黎明(非エロ)
村井茂×村井布美枝


ゆるりと覚醒する感覚が最初に捉えたのは、水の音だった。
薄暗く煙る窓の向こうに、さらさらと規則的な雨足の響き。
今日は洗濯物を干せないなと、ぼんやり考えた。


ふるりと肩を竦めて、頭を擡げる。
ひたりと触れる肌の感触に、隣で横たわる男を見た。
馴染んだ輪郭の影と温もりに、我知らず綻ぶ。

「…あ。いけん」

放り出された長い腕を、慌てて仕舞い、掛け布団を引き寄せた。

文字通り、彼の生業を担う、大事な右腕だ。
痺れさせたりしてはいけないと、こっそり腕枕も外している。
本当は、彼の腕に身を預けるのは、至福のひとときなのだけれど。
むにむにと何やら呟く夫の寝言に耳をすませ、再び傍らに潜り込んだ。
汗が乾いた、肌の匂い。

狂おしく縋りついた記憶の生々しさに、一人赤面する。
この人がずるいのだ。
普段は鷹揚で淡泊なのに、共寝の時は、濃厚に掻き抱き、あんな声で名を呼んで。
幾度も熱く焼かれた心と躰は、自分の知らない生き物に蘇生する。
叶うわけがない。
日々、気持ちは累積し、これ以上は無いくらい、想いは充満しているのに。

今日もまた、昨日よりも。

(…あなたを)

好きになっている。

子供のような寝顔を見上げた。
意外と整った鼻梁の、眼鏡の痕に、指先で触れる。

ほのかな夜明けの雨音に、ふと、婚礼の晩を思い出した。
初めて交わした夫婦の会話は、狐の嫁入り。
慌ただしい上京と、出逢ったばかりの相手と暮らす不安に、押し潰されそうだった
頃。
今は、この腕の中こそが、どこよりも安堵できる空間だ。
不思議な包容力。
柔らかな笑顔。
少年みたいな無邪気さ。
仕事に打ち込む気迫。
惹かれた背中。

『見てるだけ』

帰郷した彼女の言う通りだ。
夫の仲間達も、次々と筆を折った。
漫画家の世界は厳しい。
創作の悩みや苦しみを、自分は理解も共有もできない。
苦闘する夫の姿を、ただ見つめるだけだ。

「…し、げぇ…さ」

見ていることしかできないなら、せめて、見続けてさせてほしい。
お願いだから。
その背が見えなくなってしまう程、遠くへは。

(――いかんでごしない)

そばに、いさせて。
それしかできないけれど。
どうか、近くに。
ずっと、置いていて。


花冷えの雨は、寺の桜を残してくれるだろうか。
仕事が一段落したら、親子三人で花見に行こうと約束していた。
彼が昨夜、胸元に散らした花びらを、そっとなぞってみる。
ちくりと、小さな痛みが走った。


夫の寝息を聴きながら、布美枝は目を閉じる。
あと少し、もう少し、このまま。
春の曙まで。






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