村井茂×村井布美枝
真冬の境港の夜風を、これ以上浴びていたらさすがに風邪をひく。 まして先ほどからは雪まで降ってきていた。 静かに窓を閉めて、布美枝は隣で眠り込んでしまった茂を振り返る。 (どげしよう…) 新婚初夜。 かなりの覚悟をして臨んだつもりだったが、どうやら空振りに終わってしまったようだ。 酔いつぶれた夫は、布美枝に指一本触れることなくすやすやと夢の中。 ほっとしたのが大半だったが、ほんの少しだけがっかりした気持ちもあった。 それにしても。 「重…」 このまま窓際で座らせて置くわけにもいかず、 茂の右腕を一生懸命引っ張ってみるのだが、びくともしない。 「風邪ひきますよ、起きてください」 控えめに声をかけてみても、反応はない。 ため息をつくしかなかった。 義父母を呼んでこようか…しかしそれも何となく気が引ける。 このまま布団だけ掛けておこうか…けれどそれも可哀想だ。 あれこれと思案するが、やっぱりどうにかして布団へ運ぼうということに至る。 本格的に腰を入れて、よっこらせと腕を引っ張る。 と。 少しだけ持ち上がった重い身体が、途中で支えきれずにぐらりと傾く。 「あ、あ、あ…」 反射的に布美枝はそれを身体で受け止めようとし、どさりと倒れこんだ。 「…!」 一瞬にして顔に火がついた。鼓動が跳ね上がる。 茂の顔が、布美枝の胸元にあった。 が、目は堅く閉じられたまま、起きた気配がない。 浅い呼吸で動揺しながらも、茂が気づいていないことだけは何とか確認し、 慌てて身体を捻ると、上に被さった重い身体がごろりと横たわる。 どくどくと激しく脈打つ心臓をどうにか抑え込んで、 半ばやけくそになって、丸太を転がすように茂の身体を布団まで押し転がした。 大急ぎで掛け布団をかけ、さっと身を引いて固唾を呑む。 乱暴に扱った割には、しばらくしても全く起きる様子のない茂に ようやく呆れる余裕ができ、全身から力が抜けていくのがわかった。 布美枝は、そっと隣に敷かれた布団へと移動して、 横になろうと着ていた半纏を脱ごうとした。 が、相変わらず心臓が壊れたように独り激しく膨萎を繰り返し、手が震えて上手く脱げない。 何度か深呼吸をして、自らを鎮めようとするが、容易ではなかった。 原因となった男をちらりと見やると、すやすやと少年のような寝顔を曝している。 その寝顔がまた、改めて布美枝の胸をきゅっと締め付け苦しめる。 たった5日前まで、すれ違っても振り返ることすらなかった存在が、 もし酔いつぶれていなかったら今頃は、自分の身を抱いていたかも知れないと思うと 我ながら随分と大胆なことに踏み切ってしまったものだと、今さらながら腰が引けた。 けれど、見合いのときに見せた笑顔に、確実に惹かれていたのもまた事実で。 布美枝は再度茂に近づくと、しげしげと夫となる男の顔を眺めた。 眼鏡をはずすと若く見える。意外と端整な顔立ち。 鼻筋が通っていて、閉じた瞳から零れる睫も均整だ。 顎がすっと尖っていて、ぽかんと開いた口だけが幼稚さを醸していて可愛らしい。 くすっと思わず笑ってしまった。 大柄な布美枝が、見上げることのできるほどの背の高さ。 一本しかない腕は、片方分をカバーするかのように太く、硬かった。 のしかかってきた重みと、男性特有の身体の堅さ、そして体温を思い出す。 布美枝の鼓動が、今度は静かに、とく、とくと脈打ちはじめる。 ――――― 知りたい。 この男のことを、もっと知りたいと思った。 戸惑いと共に、布美枝の中で花の蕾がゆっくりと膨らみ始めていた。 ※ ※ ※ ぶるっとひとつ身震いをして、茂は目を覚ました。 頭はぼーっとしているが、下半身のコトは急を要している。 ふらつきながら暗い廊下を出て階下へ降り、あたふたと不浄の戸を開いて用を足した。 