白昼夢(非エロ)
村井茂×村井布美枝


「…自転車には乗れますか?自転車です、ペダルをこぐ」
「ああ、乗れます、お店の配達で使ってますけん…」

茂は夢を見ていた。
窮屈な義手、両側にはイトツとイカル。
出された美味そうな御膳のその向こうには、一反木綿の女。
これは…見合い、の場面だろうか?


ミーーン、ミンミンミン…


五月蝿い蝉の声に茂はふっと目を覚まして頭を上げた。
その拍子にちゃぶ台に頭をぶつけた。「あいたっ」
真夏の昼さがり、茂は居間で汗びっしょりになって寝ていたようだった。
頭をぶつけたものだから、夢のことはもう忘れた。

やおら起き上がって、自らの汗にうへえ、と唸った。
洗面台に立って、顔を洗った。
こうも暑いと、水道をひねっても出てくる水さえ湯のようだ。
居間に戻って時計を見てみると、4時を少し過ぎた頃だった。

ああ…と、やっと今日のことをうっすら思い出し始めた。

朝、起きたのは仕事机の上だった。
珍しく先に目が覚めたのは茂のほうだった。
茂の左側に覆いかぶさるように、布美枝が机に突っ伏して寝ていた。
二人は昨日、夜を徹して「墓場鬼太郎」の原稿に向かっていた。
作業は夜更け、もう朝方と言ってもいい頃まで続いた。

「おい、起きろ」
「ん…」

妙な体勢で寝ていたものだから、布美枝は「イタタ…」と呟きながら目を覚ました。

「原稿を届けてくる」
「あっ、はい。あ、朝ごはんを」
「握り飯でもしてくれ、食いながら行く」
「わかりました」

仕度を始めた布美枝の後ろ姿を、茂は眩しい目で見つめた。

昨夜、締め切りを明日に控えて一心不乱に机に向かう茂に、
布美枝は何か手伝えることはないかと言ってきた。
初めは何を言うかと相手にしなかった茂だったが、
肩こりをやわらげるために、布美枝が生姜をすりおろしたタオルを巻いてくれた。
何か役に立ちたい、そう言いながら夜中にもかかわらず
一心に生姜をすりおろす布美枝の後ろ姿に、茂の心中は波立った。
茂は布美枝に、ベタ塗りと点描を任せた。
もとより器用な布美枝は、さっさとコツを掴んで見事にこなした。
集中して原稿に向かう布美枝の横顔を、茂は頼もしく見つめた。

布美枝に渡された握り飯を、歩きながら食べたのは覚えている。
汗をかきかき、富田書房まで出向いたが、
原稿料はその場でもらえなかった。
本の出来上がりが二週間後くらいなので、そのときに渡すということになった。
しかし暑さと徹夜によっぽどやられたのか、
茂には富田書房から家までの道中の記憶が全く抜け落ちていた。
よくたどり着いたものだと思った。

「おかえりなさい」

と、笑顔の布美枝が迎えてくれたような残像だけが残っている。
そのまま茂はばたん、と倒れて深い眠りに落ちた。

そして、つい先ほど蝉の声に起こされたのである。

ちゃぶ台の上にはふかし芋が置いてあった。
昼飯も食べずに眠っていたから、ちょうど良かった。
芋をほおばりながら、そういえば…と茂は思った。
先ほどから布美枝の姿が見えない。
外で洗濯物でも取り込んでいるのかと、窓をあけてみたが居ない。
風呂場にも便所にも居ないようだった。
ちらっと棚に目をやると、買い物籠がない。
ということは「買い物か…」

部屋にぽつんと独り、蝉の声だけを聞いて座っていると、
何だか妙に尻の居心地が悪くなった。
部屋に布美枝が居ないことに、なんだか強烈な違和感を覚える。
いつも襖を開ければそこに布美枝が縫い物や料理をしている姿があった。
自分の顔を見ると、にっこり笑って「お茶淹れましょうか」と言う。

茂はやけにこみ上げてくる妙な「感じ」を覚えて、
それを打ち消すかのように芋をくわえたまま仕事部屋へ戻り、
本棚から自分の著書を何冊か引っ張り出し、読み始めた。
そしてふっとアイデアを思いつくと、スケッチブックになぐり描きをする。
茂は長い間、そんな日々を普通に過ごしていた。
漫画のことだけで頭がいっぱいで、
次々に浮かんでくるアイデアを、取りこぼさないようにスケッチブックに描きとめる。
そんな日々が、そんな日々だけが当たり前だったのだ。
布美枝がこの家に来るまでは…。

居間の置時計が、5時を報せた。

5時?買い物に行っただけにしてはずいぶんかかっているな。
茂はそわそわしはじめた。

すると二階から中森がやかんを持って降りてきた。

「あ、村井さん、申し訳ありませんが水をいただけますか」
「ああ、どうぞ」

茂はそう返事だけすると、いったん玄関から外を覗いた。
そこまで布美枝が帰ってきているかも、と思ったからだ。
しかし、玄関先に布美枝の姿はなかった。
その代わり、布美枝の自転車が置いてあった。

…おかしいぞ。
布美枝が買い物に行くときはいつも、自分のプレゼントした自転車で行っていた。
どうして今日に限って自転車が家にある?

