Home!Sweet Home!
村井茂×村井布美枝


子供の頃から、軽視されたり悪く言われることくらい、慣れていた。
平気ではなくとも、耐えられる。
けれど。
彼を、腐(くさ)されるのは我慢ならない。
父に抗い、夫の許に駆け寄り、その腕を掴んだ時より前に、とうに気持ちは選んでいた。

(あたしは)

他の誰でもなく。

(この人と――生きていく)

布美枝の腕と足、胸の痛みは、最も望む場所をすでに知っていたのだ。

***

夕食時、夫は、普段よりもどことなく口数が少ないように思えた。
機嫌が悪いわけではない。
声をかければ返事はするし、話もきちんと聞いてくれ、ほころんで相槌を打つ。
けれど時折、こちらを見つめる目が、涼やかすぎるほど静かな色をしている。
やはり疲れているのだろうか。
仕事の宣伝も兼ねてとはいえ、貸本屋の女主人に頼みこまれ、気の乗らぬ催しに引っ張り出され、あげく、上京した安来の父に難詰された。
水増しされた客にも淡々と応じ、周囲にも不機嫌な顔一つ見せなかった。
誤解した父に詰め寄られても、いっさい弁解せずに潔く低頭した。
入り組んだ思惑を最後に背負わされたにもかかわらず、彼は終始、泰然と朗らかだったのだ。
源兵衛や美智子、太一らの方を気にかけるばかりで、夫の心中まで思いやれなかったことが、布美枝には、今更のように申し訳なく感じられた。

「どこまでついてくる気だ」

見入っていた背中が振り返り、彼が苦笑う。
浴後の着替えを用意した後、何とはなしにぼんやりと突っ立っていた。

「す、すんません。ゆっくり温まってくださいね」

立ち去ろうとして足が止まる。
ほんのわずかでも、離れがたい。

「…あの」
「ん」
「お背中、流しましょうか? 今日はお疲れでしたでしょう」

きょとんと瞬いた夫が、小首を傾げる。

「今日はなんだ。珍しいことをする日なのか」

布美枝としては彼をいたわりたく、謝りたくもあったが、何より片時も離れていたくなかった。

「え、…と」
「まあ、ええ。好きにせえ」
「ほれ」

と差し伸べられる、右手。
あの時、布美枝が掴み取った、腕。
つかのま、遠い昔の温もりもよみがえった気がした。

***

ブラウスの袖をまくり上げ、スカートと前掛けの裾をからげる。
風呂場に踏み入ると、床の感触が足裏をひやりとさせた。
目の前には、淡い湯気に揺れる、広い背中。
こんなに明るいところで見るのは初めてだ。
水滴に照り返る艶。
着痩せする男の、まぶしい裸体に魅入られる。
ぽかりと透けた左の空間が、寂しくも、たまらなく愛おしかった。
風呂椅子に腰かけた、夫のかたわらに膝をつく。
そっと湯をかけ、石鹸を泡立てた。
張りのある肌を、丁寧にこすってゆく。

「痛くないですか」
「もっと強くてもええぞ」

本人は器用に、あちこちを自分で済ませている。
右腕を預かって洗い流した際、ふと膝頭に目がとまった。
薄く色の違う皮膚。

「これ、どげしたんですか」
「ン。あー、子供の頃、有刺鉄線に引っかけた跡だな」
「足の小指は」
「川で遊んでた時に生爪剥がして、形が変わった」

よく見れば、細かい傷跡がそこかしこに残っている。

「やんちゃ坊主だったんですねえ」

外を駆けずり回る、腕白少年の面影を想像した。

「あら、ここにも」

肩胛骨の下に、引っ掻いたような筋。
他よりも新しい。

「それは最近だ。あんたがようしがみつくけん」
「え」

茂の指の背が、布美枝の頬をつつく。

「治りかけると、また引っ掻かれる、そのくり返しだ。悪くはないが、爪はなるたけ切っといてくれ」

首から紅潮するのが、自分でもわかる。
情事のさなかは無我夢中で、いつも必死で夫に縋りついてしまう覚えはあった。
のぼせるような羞恥の裏で、だが、知らず彼の体を傷つけてしまっていたことにおののく。

