村井茂×村井布美枝
夢を見ていた。 夢の中で、それが夢だと自覚しているという状況がしばしばある。 今茂は空中を飛行していて、だから、ああこれは夢なのだと分かっていた。 正確には空の上を飛ぶ一反木綿の背中に乗っていたのだ。茂の漫画の中で 鬼太郎達を乗せて活躍する「魔法の絨毯」こと一反木綿の広々として 白い体は、今は鬼太郎ではなく生みの親たる茂を乗せていた。 面白い夢だ。どこかは分からないが、街並みの上を飛んでいるというのは なかなか愉快な気分だった。よろしく頼むぞ、と一反木綿に声をかけると 意思を持ったその布が、頭の部分を器用にひねり背中の茂を振り返る。 妖の黒目のないつり目が、茂に微笑んだ気がした。 ―――お母ちゃん? 布美枝の顔が頭に浮かんだ。そうだ、一反木綿は自分の漫画のキャラクターで あると同時に、いやそれ以上に妻の分身でもあるのだ。茂にとっては 二重の意味で愛着のある存在だった。 茂の心の声に応えるように一反木綿はひとつうなずき、また前方を向いた。 「そうか、お母ちゃんが俺を運んでくれちょるんだな、すまん」 ぽんぽん、と右手で彼女(?)の薄っぺらい体を叩く。いくらなんでも これよりは本物の布美枝のほうが厚みがあるな、などと思いながら。 一瞬なのか、それとも時間が経っていたのかは分からない。気が付くと 辺りは霧に包まれていた。視界が悪く前に進んでいるのかどうかも怪しい。 夢の中だというのを忘れて、つい茂は不安を覚えた。 「おい、お母ちゃん……」 また一反木綿が茂の方へ顔を向けた。先程は親しげに感じたその目が、 今は茂を睨んでいるのがはっきりと分かった。 (何だ、急に……) その視線に、背中をゾクッと冷たいものが走るのを 感じた瞬間。 一反木綿が体を大きく揺らし、茂はその背中から振り落とされた。 (えっ) 空中に放り出され茂の体が真っ逆さまに落ちる。天地が逆になり、 体内で内臓がぐるりと回る感覚が襲った。 (お前、なして俺を――――) 伸ばした手が虚しく空を掴む。急速に距離が遠くなる白い布切れは 茂に何も応えてはくれなかった。 「ぅあああーーーーーーっ!」 ガバッと茂は頭を上げた。そこは空の上ではなく、自分の家の物干し場 だった。仕事の合間、休憩のつもりで腰掛けていただけだったのに どうやら座ったままうたた寝してしまったらしい。 「また最近、ろくに眠っとらんけんな…」 あんな夢を見た理由には心当たりがあった。 女房の布美枝が最近、家出をした。家出といっても小1時間で戻ってきたが、 正直肝が冷えたのを覚えている。 『私にだって、気持ちはあるんです』 大人しい妻が、初めてあんな風に感情を爆発させた。 (一反木綿の反乱、か) いざとなれば布美枝には、茂の手を振り払い、茂を、 ―――――精神的な意味でだが―――― 突き落とすという強みがあるのだと、あの柔和な性格の 女を脅威に感じた瞬間だった。その後過労で倒れたのをきっかけに 打ち解けたとはいえ、意外にあの事件は自分の中で尾をひいていたらしい。 自嘲して苦く笑った。 最悪な寝覚めだったが、それでも少しは眠ったことだしそろそろ仕事に 戻るか、と腰を上げたその時、パタパタとスリッパの足音が近付いてきた。 突き落とした張本人が飛んできたか……、正直、今は傍に来て欲しくない 気分だった。 「お父ちゃん!?どげしたの?大きな声出して!」 茂の悲鳴を聞きつけた布美枝が駆け寄ってきた。 「別に……、何でもなーわ」 今の夢の話をする訳にもいかず、何となく顔を逸らす。だから妻が寂しげな 表情になった事には気付かなかった。 