翡翠飛来(非エロ)
村井茂×村井布美枝


T.<S>

鬼太郎の再々アニメ化を機に、月刊誌に加え週刊誌での連載も決まり、プロダクションは再び活気に満ちていた。

「あの、先生」

最終確認を終えた原稿用紙を握ったまま、菅井が突っ立っている。

「なんだ」
「また雇っていただいて、ありがとうございます」
「どげした、改まって」

机から目を離さず、茂は応じる。

「お礼を言いたくて。それと、これも伝えたくて。僕やっぱり、先生のことが好きです」

瞬間、仕事場の空気が凍りついた。
相沢と光男も固まっている。
原稿に没頭しかけていた茂は、硬直から脱し、ぬっと顔を上げた。

「…あんた、菅ちゃん」
「はい?」
「夏も来とらんのに、恐ろしいこと言わんでくれ。ただでさえ、妖怪の仲間みたいな顔しとるんだけん」
「は。あの、ギャグではありません」
「むしろ、そっちの方が助かる」
「先生の漫画が大好きだという意味です」
「それ以外では困ると言っとるんだ。この忙しい時に、ウケを狙っとる暇はないぞ。ほれ、点々」

新たに手渡された原稿と茂を見比べ、菅井は肩を落とす。
行き場がないから留まりたいのではなく、最初からずっとここにいたくて、だから必要とされて嬉しかったのだと。

「…伝わってないのかなあ、僕の気持ち」
「だら」

不意に一喝した茂は、くるりと椅子を半回転させる。

「せっかくの独立の機会をふいにしてまで、あんたは水木プロに残りたいと言った。俺は、あんたの代わりはおらんと言った」

手元のペンがくるりと回る。

「あんたの方に辞める理由がない限り、みすみすこっちから手放す気なんぞなかったんだぞ」

菅井がぱちぱちと瞬いた。

「もしも、菅ちゃんが路頭に迷ってそこらに落ちていたら、よそに奪(と)られる前に、俺が拾って持って帰るけんな」

ぴたりとペンを止め、茂はにっと笑う。

「わかっとると思うが、ウチの仕事は楽ではないぞ。覚悟しとけ」
「せ…」

感涙せんばかりに引っ付こうとする菅井の肩をやんわり押しとどめ、「ほれ、仕事せい」と茂は作業机を指差す。

「不肖、菅井伸、44歳。今後も精進し、邁進します!」
「よし」

重々しく頷く茂に頭を下げ、脱兎の勢いで戻った菅井は、猛烈な集中力で原稿を凝視する。

「さすが、先生。妖怪を手懐けるのも、お手のものですね」

感心する相沢をよそに、事態を静観していた光男は、賢明に沈黙を守ることにした。

U.<F>

仕事場へお茶出しを終えた布美枝は、ダイニングテーブルで頬杖をつく。

「…良いなあ、菅井さん」

ため息混じりにぼやいてしまう。
昼間見た光景を思い返す。
あんなふうに、はっきりと茂に気持ちを伝えることができて。
茂に、正面から受けとめてもらえて。
あの日。
菅井が無断欠勤を続けて荒れていた夜。
二人に、女の身には立ち入れない、強固な繋がりを感じた。
いつのまに、彼らの間には、ああも熱い師弟感情が芽生えていたのだろう。
そばでやりとりを聞きながら、感激や感謝とは別に、布美枝は無性に羨ましくなった。
茂に、愛情をもって叱ってもらえる菅井が、羨ましかったのだ。
淡泊そうに見えても、夫は決して冷淡ではない。
その実、情に厚くて責任感が強く、面倒見が良くて愛情深い男だ。
だからこそ、多くの人々が彼を慕い、助力を惜しまず、集う。
そんな夫が誇らしくて愛しくて、けれど、近寄りがたい距離を感じてしまう時もある。
自分だけのものではない人を前に、ふと寂しくなる一瞬がある。
もういい歳だというのに、茂を想うたび、初恋に戸惑う少女みたいな有り様になる。
考えてみれば、今まで一度も、彼に好きだと伝えたことはなかった。
もしかしたら、伝わっていないのかもしれない。

(…いけん)