「す…すんません。あたし、気がつかなくて」
「構わん。原因は俺だけんな。半分この、おあいこだ」

痛みも悦びも、分け合って。
躰も、――心も。
本当に、そうであれたらいい。
赤い筋を指先でかすめ、布美枝はそっと唇を寄せた。

「おい」

茂が噴き出して咎める。

「こげな狭いところで煽られても、困るのはお互いさまだぞ」
「っ――ち、違います!」

くつくつと笑われて言い訳もできなかったが、くだけた空気に少し気が緩んだ。

「…あの」
「なんだ」
「今日はホントに、すんませんでした」
「だけん、ええって」
「いえ。その、お店で…嫌な思い、させてしまって」

自然、声が小さくなる。

「まあ、面白いもんは見れたな」

気楽そうな彼の口ぶりは変わらない。

「おぼこい安来のお嬢さんが、えらく剛毅になったもんだ」
「お嬢さんて…。あたしはもう、あなたの妻ですよ」
「――そげだな」

静かな肯定が、沁みいるように響いた。

ちゃぽんと、湯の揺れる音。

「なあ」
「はい?」
「あんた、実家に帰ろうとは思わんだったのか」
「…え」

まじまじと、夫の横顔に見入る。

「この家の経済情勢を早々に知っとったら、親父さん、あんたを離縁させて連れ戻したかもわからん。
あんたも、こげにやりくりに頭悩ませんと、もっと楽な暮らしのできるところへ嫁(い)けたかもしれん」

どこまで本気かわからぬ想定に、布美枝は面食らう。
上京してまもない当初、夫婦の会話もろくにないまま、勝手知らぬ土地に取り残されたようで心細かった時もある。
やりくり算段に日々奮戦していることも。
けれど、今は。

「あたしの家は、ここですけん。ここで、あなたと一緒にやっていくって、決心(きめ)たんです」

いっときの揺らぎは、もはや遠い。
ならば、彼は。
確かめたい気持ちを抑えられなかった。

「もし、もしもですけど」

(あなたは)

「父が、別れさせると言ったら」

(あたしを)

「…引きとめて、くれますか…?」

返事はない。
布美枝の胸に、曇りが射す。
低い嘆息が聞こえた。

「あんまり稼げとらんのは事実だ。甲斐性がないと言われても、申し開きはできんな」

落ちかけた布美枝の視線を、「けどな」と穏やかな声が留める。

「もし、そげなったら。あんた、泣くだろう?」

夫はのんびりと宙を仰いでいる。

「境港におった頃、俺はいっぱしのガキ大将を気どっとったが、子供心にも仁義は持っとったつもりだ。
いったん懐に入れたヤツの面倒はみる。見放したりはできん。それが、上に立つモンの務めだとな」

うなじを掻く仕草は、照れ隠しのようで。

「あんたに泣かれるのは困る。笑っとる方が何倍もええ。そんならこっちは、多少の無理をしたところで、たいしたことはない」

柔らかな笑みが向けられる。

「あんたは俺の、女房だろう?」

布美枝は精一杯に頷く。

「だけん、あんたはここに――おればええ」

確約よりも強い眸が、雄弁に語る。
不安の霧が、うっすらと晴れてゆく。

…この男(ひと)はきっと、守ってくれるだろう。
妻を、共に暮らす道を、二人の未来を。
言葉少なでも信じられる相手と、出逢えることもある。
ふと、着衣のままの自分を、布美枝は惜しんだ。
素肌の彼を、思いきり抱きしめたくて。