ほっと息を吐いて、戻ろうと廊下へ出る。 (…いけん) 一瞬、調布の家と勘違いをして行き先を間違えた。 酒を呑み過ぎたせいで、頭ががんがんと痛い。 ようやく部屋へ辿りついて、出てきたときに開けたままになっていた襖に手をかけた。 「…!」 部屋の中の光景に、思わず後ずさった。 どっどっど、急に鼓動が激しく脈打ち始める。 脱ぎ散らかした自分の布団の横には、長い髪の女が寝ていた。 「…そうか…そうか…」 呟きながら、昨日の出来事を反芻するように、眉をひそめて天井を仰ぐ。 やがて廊下の寒さに耐えられず、おずおずと部屋へ入り襖を閉めた。 布団に座り、布美枝を指差し確認しながら、頷く。 結婚したのだ。この女は言わば新妻で。 はて、と思い至り、今一度布美枝をじっくり観察するように見つめた。 窓際で話をしていたような気がするが、そこから記憶がない。 もしかして酔った勢いで押し倒し、事に及んだだろうか? それにしては、それらしい感覚も残っていないし、 自分も相手もしっかり着込んで別々の布団に寝ていたようだ。 ということは、未だ初夜は成立していないというのが結論か。 (しまったな…) 新婚初夜に、新妻を放ったらかしにして眠ってしまったことを 茂は少し後ろめたく感じ、そして勿体無いことをしたと肩を落とした。 親に無理矢理な形で押し進められた結婚だったが、 事ここに及んでは、もうその事態を粛々と受け止めるしかない。 それに、存外この新妻を気に入っていないわけでもなかった。 (細うて、白いなぁ…) 布美枝の寝顔にしばし見蕩れた。 見合いの時の布美枝は終始俯き加減で、 また、茂にもよく顔を観察する余裕はなかったし、 今日は今日で、角隠しの下に白塗りの化粧が素顔を隠していたため、 寝顔とは言え、布美枝の顔をまともに見るのは初めてだった。 白い肌、艶やかな髪。長い睫が鼓動とともに震えている。 少し潤おいを溜めたような紅色の唇。柔らかそうな頬。 ささやかな寝息に合わせて、小さく上下する肩。 横向きに眠る顔の前に、無造作に放り投げられた両手の、尖る細いピンクの指先。 月明かりが窓から差し込んで、布美枝をやや艶かしく照らした。 光に誘われる虫さながら、すすす…と身体が引き寄せられる。 布美枝の傍らに座り込むと、寝息に吸い込まれるようにして顔を近づけた。 ふわりと鼻腔をくすぐる、女の香り。 いつの間にか妙な刻み方をする心臓の早鐘に気づき、茂は慌てて顔を上げた。 (…いや、ええんだ。女房なんだけん。何をしても…) などと、身勝手な言い訳を自分自身に投げかける。 今一度、布美枝の頬を照らす月光を追うように、顔を近づけ息遣いを肌で感じる。 そのとき。 「…ん」 布美枝が小さく呻って寝返りを打った。 横臥から天を仰ぐその動線を描く途中、計らずもその唇が茂の顎を軽く掠めた。 「!」 どっと心臓へ血液が集中する感覚に襲われ、異常に動じてしまった。 幸い、布美枝は何も気づかずに眠っている。 しかしどこか薄っぺらな下心が見透かされたような気分で、ハラハラした。 ぶんぶんと頭を振り、ため息とともに茂は布団に逃げ込んだ。 しばらく悶々としていると、ふと腹の奥から笑いがこみ上げてきた。 40を前にして、10も年下の女に動揺する自分が滑稽だった。 身体を捻って、改めて布美枝を振り返る。 見合いの席で、襖の向こうに見えた印象的な丸い目玉を思い出すと、 茂の内側を何かがくすぐったく撫で去っていく。 ふ、と苦笑った。 白々と明けていく夜の帳に逆らうように、目を閉じ闇に身を投じた。 自らの中に、息づいて芽生え始める形容しがたい気配を感じながら、 やがて筋金入りの寝坊介は、すとんと眠りに落ちた。 SS一覧に戻る メインページに戻る |