村井茂×村井布美枝
![]() 「今日、お前の誕生日だろう。」 夕餉の途中で切り出すと、布美枝は目を丸くした。 「めずらしいですねえ。そげなこと覚えとられるなんて。」 「う…いや…実は忘れとったんだが、今日こみち書房の前を通りかかってな…。」 「ああ、さては美智子さんと偶然会って、そげな話になったんですね。」 変だと思いました、と布美枝はクスリと笑っている。 …あれはおそらく、偶然ではない。 すずらん商店街の情報網を使い、茂が通るのを知っていて、 待ち伏せしていたのだろう。 美智子の目は決意に満ちていた。 「先生、今日、何の日かご存じ?」 「は?」 「…もしかして、忘れていらっしゃるの?」 「…申し訳ない、さっぱり話が見えんのですが。」 本気で聞き返すと、 「もう!布美枝ちゃんのお誕生日ですよ!」 「!ああ〜あ〜、そういや、そげでしたなあ。」 ようやく話を掴めてほっとする暇もなく、畳みかけられた。 「先生。いつも忘れていらっしゃるんでしょう。 今年は、ちゃんとお祝い、してあげて下さいね。」 「はあ、そげなもんですか。」 「あたりまえですよ。東京じゃあ、布美枝ちゃんの家族は先生だけなんですからね。」 「ほほう、なるほど…」 のらくらとした茂の態度に業を煮やしたのか、 美智子の後ろから、突然、姑・キヨの爆撃がとんできた。 「先生!なーに他人事みたいに言ってんですか! 誕生日くらいね、女房孝行したってバチあたりませんよ!」 「…あれはなかなかの迫力だった…。」 思い出して首を振る茂を、布美枝が不思議そうにみている。 「それで、誕生日がどげされましたか?」 「おう、それでな、今日はなんでもひとつ、お前の頼みをきいてやる。 何がええかゆうてみろ。」 「ええっ、そげなこと、ええですよ。」 茂の提案に、布美枝は遠慮しながらもほんの少しうれしそうである。 ーふむ、なるほど、たまには女房孝行も悪くない。 「いやいや、まあ、金の無い人間の贈り物としては使い古された手ではあるが、 そう捨てたもんではないぞ? なにしろ心が込もっとるからな。 これでも一人で何でもやってきたんだ。 なんでも言うてみろ。肩もみでも皿洗いでもうまいもんだぞ。」 布美枝は困ったようにしばらく考えていたが、 「…ほんなら、あのう、背中を流させてもらっても…ええでしょうか。」 と言い出した。 「背中?俺のか。」 「はい。」 「しかしそれじゃあ、お前の祝いにならんだろう。」 それでも布美枝は、 「ええんです、いっぺん流してみたかったんです。 …やっぱりだめでしょうか?」 と真面目な顔をしている。 「お前も変な奴だなあ。」 茂は苦笑し、 「よしわかった。じゃあまあとりあえず、今日は俺が風呂の支度をしてやるか。」 布美枝は、お願いします、と笑顔を見せた。 ーここは地獄か極楽か。 先程から茂は風呂椅子の上、腰に手ぬぐい一枚、 というなんとも頼りない恰好で、背中を布美枝に預けている。 「どげですか?」 「ああ、なかなかうまいもんだ。」 「そげですか?よかった。 実家では兄弟が多いですけん、子供のころから毎日流しっこしとったんですよ。」 茂の背中をこすりながら、布美枝は楽しそうに思い出話をしているが、 実はあまり頭に入ってきていない。 こもる湯気の中、眼鏡もなく、視界は仙界の如く霞んでいる。 やわらかい掌は背中をやさしくなでていく。 布美枝が前へ踏み出すたびに、目に入る素足はやたらに白く。 自制心を総動員してはいるが、湯をすくう細い手首を掴まないようにするには、 かなりの忍耐を必要とした。 ーやはり地獄だな。 これは女房孝行なのだから、自分の思うようにしていいはずがない。 