***

前屈みになった夫の横に、膝をそろえる。
少し癖のある髪に手を絡ませ、洗髪剤を泡立てながら、指の腹で揉んだ。
茂は顔を伏せ、いっさいを妻に任せている。

「痒いところはないですか」
「おー」

間延びした声が、なんだか可愛い。
耳の後ろや首筋も洗い、丁寧に流す。

「ちょっこし、上向いてごしなさい」
「こげか」

額の生え際にも泡が残らないよう、念入りに落とした。

「えらいマメだな」
「こげするとええって、徳子さんに聞いたんです」
「誰だ」
「床屋のおかみさんですよ」
「あ〜、商店街の」
「おでこに泡が残ると、…後退しやすくなるって」
「だら、俺はハゲとらんぞ。イトツを見ろ。ウチは白髪の家系だ」
「いや、でも兄貴は…」とぶつぶつ考えこむ茂の秀でた額に、ちゅ、と軽く口づける。
「はい。男前の出来上がり」
「おう」

無造作に髪を掻き上げる姿は、ひいき目抜きでも、十二分に見栄えがする。

「他人(ひと)に洗ってもらうのも、なかなかええもんだな。菜っぱにでもなった気分だ」

妙なたとえを訝ると、

「目の前に大根があるけん、一緒に漬け物にでもされそうだわ」

と、ふくらはぎを指差される。

「まぁ、ひどい」
「白くて頃合いで、旨そうだ」

さりげない掌が、ぺちりとかすめてゆく。
不意打ちに身が竦んだが、向こうは平然とすましたものだ。
布美枝は軽く頬をふくらませる。

「おいたが過ぎると、ホントにお漬け物にしちゃいますよ」

仔犬のように雫を払う夫の髪を、タオルで軽く押さえる。

「寝床でか。あんたの尻は、漬け物石にちょうどええけんな」
「もぅ!おとなしくしとってください」

陽気にからかう茂に、先刻までの真摯さは影を潜めている。
軽口もまた、彼の気遣いの裏返しなのだと、薄々わかっていた。

「よし」

と、夫が腰を上げる。

「しばらく浸かったら出る。あんたも支度しとけ」
「あ、はい」
「あんまり長風呂はするなよ。待ちくたびれたら、先に寝るぞ」

あっさりと言い置かれ、ぴたりと固まる。
見上げると、悪戯めいた瞳にぶつかった。

「傷の一つや二つ、構わんと言ったろ。ついでに、あんたの目玉はやっぱりおしゃべりだ。いろいろ言いたそうだし、したそうだ」

赤らんだ顔はごまかせない。
恥ずかしいのと待ち遠しいのとで、つい拗ねたように噤んだ。
茂が、ひょいと屈んで覗き込む。

「嫌か」
「…わかってて、訊かんでください」
「わかってて、言わせるな」

笑みは優しいが、彼のまなざしも熱い。
その柔らかい唇に近づきたいのを、布美枝は懸命に我慢する。
触れてしまったら、戻れなくなるのはあきらかだった。

***

急いであがるのもさもしいが、待たせてしまうのも悪く、それなりに手早く入浴を済ませて、部屋へ戻った。
敷き伸べた布団の上に、大の字になった夫が寝ている。
身じろぎもせず、本当に眠ってしまったかのようだ。
足音を忍ばせて近寄り、脇に膝をついて窺う。

「ッ、きゃ」

ぐいと手首を引かれて、彼の体に乗り上げる。
視界には長い睫、唇は重なっていた。

「っ、…ふ」

温かい感触に瞼を閉じ、広い肩に手をすべらせると、ぬるりと舌に唇をこじ開けられ、逆らわずに迎え入れる。
折り重なっての、長い接吻。
背後でシュッと布地を引かれる音がし、帯をほどかれたのがわかった。
唇が離れないまま、肌蹴られる浴衣を、自ら助けて脱ぎ捨てる。
ぴたりと額を合わせ、見つめ合ううちに、くすりと互いに噴き出した。

「笑っとる場合か」
「あなたこそ」

起き上がろうとする茂を、布美枝はそっと制す。

「…このままで」

不思議そうな夫に、さらりと軽く口づけた。

「あなたに、傷をつけたくないんです。せめて今日は、このまま――」

目(ま)の当たりにして以来、強烈に惹かれてやまない、大事な背中。
ついていきたいと思った。
ずっと見つめていたい、支えたいと。
まじまじと見上げていた茂は、ふわりと微笑む。