「そう…?無理せんでね」 布美枝はやっとそれだけ言った。詳しく聞き出したかったが、夫がこういう 素振りを見せる時はそっとしておいた方がいいのだと学習している。 静かにその場を立ち去ろうとした。が。「おい、ちょっこし来い」 はい?と振り返ると同時に、布美枝は茂に手首を掴まれていた。早足で ずんずん歩いていく茂に引っ張られるまま付いていくと、茂は物置に入った。 布美枝の手を引きながら茂は頭の中で計算する。 今日は平日だから子供たちはまだ帰ってこない。運良く両親も外出中だ。 仕事部屋から離れればアシスタントや弟には声は聞こえないだろう。 無言で物置に入ると、布美枝が不安げな顔をした。何か重大な話が あるとでも思っているのかもしれないが大きな間違いだ。 なぜなら、これから自分は彼女を抱くのだから。疲労と焦燥と独占欲が 化学反応を起こし、衝動に生まれ変わるのを体の中心で感じていた。 「お父ちゃん…?」 布美枝の腕を引き寄せると、茂と壁の間に、後ろ向きに体を挟んだ。 小さく声を上げる布美枝の臀部をひと撫でして、スカートを捲り上げ 一気にショーツを下げた。 「やっ……やだ、おとう、ちゃ…」 夫が何を始めるつもりなのか 察知したらしい布美枝が、急な展開に逃げようとしたが、腰をがっちりと掴まれ また壁に押さえ付けられる。 「でかい声を出すと、光男やちが飛んでくるぞ」 布美枝の耳もとで低く囁くと、抵抗する力が一瞬弱まった。その隙を逃さず 自分も下着ごとスラックスを下げると、ものも言わずに布美枝の中を 自分自身で突き刺した。 「………っ!!」 声にならない悲鳴が漏れる。 スカートの中にしまわれたブラウスをたくし上げ、後ろから手を廻し ブラジャーごと乳房を鷲掴んだ。愛撫というにはあまりにも荒々しい行為に、 布美枝はただ混乱するしかなかった。 ホックを外すのも面倒なのか、布の隙間から手の平が侵入し左の乳房を握る。 「待、……って、お父ちゃ…ぁ」 抗議にならない声を漏らし、茂の動きに翻弄される布美枝の背中に 茂が額を付けた。湿った熱がブラウス越しに伝わった。 いつもの夫ではない。意識が飛びそうな頭で思った。 仕事が忙しくて余裕のない様子の時はしばしばあったが、こんなにも強引に、 まるで犯すように自分を抱く事はなかった。なぜ。 両手を壁に付けて精一杯体を支えながら、布美枝は首を捻って茂を 振り返った。その瞳の奥に隠れているものを必死で探ろうとするのに 読み取れない。 「何が…、あった、んですか」 涙を浮かべた目に、茂は激しい既視感に囚われた。それは皮肉にも、 夢で見た一反木綿を思い起こさせた。そんな目で見るな―――――― 「…ええけん、大人しくしとけ」 一層激しくなる夫の動きに、布美枝は快感と虚無感に同時に襲われ 心をどこに置けばいいのか分からないまま、それを高く放り上げた。 行為が終わった後は茂が一言もなく物置から出て行ったので、布美枝は 次に茂と顔を合わせるのが怖かった。 夕食時、テーブルで新聞を読む彼が気になりながらも、声を掛けずに済む 状況が作られた事にホッとする。そうでなければ、聡い藍子などは 両親の間に流れる気まずい空気を敏感に感じ取っていただろうから。 居心地の悪い思いをしているのはしかし布美枝だけではなく、茂もまた 布美枝にどう接すればいいか図りかねていた。 自分達は夫婦だ。亭主が女房を抱いて何が悪い。そう正当化する一方で 違うそうじゃないと良心が叫ぶ。布美枝が自分を心配していたのは分かって いたのに、乱暴に彼女を抱いた。自分が勝手に見た夢のせいで 勝手に不安定になり、勝手に欲情した。