村井茂×村井布美枝
その日、茂が散歩から帰ってくると布美枝の姉の暁子が家に居た。 年始にやってしまったぎっくり腰も良くなり、今日は自分の息子達の 赤ん坊の頃の産着やらおむつやらのお下がりを持ってきてくれたという。 「男の子用だけど、これなんて黄色だから使えるでしょう?すーぐ大きくなって 着れんようになるからこれもまだまだ新しいし」 などと色々説明している。茂は軽く挨拶してすぐ仕事部屋に引っ込んだ。 暁子も、だいぶこの風変わりな義弟に慣れてきたため特に失礼とも思わなく なってきている。そのうち女同士の話に花が咲いた。 話題は弟の貴司の事だった。もう三十路間近なのに未だ身を固めていない 彼を、安来の家族も心配しているという。 「うかうかしとったらじき30だけんねえ、早いことまとまるとええんだけど」 「うん…貴司も、ええご縁があるとええね」 布美枝はつい自分の身と重ねていた。たとえ遅い結婚でも、縁あるひとと、 毎日笑っていられるような結婚をしてほしい。 妹の心中を察し、暁子は微笑ましく思った。 「フミちゃんもええ人に巡り会えたもんね」 布美枝は目を見開いた。 「な、何言うとるのアキ姉ちゃん」 暁子はちょっとからかう口調になる。 「あんたが昔、背が高いいうてお見合い 断られた時にはそりゃ心配したもんだけど」 「もう!そげな昔の話、今頃言わんとって!」 『にしきや』の若旦那から見合いを断られたのも、今となっては懐かしい話だ。 姉妹は笑いあった。 大声で喋っていた訳ではない。だが、襖を一枚隔てて向こう側、 茂の耳に単語が飛び込んできた。見合い?断られた? もちろん相手は自分ではない。そんな話は初耳だ。 見合いを断られた過去など、仲人側や飯田家がわざわざ伝えるはずもないので当然だった。 「藍子もう寝付きましたけん、お仕事手伝いましょうか?」 洗濯物を畳みながら、襖の向こうで布美枝が尋ねた。 「いや、今日はまだ下書きだけん大丈夫だ」 そう茂は答え、それから布美枝に早く寝るよう促した。 「すんません、ほんならこれ終わったら先に休ませてもらいますね」 てきぱきと洗濯物を畳む布美枝を見ながら、ふと茂は日中の話を思い出した。 それとなく詳細を聞き出してみる。 もうずっと昔の話なんですけど、と前置きして布美枝は話し始めた。 「それ以来、背が高い事を余計気にするようになって、ずっと実家におって 肩身が狭い思いもしましたけど…あの縁談がなくなったから、今こうして お父ちゃんと一緒になれて、藍子も授かる事ができて…結局は、これで 良かったんですね」 そう話を結んで、布美枝は照れたように微笑んだ。 本心だった。運命の人とはちゃんと出会えるのだと、祖母の言葉は、 慰めではなく真実だったと、心から言える自分が嬉しかった。 布美枝が二階にあがっていった後、茂は鉛筆を持ちながら、珍しくあまり 集中していなかった。頭の中はさっきの話で占められていた。 布美枝と最初に出会ったのは見合いの時。二度目に会った時には既に 彼女は花嫁になっていた。そのせいか茂は、布美枝は自分の女房と なる為に現れた女のような気がしていた。飯田布美枝、十歳年下で、安来出身。 それだけ把握していれば十分だと思っていたのだ。 しかし当然ながら、布美枝にも今まで生きてきた過去があり、また、 茂以外の男と連れ添う未来が在り得た。そして、どんな人生であろうとも、あの 大人しい割に意外と度胸のある女房はすべて受け入れて生きていくの だろう。そう思いを馳せて、茂はふいに胸の内側を撫でられた様に 心がざわついた。 布美枝と結婚した事も、藍子が藍子として生まれた事も、思っていた程 必然ではない。まさしく人の縁とは、妖怪よりも不可思議なものだーーー、 そんな風に思った。 二階では布美枝がもう横になっていたが、まだ寝てはいなかったようで、 茂が畳を踏む音をぎしりとさせると、布団から身を起こした。 「お仕事もう終わったんですか?」 「今日はもうええんだ」 曖昧に言うと、茂は布美枝を抱きすくめた。 「お、お父ちゃん?」 右腕の中で布美枝が身を固くする。 「しばらくお母ちゃんと仲良くしとらんだったせいで、つまらん事を考えた」 「つまらんこと?」 「ああ。考えてもしょうもないのにぐだぐだ考えるのは、まったくつまらん」 「?……何の話です?」 説明する気はなかった。話が掴めない女房を 置いてきぼりにして、茂は布美枝の浴衣の中をまさぐった。 仲良うする、の意味をやっと察し、布美枝は赤くなる。そういえば、 藍子がお腹に出来たのがわかってから、随分ご無沙汰だった。 もはや話を聞けるような状況ではない、と観念する。 「もう……。お父ちゃんは何も教えてくれんのですね」 苦笑しながらも、 受け入れる態勢になる布美枝にほっとした。 とにかく今はこいつは俺の女房で、こうやって、いつも受け入れて くれる。それでいい。先程の不安が霧散していくのを感じた。 そして、茂は布美枝に覆いかぶさった。 二人が体を離した後。 茂は布美枝の横で寝息をたてていた。夫を起こさないように布美枝は 慎重に動いて布団をかけてやる。暦の上では春、などと言っても まだまだ夜は寒かった。 久しぶりに受けた夫の愛撫は、記憶にあるよりも熱っぽかった。 あるいは自分も、久しぶりだったから嬉しかったのかもしれないと 布美枝は一人で照れて、茂の寝顔を見つめる。 そういえば、さっきうやむやにされた話はなんだったのだろう? 結局聞けずじまいになってしまった。そっとその寝顔につぶやく。 「あなたの考えてる事はいつもようわかりませんけど…私はずっと 付いていきますけん」 藍子のミルクの時間まではまだ間がある。布美枝もようやっと 横になった。願わくば、親子三人、同じ夢を見れますように。 そんな事を思いながら、目を閉じた。 SS一覧に戻る メインページに戻る |