花と戦場
村井茂×村井布美枝


「我が娘ながら末恐ろしいな」

乗り換えた列車の座席で、ぼそりと茂が零す。

「そげですか?」

布美枝は隣で首を傾げた。

「がいなこと、こっそり準備しとったのは驚きましたけど」
「そのやり方だ。光男にスケジュール調整させて、義姉さんにリサーチ頼んで、とどめにイカルを担ぎ出して説得させるなんぞ、大した策士だ。
俺にそっくりだの、おまえに似とるだの言われてきたが、あの参謀ぶりはイカルの血を継いだのかもしれん。隔世遺伝だ」

あれよあれよという内に段取りをつけられた当惑が落ち着いたのか、ぼんやりしつつも夫は饒舌だ。
締切明けの寝ぼけ眼を、こしこしと擦っている。
大の男がそんな稚い仕草も似合うのだから、やはり不思議な人だ。

「あの子なりに、気を遣ってくれたんですよ」

その実、心配させてもいたのだろう。
日々、激務に追われて多忙を極め、妻子と顔を合わせる機会さえ減っていた彼の消耗は、娘の目から見ても痛ましかったに違いない。
遂には過労に倒れ、休養を余儀なくされたのは、数ヶ月前のことだ。
回復してからも仕事に没頭しがちな身を案じる人々は、だから長女の発案にも賛同してくれたのだろう。

「疲れを取るのも仕事の内」と休暇を捻出され、「偶には夫婦水入らずで」と計らわれ、「亭主の体調管理も女房の役目」とはっぱをかけられ、結婚記念日にかこつけて送り出された。

突然の運びに戸惑ったのは布美枝も同じだが、ありがたいと思わぬわけもない。
同じ家に居ながら、殆ど会話もできない暮らしは寂しかった。
そばにいて、目を見て話してほしい、話を聞いてほしい、笑顔を向けてほしい。
無理をさせたくはないが、願わずにはいられなかった。

「あたしは、嬉しいです。お父ちゃんが皆の為に必死に頑張ってくれて、毎日大変なんだってわかっとっても、一緒に過ごせるのは嬉しいです」
「我儘言ってすみません」と窺う。

茂は黙ってこちらを見つめ、ゆるりと瞬くと、「…寝る」と目を瞑った。

「着いたら起こせ」
「はい」

照れたふうに、眠り込む横顔。
やがて、静かな呼吸と共に傾いだ頭を、自分の肩に寄り掛からせる。
長い睫を堪能できる距離に、胸が凪ぐ。
車両の振動と、窓の外を流れゆく冬景色。

“お母ちゃんはお父ちゃんに、恋してるんだね”

娘に指摘されるまでもなく、もう十年以上、ずっと自覚している。

佐知子が薦めてくれたのは、湯河原温泉だった。
一昔前は「新婚旅行は熱海」が定番であったが、昨今は趣も変わり、東京近辺で数泊ならこの辺りが適しているのではと、手配を買って出てくれた。
奥湯河原の山懐、渓谷と藤木川に沿って庭園と池泉を臨む宿は、老舗料亭といった佇まいの風情のある旅館だった。
案内された部屋は50u程あろうか、露天風呂付きの上品な客室で、今更のように躊躇う。
絹婚式の祝い代わりとはいえ、自分には勿体ないのではと考えてしまうのは、染みついた貧乏性だ。
こっそりと夫の袖を引く。

「あの、良いんでしょうか。こげな高そうな所」
「まあ、大丈夫だろう。景色はええし、露天風呂も付いとるし、あとは飯が旨ければ文句はない」

暢気な大雑把さは相変わらずだ。
静謐な山翠に囲まれた、野趣ある露天風呂に浸り、(夫曰く「旨いが、ちまちま出てくるのが食い難い」)繊細な懐石料理をいただき、食後の茶を淹れる。
家事の一切をしなくていいという状況が、却って居心地悪かったりもするのは内緒だ。

「お父ちゃん?」

広縁に面した池庭を前に、夫はじっと一点に見入っている。

「どげしたんですか」
「椿が化けて来んかと待っとった」

夜目にも鮮やかな、寒椿が美しく映える。

「化ける?」
「古い椿の木は、精霊が宿って化けて出るそうだ。ここの椿も、結構年季が入ってそうだけんな」
「椿の精ですか。どげな姿なんでしょうね」
「化け椿、夜泣き椿、椿女。伝承はいろいろだが、美女が現れるという話がある」
「だから待っとるんですか」

ささやかに咎めるつもりが、振り向いたまなざしの柔らかさに怯(ひる)み、からかわれたのだと知る。

「…もぅ」

茂は声を出さずに笑った。

「どうせ、あたしはナズナですけん」

意趣返しにもならない。

「ん?」
「前に、はるこさんに言われたことがあるんです。ナズナみたいだって」
「ふぅん。なるほどなあ」

何故か、今度は笑われなかった。

「≪天、此の物を、幽人山居為るの為に生ず≫か」
「え、何ですか」

答えはなく、逆に訊かれた。

「ナズナの由来を知っとるか」
「あ、いえ」
「夏になると枯れる、夏に無いけん、『夏無(なつな)』という」
「はぁ」
「あるいは、撫でたいほど愛らしい花だけん、『撫菜(なでな)』と呼ばれた説もある」
「…え」