今更とはいえ、きちんと気持ちを話すべきではないのか。
きっかけも方法もわからないけれど、何かをせずにはいられなかった。

V.<A>

頑固一徹。
いつだったか父親をそう評したら、「そりゃあ、藍子のお父ちゃんだけん」と心外な反応が返ってきた。
あの父に比べたら、自分ははるかに常識人だと自負している。
『水木しげるの娘』ではなく、ただの一個人として世間に認められたくてあがいてきたけれど、
結局のところ、『村井藍子』を育んだ土壌もまた、父母によって養われたものだ。
就職早々、挫折しかけた自分を支えてくれたのは、背後を守る父の温かい掌だった。
古臭い家父長制に反発はしたものの、実際、力量のある人が中心になって引っ張っていかないと、
人間の集団はまとまらないのだと、社会人になって思い知った。
父が強い紐帯となっているからこそ、身内は団結し、支え合って困難にも立ち向かっていける。
その事実を、今なら素直な心地で認められる。
巨き過ぎる影響力に怯むことも多々あったけれど、本人すら頓着しない著名な看板を外してしまえば、
彼はあくまで一人の男であり、夫であり、父親であった。
父が信条とする、ゲーテの本も密かに読み始めた。
感化されていると周囲に知られるのは恥ずかしいので、カバーを外さずにこっそり目を通しているのだが。
父が太平洋戦争に従軍した折に左腕を失くしたことも、幼い頃から薄々わかっていたし、
母が詳しく話すのをためらう様子だったので、あえて知ろうという素振りは見せなかった。
それでも、内緒で祖父母に話を聞いたり、自分でも本を読んだりして勉強した。
実体験に基づいて描かれた戦争漫画を読んだ際には、立ち上がれないほどの衝撃を受けた。
父の人生観、死生観。
甘ったるい希望や理想論を語らずに、力強く前進してゆく強靭な精神力に圧倒されては、
同じ血がこの体に流れていることが不思議な気もした。
自分がこれから歩む道に、どんな運命が待ち受けるのか、それはわからない。
けれども、『水木しげるの娘』ではなく、『村井茂と布美枝の娘』として慈しまれ、守られ、育てられてきた過程が、
きっと力となり、自信に繋がり、乗り越えてゆける。
そう、信じることに決めた。

***

「藍子は、好きな人とかおらんの」

父と妹の朝寝は毎度のこと。
祖母と三人での朝食を終えた休日、居間で寛いでいると、母から珍しい話題が出た。

「なに、急に」
「もう年頃なんだし、そげな人もおるのかなって」
「別に。今は仕事で手いっぱいだし、そういうことは考えてないよ」
「…そう」
「で?」
「ん」
「本当に聞きたいことは、なあに」

きょろりと瞠目した母が、頬を赤らめて俯く。
我が親ながら、相変わらず隙のある人だなあとは思うが、そんな微笑ましさも、父に愛されている一因かもしれない。

「…好きな人にね、どげなふうに気持ちを伝えたらええのかなあって」
「娘相手に不倫の相談?」
「ッ、なに言うとるの。お母ちゃんはずっと、お父ちゃんだけだけん」

夫一筋、他はまったく眼中になしを地でいく母は、父の幼なじみにもからかわれていた。

「わかってるって。冗談に決まってるでしょ」

だいたい、どこをどうしたら、この母にそんな芸当ができるというのか。

「お父ちゃんに、告白したいんだ?」

赤い顔でこくんと頷く母を見、つい父の心中をおもんぱかる。
一途で可愛らしい妻を持った男性は、気苦労も多いのだろうな、とか。
あの父なら逆に、それすらも楽しんでしまうのではなかろうか、とか。
最終的にあてられ損なのは周囲ではないか、とか。
あれこれ考えるとばからしくなり、嘆息する。

「藍子?」
「そのままで、いいんじゃない」

苦笑を抑えきれずに、母を見つめる。

「何を言おうかとか、考えて言葉を決めるよりも。お父ちゃんといて、顔を見て、言いたくなったことを、
そのまま伝えればいいんじゃないの?」

たとえ、何も言えなかったとしても。
人を見抜く目に長けた父なら、母の無言でさえ受けとめてくれるはずだから。
男とか女とか、一般化した名詞で考えるのはやめるようにと言ったのは、父が敬する哲学者だ。
世間の意見に惑わされ矛盾した存在に見えてしまうから、ただ、目の前の一人を信じればいい。
その人の言葉だけを信じれば、矛盾は解決するのだと。