「本当に、珍しい日だ」

何より、この人の笑顔が、一番好きだった。

跨ったきり、慣れぬ姿勢にとまどっていると、先を促す仕草で内股を撫でられる。

「――っ」
「どげした」
「…わからん、のです。どげしたら、ええのか…」

情けないが、経験の浅い身では、実際に主導権などとれない。
彼に負担をかけたくはないのだけれど。
ふむ、と考えるそぶりで、茂が手招きする。

「もうちょっこし、上に来い」

仰向けの夫に導かれ、おそるおそる膝を進める。

「もっとだ。こっち」

言われるがままに四つん這いになった布美枝の下腹に、茂の頭がずり下がった。

「、あ」

口づけだけで潤んでいた秘部を、温かな掌で広げられる。
不安定で大胆な体勢に驚いたが、腰が引けると彼の顔に座り込んでしまう位置なので、慌てて踏ん張った。
濡れた溝の中に、急には挿し込まれない。
ただ、周辺を優しく舌で慰められる。
焦らされるのを我慢するうち、唇は中央に寄り、割れ目に沿って下から上へと舐め上げられた。

「…ッ、ふ、…ン、ぁ――」

跨いだ頭を挟みそうになり、震えながらこらえる。
彼しか知らない、秘めた蕾も、舌先で剥かれた。

「ひゃ、ッ…ア」

過敏な小粒を円周に転がされ、突っ張っていた腕が崩れる。
縦横自在に泳ぐ舌に翻弄される。
および腰になっても、太股を抱えた腕が逃してくれない。
褥に肘をつき、かろうじて立たせた腰を震わせ、布美枝は、まとわりついていた帯を噛んで耐えた。
滴る愛液を舌で掬いとるように吸われる頃には、もうどうにもならない。
ねだりながら、許しを請う矛盾。
すぼめた舌に女陰を穿たれ、蜜を啜られ、がくがくと首が揺れる。

「も…ッ、――もぅ、――ぃけ、ん…!」

膣の前壁を、ザラついた粘膜がこすり上げる刺激に、瀕死の獣のように達した。

息も絶え絶えに、布美枝は蹲(うずくま)る。
なだめる夫の腕は、さっきまでの愛撫の激しさと裏腹に、ひどく優しい。
のろのろと身を起こし、彼と視線を合わせられる場所に下がる。
局部が沸騰しそうに熱い。
求めずには収まらないほど疼いている。

「…ええですか…?」

返事を待つのもつらい。
腰の両脇に膝立ち、手で支えた硬い隆起を花弁に含ませる。
ゆるゆると重心を落とし、やがて填(は)まった安堵と快感に、ため息をついた。
夫の様子を窺うと、面白そうにこちらを眺めている。

「ゆっくりでええけん。動いてみ」
「ど、どっちに…?」

ふっと笑った茂は、布美枝の腰の後ろを掌で押さえた。
そのまま手前に引き寄せられる。

「――ッ…」

銜(くわ)え込んだ太い軸に、内部をえぐられてのけ反った。
走り抜けた痺れに、びくびくと震える。
見下ろす先の夫は、軽く眉をひそめて息を吐き、感じたのが自分だけではないと知った。
体重をかけるのはためらわれたので、おずおずと後ろ手をつく。
彼の視線に晒されつつ、充填が外れないよう、ゆっくりと腰を引いてみた。

「ッぁ、は…」

骨盤が巻き込まれるような刺激に、ひくんと顎が上がる。
腰を前に突き出すと結合が浅くなり、また引けば挿入が深くなる。
均衡がくずれぬように揺するたび、膣壁がこすられ、振動が伝播した。

「ふ、…ン」

息を荒げて茂を見つめると、繋がる箇所も乱れる様も、熱っぽい眸で注視されている。
互いの表情と反応を確かめながら、高め合う。
蕩ける肌のすべてを暴かれる淫靡な悦楽に、布美枝は目を閉じて没頭した。