ここは我慢だ、と茂は限りなく極楽に近い地獄でさらに忍耐を学んだ。 しかし何事にも限界がある。 もしやこいつは仙女に化けた妖怪ではないか… と、幻覚にもにた妄想が頭をよぎり始めた時、 「はい、終わりました。」 「そ、そげか。もうお前は出てろ。暑いだろう。」 一刻も早く追い払おうとしたが、布美枝はなかなかでていかない。 「どげした」 「今日は、…だんだん。」 「…いや、むしろこっちが礼をいうとこだろう。 すまんかったな。なんもしてやれんで。」 布美枝はじっと背中を見つめているようだ。 「…あなたが、精魂こめて、寝る間も惜しんで漫画書いとられる時、 私はいっつもこの背中を見とるんです。 この背中を見ながら、心配したり、力になりたいと思ったり、 …色んな気持ちでおりますけん…。 …ずっと、いっぺんでいいから、あなたの背中をきれいに流して、 お疲れ様、って言いたかったんです。 だから今日は、あなたにも、あなたの背中にも、だんだん、です。」 「…」 忍耐の二文字は、あっさりどこかへ飛んでいった。 茂が細い手首を掴んで引き寄せると、 布美枝はあっけなく茂の膝の上に座る形で転がり込んできた。 「あ、あなた!」 「今度は俺が洗ってやる。」 「ぬ、濡れますけん。」 「風呂は濡れるところだ。」 「服が濡れるんです!」 「しらん。風呂で服着とる方が悪い。」 ぼんやり霞んだ視界の中、布美枝の真っ赤な顔には、 汗だか湯気だかで一筋の毛が張り付いている。 右手で背を支えながら、唇でそっと髪を払ってやり、 ついでに上唇をやわらかく食むと、布美枝の肩が小さく震えた。 鎖骨のくぼみに玉のようにたまった汗を、そうっと吸い取る。 そのまま鎖骨にそって舌でなぞると、布美枝の手がぎゅっ、と茂の肩につかまってきた。 右手が自由になったところで、胸元のボタンをはずしていく。 と、突然布美枝の手から力が抜けた。 きゅう。 「ん?きゅう?お、おい!」 あわてて右手で支えたが、布美枝は真っ赤な顔で目を回し、 ずるずると風呂場の床にへたりこんだ。 「大丈夫か。」 「はい…。」 布美枝は布団のうえで恥ずかしそうに身を縮めている。 無事に目を覚ました女房に安心して、つい説教じみた口調になった。 「俺も悪かったが、お前も風呂場であんな厚着しとるからのぼせるんだ。 次からはちゃんと気を付けろ。」 「はい。 …え?次…って。」 はたと目が合う。 「〜っ、とにかく気を付けたらええんだ!」 「は、はい!」 全く、今日は何かとしまらない日であった。 …ああそうだ。しかし、これだけは言わなければ。 「おい」 「はい」 「…誕生日、おめでとう、だな。」 とんだ女房孝行になってしまったが。 「……だんだん。」 上掛けからは目から上しか出ていないが、本当にうれしそうに微笑んでいるのがわかる。 ーこんな簡単なことでこんなに喜ぶのだから、安上がりな奴だ。 「それにしてもさっきはびっくりするくらい真っ赤っ赤だったぞ。」 「えっ、そ、そげですか。」 「ああ、まるでゆでダコだったな。」 「!…もう!」 「ほれ、そうやって口をとがらすとますますそっくりだ。」 「しりません!」 仙女に見えたなどと、教えてやる気はない。 まだすこし赤い顔を、その辺の紙で扇いでやる。 「もう、そのまま朝までゆっくり寝とけ。ええな。」 「はい…。」 ーそれにしても今日は…最後まで生殺しだな…。 ほんの少し肩を落としている茂の横で、 布美枝の心を映したかのように、 一反木綿が幸せそうにすそをはためかせていた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |