村井茂×村井布美枝
あの夜のことは、あまりよく覚えていない。 漠然と想像くらいはしたとはいえ、床入(とこい)りの知識などろくになかったし、 緊張と羞恥と驚きのくり返しの中、ひたすら相手に身を任せ耐えていただけだった。 涙が止まらず、彼を困らせてしまったような気もする。 (呆れてしまわれたかな) 初めて贈られた自転車で深緑の寺へ連れられ、少しあの人に近づけたと思えたのに。 少々風変わりだけど、笑顔が無邪気な、花を愛する、少年みたいな男(ひと)。 (…しげぇ、さん) まだ名を呼べない気後れはあるものの、もっともっと彼を知りたいという気持ちは止まらない。 自分はちゃんと、あの人の妻が務まるだろうか。 何か役には立てないか。 少しは好いてもらえるだろうか。 結婚して、ひと月足らず。 その実、最初に枕を交わした日以来、一度も求められていない。 ぼんやりと湯船に浸かりながら、布美枝は、輪郭の滲む躰を見下ろす。 背ばかりがひょろひょろと伸び、胸はさほど大きくならず、腰の張りもあまりない。 義父は美人好きの映画道楽らしいし、息子の茂もまた、女優のような女が好(い)いのだろうか。 そうすることが義務だから新妻を抱いただけで、事を済ませれば必要とされないのか。 もう、抱きしめてはくれないのだろうか。 触れてはもらえないのか。 湯煙の中、布美枝は、自身の乳房を包み込んだ。 茂の愛撫の感触を思い出そうとする。 あの人は、熱かった――。 瞼を閉じ、夢想の彼に縋る。 *** 風呂を済ませた夫は、既に寝(やす)んでいるかもしれない。 居間の戸口から覗くと、火の気のない仕事部屋で、茂が背中を丸めて何かしているのが見えた。 原稿描きではないようだ。 「よし」 満足げに頷いている、彼のそばに近寄る。 「、あの」 「お」 茂は顔を上げ、にこっと笑った。 眼鏡を外した、子供みたいな笑顔にどぎまぎする。 「どげだ」 指差す先に、盆に載せた楕円の雪の塊があった。 南天の実と葉、炭団のかけらを付けた、ウサギの造形。 夜になってやんだ雪を、庭で集めて作ったらしい。 「よう出来とるだろ」 「ええ」 隣に膝をついて、身を乗り出す。 尾に見立てた雪玉も愛らしく、ヘラで削り上げた足も巧みだ。 「可愛らしいですね」 「あんたもな」 「え」 不意打ちの一言に、鼓動が跳ねる。 「あれ、あの一反木綿。えらい丁寧に作ったなあ」 彼に貰った描画を端切れで縁取った、手製の額縁を指しているのだと気づいた。 「あんたの作るもんは可愛げがある。境港の実家は男兄弟ばかりだったけん、 イカルはあげな可愛いもんは置かんだった」 茂は居間を振り返り、親指で空(くう)を指す。 「知らんうちに、綻びもあちこち繕ってあるな」 「あ、あの、いけんでした?」 「いや。毎日ちょっこしずつ、ウチの様子が変わっとるのは面白い」 茂と暮らし始めたこの家を、自分の手で整えていくのは、布美枝の日々の楽しみでもあった。 そのささやかな努力を認めてもらえたようで、ほわりと温もる胸元を押さえる。 夫の一挙手一投足に翻弄される、自分を静めるふうに。 「どげした、赤い顔して。風呂場でのぼせたか」 慌てて首を横に振る。 「あの」 「ん?」 「もう1つ、作らんとですか」 雪像を指差す。 「1羽きりでは、きっと寂しいですけん。かわいそうです」 瞬いた茂が、ふっと微笑む。 「そげだな。連れがおるのも――悪くない」 間近で見つめられて、動けなくなる。 出逢った時に惹かれた、笑顔。 (…ああ) 自分は、この男(ひと)が、好きだ。 瞼の裏が熱くなり、布美枝は思わず目を伏せた。 「おい?」 顔を覗き込まれ、涙が滲むのをこらえる。 「灯油代、節約し過ぎたか。風邪でもひいたか?」 さらりと前髪を持ち上げられ、大きな掌が額を覆った。 やがて顔が近づき、こつん、と額がくっつく。 綺麗な、黒く澄んだ瞳が、目の前にあった。 「ん〜、わからんな」 離れかけた茂の寝間着を、とっさに掴んで引き留める。 