庭を眺めたまま、ぽつりと茂は呟く。

「確かに、椿は観賞用だが、ナズナは愛でる花かな」

ふわりと頬が熱くなった気がした。
視線は合わないのに、身動ぎができなくなる。

「ナズナで、一反木綿で、電信柱か。お母ちゃんもなかなか芸達者だな」

茶化す口振りは、照れ隠しにしても優しかった。

「ずいたで、寝ぼすけで、鬼太郎で、悪魔くんのお父ちゃんには敵いません」

思わずつられながら、小声で言い添える。

「けど、ナズナも撫でてもらったら、凄く…嬉しいと思います」

精一杯の勇気で告げてみると、茂は肩を丸めた。
ごろんと畳に寝転び、顔を背けつつも、くつくつと笑っている。

「もぅ!ええです」

膝立ちしたところで、素早く掌が縫い止められた。
仰臥する夫を覗き込む姿勢になる。
見慣れた穏やかな、この瞳に布美枝は滅法弱い。
夜の翳りが、彼の表情を少し隠す。

「誰も水を遣ったり、手入れをしたりもせんのに、あれはいつも強く道端に咲いとるな」

湯上がりの肌の照り。
乾かしたばかりのぼさついた髪。
薄らと生えた無精鬚。
ふと、こんなに艶めかしい男だったかと動揺する。

「…きっと、目を留めてほしい人がおって、その人に摘んで手許に置いてもらいたくて、小さくても花を咲かそうと頑張っとるんです。それだけです」

沈黙が落ちた。

「そげか」
「はい」
「そげだな」
「ええ」

手首を引かれ、懐かしい匂いのする胸板へと、布美枝はゆっくり倒れ込んだ。

静かに唇が離れた後、「お疲れではないですか」と問えば、「年寄り扱いするな」と苦笑された。
大きな掌に、頬を包まれる。
濡れた唇をなぞり、耳元から鎖骨へ、髪を梳いては遊ぶ、長い指。
擽ったがって肩を竦める布美枝を、眇めて茂は見つめていた。
布団を汚しては申し訳ないからと、大きなタオルを重ねて敷いた上に折り重なる。
見慣れぬ天井、覚えのある凹凸、それもが馴染んで落ち着いてゆく。
自ら帯を解いた布美枝の浴衣が、やんわりと寛げられた。
覆い被さる彼の重みに安堵し、無言の腕に柔らかく縛られる。
口接ける合間の呼気が、空気を濃密に変える。
夫の唇は、妻の永い苦渋と痛みを嘗め取るように、膚(はだえ)の隅々までを辿ってゆく。
布美枝を傷つけることができるのも、至上の幸福を与えてくれるのも、この男だけだ。
そして、この腕こそが、自分が女だということを思い知らせてくれる。
一本ずつ絡ませた指が、祈りの形になる。
固く組まれたそれは、縋られているようでもあり、布美枝は黙ってふわりと握り返した。
節くれた指が内股を擦り上げ、熱を帯びてぬめる柔肉の狭間に滑り込む。

「ぁ、――そ…っ」

久しぶりに躰を開く布美枝を、前にもまして気遣う動きで、指先が襞を探る。
妻の癖を会得した、老練な愛撫。
輪郭を追う仕草は丁寧で、荒々しさは一つもない。
初めて抱かれた日から、そうだった。
無理強いも、酷い仕打ちも、決してされないのに、逆らえない。
ただ、澄んだ黒い眸が、布美枝を従わせる。
視姦の鎖に絡め取られ、浅ましく昂揚する。
知らず寄せていた眉間に、夫の唇が届いた。
瞼に、頬に、鼻頭にも。
指が抜き取られ、脆く熔けた花芯に、ひたりと硬度が密着する。
丹念に均(なら)された狭い肉淵に、濡れた音をたてて怒張が割り入ってきた。
振動しながら包み込んだ部分が硬直し、布美枝は一瞬、熱さを忘れる。
慣れた筈の形がいつも以上に容積がある気がして、夫を見上げた。
折り曲げて抱え上げた腿をぽんぽんと軽く叩き、茂は、吸い痕の濃い乳房を更に咬んだ。
透き通った白さに、ぷつんと紅く腫れた粒を、そっと指で弾いてから、尖らせた舌で柔らかく潰しては吸う。

「ふ、…ッ」

堪らない、と首を反らせ、布美枝は喉を捩った。
呼吸が鼻を抜け、余計に胸を預ける形で晒す。
敷布から腰を浮かせ、茂の髪を探り、ぎゅっとしがみついた。
首筋を喰われ、耳の裏を嘗められ、口接けの位置が変わる度に、男根の脈動が深く潜り、蕩けた膣を抉られて、布美枝は声を途切れさせる。