自分にも感情があるのだと 妻に訴えられて間もないというのに。 「どげしたもんかな……」 結局その夜は、二人とも言葉を交わさずにそれぞれ布団に入った。 夜中、布美枝はふと目が覚ました。(喉渇いたな…) 台所で水でも飲もうと布団から出る。隣で茂が眠っているのを 暗がりの中で確認した。 10分後、非常に困った事態になった、と布美枝は冷や汗をかいていた。 迷ったのだ。自分の家の中で迷うなど間抜けな話だが、最近改装に改装を 重ねていた村井家はまるで迷路だった。 (だけん、あんまりやり過ぎんで、って言ったのに……!) 心の中で恨み言を吐いた。せめて電気を点けたいが、明かりのせいで 他の人を起こしてしまうかもしれないと思うとそれもできない。 部屋に戻るのも台所を探すのもままならずに壁づたいに歩いていると、 どん、と何かにぶつかった。「きゃっ……!」 「お前、何しとるんだ」 抑えた声が尋ねてきた。 「お父ちゃん…?」 茂だった。 「何しちょーだ、こんな夜中に…」 「お父ちゃんっ」 来てくれた嬉しさに気まずかった事も忘れて、布美枝は茂のパジャマの裾を ガシッと掴んだ。 「お願い、台所に連れてってごせ」 設計の段階から改装に携わっていた茂は、さすがに見取図が頭の中に 入っているらしい。台所に辿りつき水を飲んだ後、部屋に向かった。 暗いので、またパジャマの裾を掴んでいてもいいかと茂に問うと 「歩きにくいけん、こっちにせえ」 左腕の袖をぷらりと差し出された。口調がぶっきらぼうなのは照れている時の 癖だと知っている。家の中とはいえ、こんな風に夜二人きりで歩いていると まるで逢引みたいだと暢気な事を考えてしまう。 ――――昨日、あんな事があったばかりだというのに。 「悪かったな、今日は」 「え…?」 いやもう昨日か、と茂はもごもごと訂正した。 「いきなりで、びっくりさせた」 その口調には少し硬さがあり、やはりこの人も気にしていたのだ、と思った。 「あなたはほんとにわからん人です」布美枝はつぶやいた。 「昼間はあげに怖かったのに、今はとっても優しくて…、私には お父ちゃんの心の中がどげなっとるのかさっぱりわからん」 半分独り言のように心情を吐露する。 「いっつも私ばっかり振り回されとる……」 「だら、俺から見ればお前こそ何考えとるのかわからんわ」 「え……?」 意外な発言に、つい袖を強く引っ張ってしまった。 「こらそげに引っ張るな。…ぼんやりしとるかと思えば、急に泣いたり叫んだり 家から飛び出したりするけんな。さっぱりわからん」 「もうっそげな、前の話持ち出して…」 咎めてみせたが、自分も少しはこのマイペースな夫を振り回せる存在 なのだろうか。想像したこともなかったが、少し新鮮で、こっそり嬉しくもあった。 話をしても、肌を重ねても、お互いに理解できない部分はたくさんあるのだろう。 それでも、こうして寄り添ってさえいればいい。そう思った。 暗がりの中でどちらからともなくくすりと笑い出す。日常の中に潜む ちょっとした非日常が、二人の心を素直にさせてくれたようだった。 そうこう話しているうちに部屋に到着してしまい、物足りなく思いつつ 布美枝が茂のパジャマの袖を離すと、茂が振り返った。 「おい、今からでも久しぶりに一緒に寝るか?」 「…えっ…」 冗談だ。布美枝の声が裏返ったのを確認し、ニヤリと笑ってさっさと 布団に入る茂に、布美枝が返す。 「残念」 「ん?」 「……ちょっこし、期待したのに」 今度は、茂が顔を熱くさせる番だった。 SS一覧に戻る メインページに戻る |