「お父ちゃんが好き、その気持ちだけ持っていればいいんだよ」

***

母とすれ違いに起きてきた妹が、ぽけっとした顔で髪を掻く。

「お母ちゃん、どうしたの」
「お父ちゃんに愛の告白するんだって意気込んでる」
「え、今更?あんなにあからさまなのに」
「伝わってないって思ってるの、お母ちゃんくらいだよね」

パジャマ姿のまま考え込んでいた喜子は、ぱぁっと明るい顔になる。

「ねえ。もしかしたらあたし、お姉さんになれるかな」
「よっちゃん、飛躍し過ぎ」
「でも、お父ちゃんだよ?」
「…」

ないと言いきれないところが、あの両親だ。

「あたし、弟がいいな。お父ちゃんに似た男の子とか面白そう」

父と気の合う妹は、無邪気に空想している。
いつもまっすぐに父を慕う妹の姿は、昔からまぶしかった。
自分は、そんなふうに振る舞えなかったから。
多忙な父がたまに母と語らう穏やかな時間を邪魔するのは気が引けたし、幼心に構ってほしい気持ちがあっても、
妹の方が先に飛びついてしまう場合が多く、出遅れて自然と諦めるのが常だった。
隻腕の父は、二人の娘を同時に抱きとめることはできない。
それでも時折、話を聞いてもらったり、頭を撫でられるのが嬉しかった。
本当に父のミニサイズ版でも誕生したら、妹も祖母も、何より母が、さぞ可愛がるだろう。
いや、手こずるのか。
そもそも、あんな厄介な生き物なんて。

「一家に一人で、充分よ」

愛情と苦労も背中合わせだ。

W.再び<F>

昼少し前に起き出してから、茂はずっと机に向かっている。
アシスタントが出勤しない日も、昼夜問わず働く姿に頭が下がる。
締め切りは越えたようだが、連載を複数抱え、彼でなければできない作業は山とあるのだ。

「お茶、置いておきますね」

そっと声をかけ、邪魔にならないように退出するつもりだった。
今日のところは、ゆっくり話せそうにないのが残念だけれど。

「おい」

手を休めた茂が振り返る。

「はい?」
「ちょっこし出るぞ」

すっくと立ち上がって伸びをし、どうやら外出するらしい。
気分転換にでも行くのだろうか。

「いってらっしゃい」
「おまえもだ」

ぽん、と腕をはたかれた。

「え」

廊下で行き合った娘達に、「お母ちゃんと出かけてくる」と告げている。

「あら、デート?」
「おお」

長女の茶化しを、あっさりと真顔で肯(うべな)う夫に驚いた。
日頃は照れ屋な彼の、淡々とした返しに、娘二人も面食らっている。

「夕飯までには帰る。行くぞ」

こちらを待っている茂に、慌ててついていった。

***

連れ立って訪れたのは、深大寺に隣接する神代植物公園。
元は東京の街路樹を育てる苗圃であったが、戦後に神代緑地となり、茂と布美枝が結婚した年に、都立公園として開園した。
40万uを越す広大な敷地には、4000種以上もの樹木が植えられているという。
快い風に吹かれる中、色濃い緑がきらめき、懐かしい森に迷い込んだ心地になる。
バラ園はまだ咲いていないが、ツツジの大群植に菜の花、桃にボタン、ベコニアが華やかだ。
気ままにのんびりと、二人で散策した。
一昨年できた大温室には、熱帯の植物が集められ、さながらジャングルみたいな景色だ。
夫にしてみれば、戦時中の南方を思い出しはしないかと案じるが、飄々とした横顔にその気配はなく、
水やりのシャワーにかかった虹を見て微笑んでいる。
安易に触れられない領域は、既に彼の内に深く根づいており、揺るぎないものとなっているのだろうか。
スミレや山ツツジが咲く山野草園で、人気(ひとけ)の途切れた小路を歩いた。

「あの、お父ちゃん」

今なら、言える気がする。

「…す、――ッ」
「?どげした」
「す、菅井さん、良かったですね、ウチに残ってくれて。げ、元気になったみたいですし」
「そげだな。昨日も張り切って、点々打っとったぞ」
「そ、そげですか」

機嫌の良さそうな茂の横で、切り出せないふがいなさに、布美枝はうなだれた。
涼しげな木蔭の水辺に立ち寄る。
せせらぎに新緑が映り込み、水に揺れる様(さま)が幻想的だ。
まるで、世界に二人きりしかいないような錯覚。

