素描
村井茂×村井布美枝


スケッチブックに向かう夫の姿があった。
普段は横顔しか見られず、珍しい正面での姿勢に、“やっぱり男前だなぁ”と密かに惚気る。

「…、ら」

布美枝は瞬き、じっと彼に見入り、やっと自身の状態に気付いた。

「ッあ」
「起きるな」

穏やかに、だが鋭く制止され、ぴたりと固まる。
でも、これでは。

「あ、な…た」

煌々と蛍光灯に素肌を晒したまま、身動ぎもできずに夫を窺う。

「何、しとるん…ですか」
「おまえを描いちょる」

暫し意識を失っていた妻の寝姿を前に、茂は淡々と鉛筆を走らせていた。
無防備な裸体を明かりの下に露出していた時間に、布美枝は頬を熱くする。

「そげな…」
「もう十分もかからん。じっとしちょれ」

爪の先から髪の毛一本に至るまで、躰の隅も奥も全て暴かれている相手とはいえ、改めて注視されると消え入りそうになる。
恥ずかしくて堪らず、けれど動いたら叱られそうで、布美枝は肌を粟立たせた。
敷布の皺に頬を寄せ、目線の遣り場に困り、瞼を閉じる。
逐情の果てに投げ出されたままの両足が気になり、こっそり股を閉じかけては「姿勢を変えるな」と注意される。
乱れた寝床に横たわり、緊張を解こうと深呼吸するたびに、剥き出しの乳房が上下した。

ふっと、空気が揺れる。
彼のまなざしに、嘗められる。
架空の愛撫に、思わず溜め息が零れた。
視界が塞いでいる分、相手の視線が余すところなく肌を這い回るのを感じる。

「…ッ」

唇を震わせ、首をのけ反らせ、布美枝は恍惚となった。
見えずともわかる。
あの黒目がちの、夫の双眸は今、布美枝の全身を愛してくれている。
先刻、胎内に放たれた残滓が、熱い記憶を呼び覚ます。

「――、は…ぁ」

小さく呻き、うっとりと目を開けた。

真横で紙面を滑る鉛筆の、掠れた音さえ堪らない。
躰の芯がじくじくと疼く。
下腹に乗せた片手が、独りでにぴくりと動いた。
無表情だった夫の瞳が、すっと細められる。
互いに淀んだ、濃厚な沈黙。
布美枝の指が、秘部の淡い繁みにそろりと絡み、潤んだ花芯に届いても、今度は何も言われなかった。
この男だけに許した、女の秘境に自ら触れ、確かめる。
彼を受け入れた証が奥から溢れ、とろりと爪を濡らす。
そっと挿し入れた指を不器用に蠢かし、布美枝は吐息でもって鳴いた。

…違う。

夫の愛撫は、こんなに生温くない。
もっと丁寧で、執拗で、容赦がない。
懸命に耐えても、いつも最後には懇願させられる。
つい先程も、彼の肩にしがみつきながら、幾度も請うたのだ。
律動の激しさに引き摺られ、しどけなく腰を揺らしつつ、名を呼ぶ狭間に必死にねだった。
早く連れて行ってほしい。
まだ終わってほしくない。
甘美で切実な嘆願。
自分の欲しいものがわからずに乱れる時も、彼は布美枝を手放さず、ちゃんと与えては、手に入れてくれる。

――きっと、今も。

絵描きの本能と、雄の熱情が混在した目で凝視する、端正な顔を見つめる。
秒数程度しか過ぎなかったろう。
傍らに静かに置かれた画帳を横目に、布美枝は、適当に巻かれた夫の浴衣に腕を伸ばした。
衿合わせをツツっとなぞり、そろそろと引き下ろす。
妻の鎖骨に絡む黒髪を、節張った茂の手がそっと除けた。
彼の眼鏡の縁に指を掛け、ゆっくりと引き抜く。
布美枝の汗ばんだうなじが、大きく温かな掌で支えられ。
ねっとりと、呼気と唾液を吸われた。

「ふ、ッ――」

逞しい二の腕に包まれ、逸る下肢を押し付けられ、波打つ敷布の上に再び組み敷かれる。
唇を漁られながら、夫の頬を撫で、髪をまさぐり、脚をうねらせた。

(あたしだけ、の)

とびきり好(い)い人。

やがて激流に飲まれ、甘やかな絶叫が喉を迸る瞬間を、粛々と待ち望んだ。

何度目かの交歓を終え、毛布を腰に巻き付けて起き上がった布美枝は、出来た鉛筆画を見せてもらった。
漠然と想像したイラストとも、子供の頃に描いたという絵とも違う。
写実的かつ立体的に寝そべる、しなやかな裸女がそこにいる。

「こげな絵も、あなた、描くんですね」
「一反木綿に胸やら尻やら描き足すとでも思ったか」

満足そうに仰臥する茂に、わざと呆れてみせた。

「うっかり居眠りしとる間(ま)に、油断も隙もありません」
「だら。裸婦画は立派な芸術だぞ。ルノワールもマネもセザンヌも描いちょるわ」
「ゴヤ、ゴーギャン、ムンク、モディリアーニ…」と指折り数えている。
「ヌードデッサンくらい、昔もやっとった。ずっと画家になりたかったしな」
「え」

まじまじ見入ると、飄々と茂は頷く。

「武蔵野の美術学校に通ってたことがあってな。神戸に行く前だ。
金がないけん、結局は中退して、画家は諦めた。食っていけんのではどうしようもない」

引っ掛かった点を、恐る恐る尋ねる。

「他の人の裸を描くんですか、女の人の?」
「おお。モデルを呼んでな、そういう授業がある。船と女の絵は、ようけ描いたなぁ」

その頃は吉祥寺のアパートに住んでおり、電車の女性客をスケッチすることもあったという。

「…」

ぴん、と軽く額を弾かれた。

「なにを妬いちょお。絵の修業だ」
「だって」
「あのなぁ」

のそりと身を起こした夫は、肘枕で欠伸する。

「女を描くたびに、いちいち発情したりせんわ」

あんなに熱っぽい瞳に囚われて、こちらは翻弄されてばかりだというのに。
暢気な物言いに膨れたくもなる。
けれど。

「――」

仰ぐ彼の微笑みが、あまりに優しげだったから。
また、鼓動が高鳴る。
これ以上、この人を好きになったら。
胸が、割れてしまいそうだ。
子供を宥めるみたいに、ぽんぽんと頭を撫でられる。

…ずるい。

やがて、ストンと眠りに落ちた夫の寝顔に苦笑し、隣に寄り添って目を閉じた。

昔の夢を見た。
深き森で遭遇した怪異と、不思議な少年。
幼い布美枝を導いてくれた、絵の上手なあの少年が彼なのかどうか、これからもわからないままかもしれない。
それでも。
かつての自分に、「心配せんでええよ」と伝えたい。
娘時分に描いた人生の青写真とも、朧げに夢想した憧れとも、現在の生活は隔たっているけれど。
漸く巡り逢えた相手と暮らす日々が、どれほど色鮮やかで、温もりに満ちているか。
縁談を断られ、周囲から取り残され、誰からも必要とされていないかのような遣り切れなさを潜り抜けて。
長い長い御縁の糸を、ゆっくり辿って来ればいい。

糸の先には、その片方を握って無邪気に笑う、唯一人の人がいる。






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