「、お」 「あ」 正直な自分の手に驚く。 できるなら、そばにいたいのだとか。 話すだけでなく、触れていたいのだとか。 伝えたいことはいろいろあっても、うまく言葉にできない。 「――どげした?」 さっきよりも低く、柔らかく問う声が、躰に沁み入る。 布美枝は、こくんと喉を鳴らした。 正座を整える。 「あ、の。お仕事」 「うん?」 「今日も、遅くまでされますか」 「いや。締め切りはまだ先だけん。急いで仕上げるもんはない」 きょとんとした彼のまなざしを正視できず、俯きがちになる。 「ほんなら…あたし、一緒におっても…ええですか?」 「一緒に、って」 訝る茂の前で、頬が熱くなるのを感じる。 切ないような焦りに急かされた。 「あ、あたしがなんも知らんですけん、物足りないと思われとるかもしれません。 まな板みたいな一反木綿なのも直せません。けど、あの」 女の方から懇願めいた我儘など、はしたないと疎まれまいか。 けれど、布美枝が切り出さなければ、おそらく彼はそんな素振りを見せないのではないか。 もしかしたら、このまま、ずっと。 それは、――嫌だ。 ようやく、この人のことをわかりかけてきたのだ。 もっと知りたい。 近くにいきたい。 温もりを感じたい。 せめて、もう一度。 茂は黙って、こちらに見入っている。 顔を赤らめて身を固くしている妻の様子に気づいただろうか。 「あんた」 「は、はい」 びくりと反応すると、苦笑された。 「辛いことを、無理してせんでもええ。ああいうことが苦手なら、それでもええんだ。 俺は気にしとらんし、あんたも気にせんときなさい」 「…気にして、くれんとですか…?」 穏やかな気配に、途方に暮れる。 ぽふっと頭に手を置かれ、ふわふわと撫でられた。 「あの晩、ようけ泣かれたけんなあ。さすがに気が咎めた」 「す、すんません」 「初めてだけん、躰がびっくりしたんだろう」 「…はぃ」 「あんたの目玉はおしゃべりだ。このウサギみたいな目、しちょったな」 茂は、手元の塊をちょいとつつく。 「あんたは、笑っとる方がええ。家ン中が明るくなる。それで充分だ」 「外に出してくる」 と盆を持って、茂は濡れ縁に向かった。 半纏を羽織った、その背中を見つめる。 ――あの広さに、縋れたら。 彼の動きを目で追っていると、戻ってきた茂が不思議そうに立ち止まる。 布美枝は、膝上の拳から力を抜いた。 「…ウサギが」 「ン」 「寂しいと死んでしまうというのは、本当でしょうか」 静寂に、呟きが響く。 しばらく噤み、佇んでいた茂は、おもむろに机に向かい胡座(あぐら)をかいた。 所在なげに、後ろ髪を掻いている。 ついさっきまで、それが鎮座した場所を見ていた。 「――飼い主がちゃんと面倒をみんかったり、相手してやらんかったら、どげな動物でも元気をなくすだろうな」 体力のない仔ウサギは、親兄弟と引き離されると、体温を保てなくて死ぬという。 保温が必要なのは、変わらない。 動物も、人も。 茂は宙を仰ぎ、軽く息を吐いた。 その横顔を、布美枝はじっと待つ。 「また、泣かせてしまうかもしれん」 「…はい」 「途中では、やめられんぞ」 返事の代わりに頷き、向き直った夫にそっと腕を引かれ、厚い肩に額を寄せた。 *** 雪面に月光が反射し、灯りを消してもほのかに明るい夜だった。 布美枝の長い髪を、茂の大きな手がゆっくりと梳く。 普段から撫でられる折もあり、髪に触れるのが好きな人なのかな、とぼんやり考えた。 夜具に敷き伸べられ、頭を抱え込まれるように、髪の生え際に口づけられる。 ちょこんと鼻先も啄まれ、擽ったくて肩を竦めたら、「こら」と囁かれた。 視線が重なり、ゆったりと唇が重なる。 緩慢かつ濃やかに、舌を搦めとられる心地好さに、布美枝はとろんと弛緩した。 耳からうなじを撫でていた手は脇腹を伝い、浴衣の上から軽く乳房を揺すぶる。 「ッん、――ふ」 乳輪に円を描くように、先端を捏ねられるたび、布美枝は吐息を漏らす。 茂の唇が喉を這い、顎が衿の重ねを寛げた。 