村井茂×村井布美枝
「深大寺、商店街、喫茶店…。駅まで行きましたけどいません、どこにも。もう…先生はほんっとに…」 夕暮れが近づいた頃。 ずいぶん前にふらふらと出ていった茂を、 探しに行っていた菅井が戻ってきて、口惜しげに布美枝に報告した。 その間にもリンリン鳴る電話に幸夫が対応し、他のアシスタントはあくせくと仕事をしている。 夕飯の時間もすぐだと言うのに…。 「…おとうちゃんどこ行ったんだろうね」 本気で訊ねたわけではない。 居間で遊ぶ二人の娘に、ただ呟いただけだったのだが、意外な返事が返ってきた。 「喜子、知ってるよ」 「え?」 「でもおとうちゃんと秘密にしてるから言わな〜い」 「よっちゃん」 藍子がたしなめる。 「おとうちゃん、迷子になってるかもよ」 「え〜」 姉の言葉に少し不安になった喜子は、布美枝に「秘密の場所」を教えてくれた。 家からほんの5分ほどの場所に、公園があった。 二人の娘がよく遊んだ小さな公園。 あまりに小さいので、年長の喜子ももう卒業したほどの遊び場に、 タイヤを組んで山状に盛り上げた遊具があった。その下の土管の中に…。 「…いたぁ…」 探し人が居た。 大きな図体を折り曲げて、スケッチブックを片手に、すやすやと眠っている。 布美枝が四つん這いで上半身を中に入れると、中はひんやりとして心地良い。 夏の日差しが土管の中には届かず、絶好の避暑地というわけだ。 「おとうちゃん」 軽く揺さぶってみても、寝坊介が起きるはずもない。 はあ、と軽くため息をついて、少しその顔を愛でる。 白いものが髪にまじってきたけれど、まだまだ男ぶりは下がっていない、 そう思うのは惚れた女房の贔屓目だろうか。 疲れとるんだな…。しばしの戦士の休息に、ふっと目を細めた。 『敗走記』の練り直しを始めた茂が、今までになく苦悩する姿がこの数日続いていた。 夏が来るたびに強く思い出すのだろう、あの戦地での壮絶な体験を、 この身ひとつで乗り越えてきたのだと思うと涙が溢れる。 万にひとつの可能性で、左腕と引き換えに掴んで地獄から戻ってきた「命」が、 自分という女のもとで息づいていてくれている今このときが、心から嬉しかった。 柔く、接吻。 本当に触れるだけの。 急いで離れて様子を伺ったが、まだ眠っているようだった。 ほっと息を吐いて、もう一度。 今度はもう少し、口づけに近く。そして永く。 すると、向こうから反応がある。 食むように絡めてくる唇。 「…おとうちゃん…起きとったね…」 「ばれたか」 いつから?と訊くより先に、茂の右腕が布美枝の顎を捉えた。 「ん…」 甘い口づけの繰り返し。 永遠に続いて欲しいと思った。 「…おかあちゃ〜ん」 「しげぇ〜さ〜…」 遠くから、二人を呼ぶ藍子と絹代の声がした。 「おお、捜索隊が増員されとるぞ」 「ふふっ、そげですね」 「喜子のやつ、喋ったな、秘密の場所」 「叱らんでね」 「新基地を開拓せねばならん」 スケッチブックを抱えた少年のような茂の背中に、 少女の頃に体験した不思議な時間の、デジャヴを感じた。 SS一覧に戻る メインページに戻る |