一ヶ月(非エロ)
村井茂×村井布美枝


布美枝が村井姓になってそろそろ一ヶ月が過ぎようとしていた。
出会って5日目で結婚というスピード婚。漫画家という人種の生活スタイルに面食らう事
ばかりで、心細さを打ち明けられる親しい相手もなく、これから何十年と続くであろう
結婚生活に不安が膨らんでいた当初。

 しかし、上京して数日後、茂とサイクリングへ出掛けたのをきっかけに少しずつ
茂と距離が縮まっていくのを感じた。彼は破天荒な所があるものの、普段は大らかで
優しくて、時折見せる茶目っ気がまるで少年のようだ。そんな茂と暮らしていくうちに、
布美枝はどんどん茂にひかれているのを自覚した。つまり、布美枝は今、夫に恋を
していた。
 その布美枝がある日の昼前、洗濯物を干していると茂が玄関から出てきた。

「おい。仕事が一息ついたけん深大寺までサイクリングに行かんか。桜が咲いとる頃だぞ」
「わあ、ええですね。あ…でも」布美枝は笑顔になった後、すぐ思案顔になった。
「そろそろお昼ご飯の支度するところでしたけど、どげしましょう?お昼食べてから
行きましょうか?おなか空いとりますか」

茂は少し考えて答えた。

「ほんなら握り飯でも作ってくれ。あっちで桜見ながら食べたらええ」

楽しそうな企画に、布美枝はいそいそしながら「じゃあ、急いで作りますね」と台所へ向かった。

 ささやかながらピクニックへ出掛けると、深大寺では丁度桜がほころんでいた。わあ、と布美枝が歓声を上げる。

「五分…、七分咲きぐらいですね。綺麗。ええ時に来ましたねえ」
「そげだろ」茂はまるで自分が咲かせたかのように得意気に返した。

 桜を見上げている布美枝を横目で見ながら、茂は内心安堵していた。
漫画の仕事は忙しく日々闘いだ。しょっちゅう〆切が襲ってくるので気が抜けず、
朝から晩まで漫画を描き続け、食事時以外布美枝とろくに顔も合わせない日も度々ある。
新妻を放ったらかしにしているのは承知なものの、相手が文句を言わないのを助けとばかりに、目の前の飯のタネを優先せざるを得ない状況に少なからず後ろめたさを感じていた。
 今日花見に誘ったのは、自分が行きたかったからという他に日々の埋め合わせの意味も
あったのだが、こちらの思惑以上に布美枝は喜んでくれている。
朗らかな女なのだ。見合いの時の印象に間違いがなかった事を茂は再確認した。

 座れそうな大きさの石に2人座り、布美枝がてきぱきとお握りの包みを広げ、水筒から
お茶を注いだ。春の植物の香りが混じり合う風を感じながら2人で昼食を食べた。

布美枝は満ち足りた気持ちを味わっていた。

「空の下で食べるお握りって、なして普通に食べるよりも美味しいんでしょうねえ」
「そげだなあ」ほおばりながら茂が答えた。その口元に米粒が付いている。

くすりと布美枝が笑った。「お弁当ついとりますよ」

いつもなら、布美枝にしては少々、ましてや屋外でとるには大胆な行動だった。
だがこの時は暖かな陽気のせいで気が大きくなっていた。布美枝は躊躇せずに茂の口元に
手を伸ばした。

「ほら」すくい取った人指し指を見せるような仕草をした。
と、茂が右手でお握りを持ったまま、器用に中指で布美枝の人指し指を引き寄せ、
何のてらいもなくその指を食べた。いや正確には、その指に付いていた米粒を食べた。

「あっ」
「ん?」思わずお互いの顔を見合わせた。赤くなった布美枝を見て、茂も視線を泳がせる。

(そりゃ、食べんともったいないけど)
(そんな驚くような事、したか?)

唇の感触がまだ指に残っていて、なんだかとてもどきどきする。
そんな布美枝の感情が伝染したのか、茂まで落ちつかなそうに意味もなく手で膝をさすった。

帰り道、「またたまにはここに来ましょうね」と恥ずかしそうに上目遣いになりながら
布美枝が言う。結婚して一ヶ月、既に体を重ねているのに、まだまだ娘のように恥じらう新妻だった。

もう少し、触ったくらいで緊張しないでほしい。そう思いつつ、なんともこそばゆい気持ちになりながら、
「ああ」と返す茂だった。






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