尖り始めた乳頭を、上歯と舌でねぶられ、吸われる。 「は、…ぁ、ン――あ」 舌は谷間を下り、臍の辺りを舐め、帯を解かないまま、裾をまさぐられる。 内股をさすりながら押し開かれ、下腹に茂の顔が埋まった。 「!ッあ」 メリヤスの布地の上から、敏感な部分を食(は)まれる。 とっさに、手の甲に口を押し当てた。 急激に刺激を与えないよう、配慮してくれているのかもしれない。 が、布越しに伝わる息の温かさと間接的な接触に、焦らされ昂(たか)ぶってしまう。 窄めた舌に強めに圧(お)され、じわりと奥から濡れ出した。 「…は、――ぅ…」 恥ずかしさともどかしさでもがくうちに、自然と足が開いてゆく。 下着を外され、立てた膝を大きく割られ、布美枝は思わず腰を浮かせた。 恥毛に唇が置かれ、やがて中央へ辿り、じかに襞に触れる。 「あッ…ん、ぅ――」 包皮に潜む花芽を舌で慈しまれ、転がされたり弾かれたりしては、ぴくんと躰が跳ねた。 息づかいは荒くなり、腰は無意識に揺れ、突き出す動きになる。 充血した割れ目を舐められる頃には、愛液が溢れ出していた。 脚を肩に担ぎ上げられ、露わになった膣口に舌が挿し入れられ、擽るように愛撫される。 「ぁあ、…ハ、――ん、ッあ、あ…」 感極まった涙声で、布美枝は身を捩る。 深く泳ぐ舌の、粘膜と内壁が擦れ合う感触に、背を撓らせた。 「ん、…ンッ、――あ!」 綻んだ陰唇に、つぷりとめり込んだ長い指の、関節が曲がる。 しこりの上部を緩やかに押し上げられ、下腹の奥が膨らむような感覚に戸惑った。 違和感が、強烈な快感にすり替わる。 次第に速まる慰撫に、布美枝は敷布を掻き毟った。 ぽろぽろと零れる涙を、茂が唇で吸ってくれる。 「あ、――あ…やッ」 ふと手を止めた夫に、叫ぶように乞うた。 「や、…めんッ――で…」 やめないで、と舌足らずにねだる。 再び始まった圧迫に、首をのけ反らせて悦んだ。 ひくひくと跳ね上がる腰を、自分では止められずに嗚咽する。 「…もぅ、がま、ッ――きな…」 「せんでええ」 内に溜まった熱が破裂しそうになった時、すっと指を引き抜かれる。 痙攣する大腿が、がくんと揺れて、硬直し。 「あ」 と思った瞬間、せっぱつまった朱室は爆ぜた。 火照(ほて)った丹穴から噴き零れた体液が、腰に纏わりついたままの浴衣を濡らす。 数度の極まりを、投げ出した手で畳を引っ掻き、布美枝は耐えようとした。 「ァ、ふ。…ッ、――ぅ」 放出の後味に、自失の眩暈を感じる。 随喜で泣きじゃくるほどの快楽を、生まれて初めて思い知った。 「大丈夫か」 涙を拭われ、口づけられ、顔を覗き込まれる。 何が起きたか、わからなかった。 絶頂へ導き促した夫を、茫然と仰ぐ。 「あ、た…し」 額に張り付いた髪を払い、彼はそこにも唇を置く。 胸に抱き寄せられて、優しく肩を撫でられ、呼吸を整えた。 躰の熱を下げるような休止の仕草に、おずおずと窺う。 「あ、の…、あな…たは」 「まあ、なんとかなる」 そこまで気を遣われるのかと驚く。 密着していれば、彼の変化と我慢にも、当然気づく。 「あたしは、大丈夫ですけん。あの、ちゃんと…欲しい、です」 上擦った台詞に、布美枝は頬を紅潮させる。 ぽりぽりと頬を掻き、茂は、「すまん」と耳元に落とした。 謝らないでと答える代わりに、彼の顔を撫で、布美枝は初めて、自分から口づける。 甘えるように、夫の首に腕を回した。 熱く膨張し、じわじわと割り入ってくる陽根に、息が切れる。 「ひぁ、――ッ…」 やはり気遣われているのか、先端だけを挿し込まれ、いったん止められる。 「辛い、か」 慣らせるように小刻みの振動を加えられ、却って堪らない。 「あ、…はや、――く」 もっと、深く。 全て、奪われたい。 軸を中心に、ゆっくりと掻き回すように進入される。 「あ、ぁア、…あ――」 迸る声が、段々と高くなってゆく。 奥まで到達した彼が、頭上で深呼吸する。 今、夫が自分の中にいる。 