「あ、あたし。すっ、――ぅ」
「なんだ?」
「す、…睡蓮の花、綺麗でしたね…」
「おお」

首を傾げながらも応じる夫を前に、いっそ泣きたくなる。
彼には、たくさん愛されて、大事にしてきてもらったのに。
自分は、少しも返しきれていないし、伝えられてもいない。
落ち込みそうになった、刹那。
手に、触れられた。

「え」

顔を上げると、「しっ」と茂が唇に指を立てる。

「…」

辺りを見渡してみるが、何か起きた気配はない。

「カワセミだ」

低い声で囁かれる。
茂が指差す先、わずか数mの近さに、鮮やかに青い鳥がいた。
翡翠の名にふさわしい美しい姿で、ちんまりと枝に止まっている。
遠くでちらりと見かけたことはあっても、これほど間近に接近したのは初めてだ。
じっと見守っていると、チーッと鳴き声をあげて、水面(みなも)の上を飛んでいった。
二人で顔を見合わせ、笑う。

「綺麗ですねえ」
「ああ」

渓流の宝石と呼ばれるその残像が、木漏れ日に霞む。

「西洋の、比翼の鳥だけんな」

茂が目を細めて、消えていった痕跡を仰いだ。

「比翼の鳥?」
「ギリシャ神話に、そげな話がある。海難で夫を失くした妻が、波間に漂う遺体を見つけ、夢中になってそばへ行こうとすると、鳥の姿になった。
悲しげな声で鳴きながら遺体にとまり、くちばしで口づけようとする。同情した神が、夫も同じ鳥に変えて、生まれ変わった二人は睦まじく暮らした。
それが、カワセミだとな」

哀しくも美しい、魂の鳥。
知らず、布美枝は胸元の手を握り締めていた。
もしも、とか、いつか、なんて。
考えたらキリはないし、どうなるものでもない。
けれど、人の姿を失くしてまで、夫の許へ行こうとした女の必死さだけは、――わかると思った。
ふわり、と頭を撫でられて、我に返る。
指先が柔らかく、布美枝の眉間をこすった。

「ココに皺が寄っとるぞ。お母ちゃんは、神さんの心配までしとるのか」

穏やかなまなざしが、視界に滲む。
気づけば、正面から茂に抱きついていた。

愛おしい匂いを、目を閉じて吸い込む。
噎せ返るような緑の香の中、彼の生と鼓動を確かめた。
茂は何も言わず、布美枝の好きなようにさせている。
ただ、背中を撫でる掌が、優しかった。

(お父ちゃん。…しげぇさん。――あなた)

好きだと言えないのは、そんな言葉では到底足りないからだ。
告げようとすれば、言葉からはみ出た想いが溢れてきて、胸がいっぱいになってしまうからだ。
こんなにも幸せにしてもらえて、何も返すことができなくても。
――そばに、いたい。
ぽんぽん、と背をさすられる。

「そげん怖がらんでも、俺はしぶといぞ」
「…怖くは、ないです」

肩に押し付けた唇を動かす。

「お父ちゃんと一緒にいられるなら、あたしは、怖いことないです」

ふと、茂が微笑う気配がした。

「懐かしいな」
「え」
「調布に来たばっかりの頃から、そげなこと言うとった」

覚えがない。

「…あたし、言うとりました?」
「まあ、覚えとらんかもしれんな。おまえ、朦朧としとったし」
「え…――え?」

記憶を辿る布美枝を、楽しそうに茂が覗き込む。

「寝床のおまえは、普段の倍は正直だけんな」

かぁっと頬が熱くなる。
呵呵と笑う夫を、上目で睨んでも効果はない。
おそらく、素直な気持ちは、何度も口にしてしまっていたのだろう。

「…もぅ」

再び頭を垂れて肩に寄せると、力強い腕が抱きしめてくれた。

「おまえの方が、へばるなよ。まだまだ、先は長いぞ」

存外、真剣な声に、ゆっくりと頷く。
見えない赤い糸の感触を、しっかりと確かめる。
大きな掌に頬を掬われ、瞼を閉じた。
乾いた唇の感触を、また胸に焼きつける。
どこかで遠く、青い鳥の鳴き声がした。






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