茂が笑ったのが、後ろを向いていてもわかった。 布美枝は真っ赤になった顔を急いで覆った。 拗ねる女房を後ろからぎゅっと抱きしめ、 長い髪の香りを嗅ぎながら、茂は目を瞑った。 「もぅ…知らん…」 布美枝も、自分の腹のあたりにまわってきた茂の右腕を すこしつねって、それからぎゅっと両手で抱きしめた。 翌日、早速二人は「少年戦記の会」の会報作りに取り掛かった。 布美枝は浦木が持ってきた謄写版を準備し、茂は会報用の原稿を描いていた。 すると玄関の戸が開く音がして、ほどなく中森がにこにこと廊下を通りかかる。 おやっと二人はお互いの顔を見た。 「あ、おはようございます」 中森が何事もなかったように挨拶をしてきた。 「中森さん、あんた…朝早くから散歩にでも出とったんですか?」 「あ、いえ。昨日は大阪に居た頃の知り合いと会っておりまして、 その知り合いの家に泊まらせてもらっていました」 「ええっ?!」 つまり、今帰ってきたところ、というわけだ。 こわばった顔を見合わせる二人を、中森は不思議そうに見ていたが、 すぐにいそいそと二階へ消えていった。 「…でも、昨日…確かに…」 音はしていた、人の気配はあったはずだ、と布美枝は思った。 「うーん、やっぱりあずきはかりだったんかな」 「ええっ!」 茂はにんまりとしたが、布美枝はぞっとして恐る恐る天井を見上げた。 SS一覧に戻る メインページに戻る |