充足感と疼痛の間を浮遊した。 「…動く、ぞ」 低い宣告に夢中で頷き、目の前の肩にしがみついた。 銜え込んだ熱量の塊を、引き抜かれては押し込まれ、胎内に刻まれる。 「ん、ッン、――あ!…ぁ、ア」 酷く反応した箇所を幾度も攻められ、布美枝は、蕩けるような悲鳴を上げた。 涙が溜まる目尻に、茂が痛ましげに口づけてくれる。 苦しいわけでも、辛いのでもない。 誤解させたくなくて、懸命に言い募る。 「あ、な…た」 「…ああ」 「好きに…して、ええですけん…――離れんで、ごしない」 お願いだから。 ――離さないで。 ふっと茂の動きが止まった。 意に染まぬことでも言ったかとうろたえた布美枝は、夫を見上げる。 真上の男の、澄んだ眸の底に、何かが揺らめくのを見た。 「…」 言いかけて噤んだ、茂の唇が静かに届き、やがて、噛みつくような激しさに変わる。 「…ッ、――っ、ん…ぁ」 鋭く膣を抜き挿す、卑猥な音が響いた。 硬い激情に炙(あぶ)られた、狭い柔肉が馴染んでゆくのがわかる。 彼の、形に。 「ぁ、…な、ッた――」 忙しなく肩を喘がせては、うねる抽入に痺れ、布美枝は甘く呻いた。 覆い被さる茂がくぐもった声で、「食い、千切…られる」と呟く。 その端正な眉根が詰く寄せられているのを見、己の躰で夫が感じてくれることが素直に嬉しかった。 体臭が混じり合い、蒸れた熱気が満ちる。 「ッ、ン。は…ぁ――あ」 月夜に冴える、布美枝の裸体は、水揚げの魚めいて過敏にのたうつ。 結合の隙間から滴る愛液に、臀部まで濡れそぼった。 「――て…」 絶える息の下、茂の胸に縋りつき、必死に哀願する。 どうか、そばに。 「置い…て、ごし…な」 膝を持ち上げて押し広げられ、圧伏される勢いで突き上げられ、角度の深い接吻を交わす。 詰く内壁に包まれた茂の質感が、一際大きく脈打った。 彼の肩越しに、踵(かかと)が空(くう)を蹴る。 「ッん――!」 駆け上がる昇天を、最も深い場所で共有した。 熱い奔流が、躰の奥底に押し寄せる。 「…っ、…は…ぅ――」 荒い呼気を鎮め、伸し掛かる夫の重みがもたらす幸福感に、布美枝はうっとりと目を閉じた。 *** 痴態を晒した気怠さと悦楽の名残で、夢見心地で仰臥する布美枝に、茂が半纏を掛けてくれた。 彼の匂いが、じかに肌に香る。 「寒くないか」 「平気です」 (あなたが、いてくれるから) にこりと返せば、茂も笑って、綿の上からぽんぽんとはたいた。 そのまま布団ごと、抱きしめられる。 「境港の西風に比べたらマシだが、もうしばらくは辛抱だ」 「はい」 明日晴れたら雪掃きして、洗濯して、そして雪ウサギを作ろう。 「来月の頭にな」 茂の手櫛が、もつれた布美枝の髪を解く。 「深大寺でだるま市がある」 「だるま市、ですか」 「日本三大だるま市の1つでな、東京に春を呼ぶ風物詩だ」 「そげに、がいなお祭りなんですね」 「境内や門前にずらりと縁起だるまが並んでな、なかなか壮観だぞ。露店もようけ出る。 百味供養に大護摩奉修、お練り行列も見ものだ。人出も多いが、見てるだけでも面白い」 指に絡めた黒髪を、茂は口許に寄せた。 「一緒に、行くか」 「――はい!」 その昔、縁結びの大師である寺の縁日は、嫁探しや婿探しで賑わったそうだ。 遠く故郷を離れた自分も、御縁の糸に引かれて、この地で暮らし始めた。 上京してからの心細さは少しずつ氷解し、やがてナズナが根を下ろすように、 この家にも彼のそばにも、自分の居場所が出来ると良い。 布美枝は、広い胸に頬を寄せる。 「明日、雪だるまも作りましょうね」 「そげだな」 「それと」 「なんだ」 「…また、――して、ごしない…?」 上目で頼んでみると、茂は意表を突かれた様子で、直後、大笑した。 布美枝も微笑み、つがいのウサギよろしく、二人で丸まり、寄り添って眠る。 春が来ても、きっと融(と)けない、消えない、想いの行方を祈って。 一足早く訪れた、温もりに包まれる、腕の中。 SS一覧に戻る メインページに戻る |