玄関の戸を閉めると、茂は二階に戻ろうとする中森に声をかけた。

「中森さん、うちの…どこかに行くと言うとったですか」
「奥さんですか?いや、朝は私も出かけましたが、出掛けには会いませんでした。
 昼過ぎに戻ったときには、村井さんが横になっていたのは見ましたが、奥さんは見ませんでした」

ぺこりと頭を下げて中森は二階へ戻っていった。

同居人の中森が、今日一日布美枝を見ていない。
そういえば茂もろくに布美枝を見ていないのではないか。
朝、握り飯を渡された、昼、おかえりなさいと出迎えてくれた。
あれは、確かだったか?

茂は言い知れぬ感情を抱えたまま、また仕事部屋に戻った。
ゲーテを手に取ったり、スケッチブックを見直したり、
雑記帳に、思い浮かんだ漫画のストーリーを書いてみたり…。
汗が、奇妙な汗が流れてきた。
夏の暑さのせいではない、背中にヒヤリと流れる汗だ。

そんなことをしているうちに、居間の時計が6時を報せた。

その瞬間、茂は下駄をつっかけて勢いよく玄関を飛び出した。

帰ってこない女房。
いや、そもそもそんな女があの家に居たのだろうか?
自分はずっと独りだったではないか。
見合いからたった5日で結婚して、などと。本当に自分の身に起こっていたのだろうか?
夏の暑さにやられたのではないか。
夏の昼間にみせられた、白昼夢に過ぎないのではないか?

色白の、ひょろっと背の高い一反木綿のような女。
大人しくて、朗らかなあの笑顔の女。
結婚式の夜に、膝をかかえて白い息で外を眺めていたあの後姿。
東京に出てきたときに、鼻歌を歌っていたあの横顔。
自転車を買ってきたときに、大粒の涙を零して微笑んだ顔。
初めての夜に、恥ずかしそうに俯いて口づけを受けてくれた顔。
自分の下に組み敷かれて、快感に悶える官能的な表情。

あれは全部、夢、だったのではないか?

茂は走り出した。
思考を停止させたかった。
それ以上考えると、もう…。

すると。

商店街へと向かう田んぼ道の向こうから
夢の中の女がこちらに向かって歩いてきているのが見えた。
茂は思わず足を止める。

夢の女は茂を認めると、ぱっと笑顔になって手を振りながら走ってきた。
あがった息を整えて、布美枝はにっこりと茂を見上げた。

「遅くなりました。ちょっと色々あって。お腹すいたでしょう?」
「…か、買い物に行っとったんか?」
「はい、実はこみち書房に寄ったら、そこに居た学生さんが急に倒れて!
 救急車まで呼んだんですよ!美智子さんがつきそいで行かれたんですが、
 おばあちゃんのリウマチの調子も良くなくて、私が店番しとったんです。
 さっき美智子さんが戻られたんで、私もやっと帰れたんですけど。
 あ、学生さんは大丈夫らしくてすぐに…んっ!」
 
ざわっと、夏の夕方の風がそよいだ。

茂は布美枝の背中に右手をまわして、布美枝の話も最後まで聞かずに、
唇をふさいだ。

しばらくして離れると、布美枝は信じられないというような顔で固まっていた。
茂は思い切り、布美枝を抱きしめた。

「…っ、ちょっ。あ、あのっ!人が…通ったら見られます!」

じたばたする布美枝にはおかまいなしに、茂はただ黙って布美枝を抱きしめた。

「自転車…」
「え?」
「自転車では行かんかったのか」
「ああ、あとで見てください、タイヤ、パンクしとるようで」
「ははっ、そうか、そうか…」
「あの…は、離して…」

やっと茂は布美枝を開放した。
布美枝は真っ赤になって胸を押さえた。

「ど、どげしたんですか、急に…こんな…」
「うん、…まあ、あれだ。帰ろう」

そう言って、茂は布美枝が思わず落とした買い物籠を拾って、
すたすたと先に歩き始めた。

自分の後ろをついてくる布美枝を、時折振り返りながら、
夢じゃない、茂は布美枝の存在を強くかみしめた。






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