「――は、っ…――ぁ、ア」

火照った躰に電流めいた痺れが走り、しっとりと四肢が麻痺してゆく。
ずくりと揺れる下肢の動きに合わせて、かぶりを振った。
鮮烈な触覚しかない生き物に成り果て、奔放にくねっては、呻く。
淡泊な男の、ひとときの執拗さを、全身で受けとめる。

「ん――、ッ…」

ずんッと重い圧迫感に衝かれて息が詰まりながら、咀嚼される肉の音を聞く。
裡に飲み込んだ勃起に、更地の奥を拓かれ、突き崩され、甘美な高みへと導かれる。
熱い視線を浴び、焔(ほむら)の如く、布美枝は歓喜した。

「…し、げぇ…、――さ」

手繰り寄せたタオルを皺くちゃに乱し、寸足らずの呼び声で懇願する。

刹那。
茂が、固く詰く、掻き抱いた。

「花の――香りがする」

白い胸に鼻を埋(うず)め、陶然と匂いを嗅いでいる。

「俺の、知らん所に、咲くな」

体内に響く低い声に、びくりと腰が震えた。
破裂の兆し。

「■■■―――■■!」

悲鳴を飲み込んで、布美枝は瞳を澱ませた。

(あなた、こそ)

一族の大黒柱であり、父親であり、創作者であり、師範であり。
多くの顔を持つことは知っている。
けれど。
今は、この瞬間は。

(あたしだけの、――あなたでいて)

撓(たわ)んだ背骨と、飛びかけた意識を、茂が強く抱いて引き戻す。
布美枝のか細い嬌声と、引き絞る痙攣が、彼の雄を極めさせた。
打ちつけられて流し込まれた精の熱度に、朦朧とする。
茫と目線を浮かせる布美枝の顔を手で包み、姿を認識させてから、茂はゆったりと口接けた。
深く填っていた異物が抜けていき、しどけなく綻んだ双丘から吐精が溢れ、腿を滴り伝う。
身に纏う汗の匂いに混じり、情動が静かに沈んでゆく。

気づくと、広縁で夫が煙草を吹かしていた。

「お。煙いか」
「あ、いえ」

以前から仕事場で吸っているのは知っていたが、直接見たことはない。

「量は減らした。そうそう不摂生するわけにもいかん」

たしなめたわけではなかったが、身体を大事にしてほしいのも本当だったので頷いた。
浴衣を着直し、彼の足元に腰を下ろす。

「ええ所だ」
「そげですね」
「小豆洗いでも出そうだな」
「明日、探しに行きますか」
「娘を持つ女が小豆を持って谷川で遭遇すると、娘が早く縁づくとも言われるぞ」
「あら。じゃあ、藍子や喜子の縁結びになりますかね」
「まだ早い」
「それはそげですよ。お父ちゃんったら」

他愛のない会話が楽しくて、心地好い。
彼の強さと忍耐はとても頼もしいけれど、自分の前で寛いでくれる夫を抱き留めるのも、嬉しいものだ。


「皆に感謝せんとな」

椅子に凭れ掛かり、箱根外輪山の稜線と、深遠な夜空を見上げる横顔は柔和だ。

「よう働いてくれとるし、協力してくれる」
「ホントに」
「戦況はこれからも厳しいだろうが、一個師団、全員生還が目標だけんな」
「ええ」
「後方の歩哨は頼んだぞ」
「はい。何があっても、あたしはお父ちゃんについていきますけん」

信頼してくれと豪語したものの、自分にできることなど然程無いのもわかっている。
個人の自由で描いていられた頃とは違うと彼自身が言うように、この人の存在は、内にも外にもあまりに巨きくなっていた。
隣で支えている実感も持てないくらいに。
結局のところ、碌に手助けする術(すべ)を持たない自分は、庇護される立場でしかなく、漫画家の妻として至らぬ点も多かったろう。

それでも、彼は布美枝を認め、懐に入れ、背後を預けてきてくれた。
信じなければならなかったのは、布美枝の方だ。
彼の、生き抜くことへの貪欲さを、情の厚さを、誠意を、不可視の愛情を。
自身の手足に向かって、愛を囁く者はいないように。
彼にとって、伴侶はもはや、身体の一部なのだろう。
たとえ、映画のように甘い台詞の一つも言われなくとも、自分は、彼の命に寄り添い、一体となって生きている。
己の寂しさにかまけ、この人の背中ばかりを探して、彼に任されているものの重さを見過ごしていた、昔を省みる。

せめて、これからは。
この人が往く戦地の道程の、傍らに咲き続ける花でいよう。
彼の帰還を迎える道を彩る、標(しるべ)になろう。
あの大きな手が撫でてくれる時に、笑顔を返せる自分でありたい。

「お父ちゃん」
「ん」
「お父ちゃんのナズナは」

夏が巡っても、どの季節も。

「きっと、枯れない花ですよ」


※蘇東坡『天生此物為幽人山居之為』(天は世を捨て暮らしている人の為にナズナを生じた。)






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