「あ!」

襞から覗く剥き出しの花芽を、彼の指先に摘まれる。

「…ぁ、ん――」

くすぐるようにいじられては昂(たかぶ)り、髪を打ち振るってよがった。

「ハ…――ぁ、な――た…」

耐えられず前傾し、茂の胸に手をつく。
蕾の包皮を、相手の恥骨に擦りつけては、もっとと乞うた。
熱い掌が乳房を包んでくれる。
尖りを捻られたかと思うと、大きく揉みしだかれ、そこにも躰の重みを預けた。

「あ、ぁ――ん、ア…ッ」

腹を前後させれば、胎内を勃起が抽入し、絡まる愛液と先走りが粘ついた音を立てる。
先端が子宮口に当たったらしく、夫の呻きが低く掠れた。
次第に慣れてきた布美枝の腰は自然と揺らめき、さらなる高みを欲してうごめく。

「ひぁ…ッ」

ぐっと、肘を掴まれた。
茂が腕を引き寄せ、接合したままの腰を強く突き上げてくる。

「ッや、そ…げ、に…、――ンあ!」

浮き上がった状態で揺さぶられ、下から捻じ込まれる勢いに、感極まって涙がこぼれた。
恍惚と酔いしれ、半開きになった口内に、彼の指が進入してくる。
長くしなやかなそれを、夢中でしゃぶった。

「ぅ…ふ、ンッ、――ん、あ…ぁ」

連動する指と男根の動きに、容赦なく感帯を刺激され、愉悦に浸る。
唾液で濡れた指に、いっぱいに割り広げられた陰唇をなぞられ、芽を揉まれ、布美枝は歓喜の悲鳴をあげた。

「し、…げぇ――さ…!」

きゅっと膣内が収縮し、爆ぜた熱が充満する。
茂が何か囁くのが見えた。
一瞬硬直した布美枝の躰は、ゆったりと弛緩し、崩れ折れる。
力を失って前屈した上体を、茂が受けとめてくれた。
首筋や肩を撫でられ、触れるだけの口づけに鎮(しず)められ、少しずつ落ち着きを取り戻す。
躰が浮いて浅くなった挿入を補うように、密着して重ねる唇は深くなった。
摩擦の具合が変わり、布美枝はもどかしく腰をずらす。
触れ合う夫の唇が、笑みの形になる。
ひくつく襞の入口を、軽やかに掻き回された。

「…は…」

せつなく悶えながら、布美枝は、意識が飛ぶ間際に応え損ねた言葉を思い出そうとする。

“――ここに、…――”

多くは本音を語らぬ男の、素顔に接近できるのは、稀なひとときだ。
それをずるいと言いきるには、彼の優しさは随分と甘くて。
愛するばかりでは返しきれないものも、与えられている気がする。
高揚する肌も心もすべて明け渡し、空っぽになった心身はこの男だけに満たされている。
同じ分、それ以上に、彼にも伝えたいし、尽くしたいのに。
無力な自分が歯がゆく、それでも愛される幸せに泣けてくる。
現実の熱と充足感に凌駕され、布美枝の儚いわずらいは徐々に消し飛んでいった。

***

着直した浴衣の膝上に、夫の頭を載せ、髪に指を絡めて撫ぜる。
寝物語代わりに頼まれた、『埴生の宿』を小さく口ずさむ。
聴きながら横たわっていた茂が、いつのまにか眠りについてはいたが、布美枝は手許から離せずにいた。
つましい暮らしが続き、時にささいな諍いがあっても、彼と共に過ごせる日々は千鈞の重みだ。
木枯らしの吹く季節でも、かけがえのない温もりをもたらしてくれる。
あとふた月もすれば、結婚して一周年になる。
贅沢な祝いはできないけれど、感謝と想いを存分に贈りたい。
もしお返しがもらえるなら、布美枝の大好きな笑顔を見せて、また抱きしめてほしい。

「あたしはずぅっと、あなたと一緒ですけん。そばに、置いてくださいね…」

応えるかのようにむにむにと口が動く、無邪気な寝顔。
投げ出された右腕をそっと握り、爪の先に口づけた。

――瑠璃の床も 羨まじ 清らなりや 秋の夜半(よわ)
…我が窓よ たのしとも たのもしや――






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