村井茂×村井布美枝
(爪噛むの、癖、なのかなぁ) 家計簿からふと顔を上げて、仕事部屋の茂をぼんやりと眺める。 仕事机に背を向けて、何やら本を広げて考え事をしている。 足でページを抑えて、右手の爪を噛む仕草。 そういえばこの姿はよく目にする光景だ。 ふと首を傾げてしばし目を閉じると、瞬間、ぴんと弾かれたような閃きが走った。 「…あっ!」 布美枝の突然の奇声に茂は驚いて、びくっと肩をすくませた。 「どげした」 自分の顔を凝視する妻の顔に、いささかたじろいだ様子で問いかける。 布美枝はまるで大発見でもしたかのように、大真面目な顔で、 「爪…切れんのじゃないんですか?」 少し声を震わせるようにして慎重に訊いた。 その質問に、茂は「はあ」と答えただけだった。 なんだ、そんなことかといった風に、緊張していた肩が下がった。 「いつもどうされとったんですか?」 「どうって…別に。噛んだり」 「仰ってくれたら切るのに」 「いや、ええ」 突き放されたようで、少し気落ちしてしまう。 結婚相手が隻腕だと聴かされて、全く気にならなかったわけではなかった。 色々な不自由があるのだろう、自分がその腕となって文字通り手助けしなければ、 と意気込んでいたものの、当の本人はかなり器用な男で、 服を着るのも、仕事をするのも、飯を食べるのも、腕一本で何でもやってしまう。 不便を手伝って欲しいなどということは一切言ってこなかった。 布美枝は時折、この男が片腕だということを忘れてしまうほどだった。 「すこおし…薄くなったかな」 風呂上りの身体を鏡に映して、布美枝は独り呟いた。 数日前に胸の谷間に付けられた茂の口づけの痕が、濃い紅色から薄い桜色に変わっていた。 結婚してそろそろ一ヶ月になる。 普段はどちらかといえば素っ気無い夫が、 夜の床では時に執拗にも思える程、熱い愛撫をくれることが布美枝には驚きだった。 少しはにかみながら、茂が残した痕跡を辿っていると、 その所々に引っ掻いたような傷痕があることに気づく。 (どこかで引っ掛けたんだろうか…) 特に気にすることもなく、さっと寝間着を羽織った。 もうすぐ3月になろうかというのに、夜はしんと冷え、 布美枝の風呂上りの濡れた長い髪は、氷つくかのようにすぐに冷たくなる。 その髪の水気を丁寧に拭き取りながら居間へ戻ると、 茂は既にあどけない寝顔を曝してすやすやと眠っていた。 隣に座り、その寝顔をしばし愛で、にんまりしながら髪を梳かす。 ふと、無防備に放り出された右手に目が留まった。 目を細めてじっくり観察すると、短い爪は噛んだ痕がガタガタになっていて なんとも不揃いな様がいただけない。 そのとき、はっと先ほどの引っ掻き傷を思い出した。 (もしかして…) 痛みも感じないので気づかなかったが、もしかすると「情事」の際に、 この噛み剥がしただけの粗い爪が、布美枝の肌を引っ掻いていたのではないか。 少し考えてから「よし」と小さく呟き、布美枝は爪切りを手に取ると、 そっと構えて、左手を茂の右手に添えた。 親指の先に狙いを定めた次の瞬間。 「こら」 「ひゃあ!」 ぐっと手を掴まれ、驚いて声を上げてしまった。 寝入っていると思っていた茂が、ぱっちりと目を覚まして恨めしそうに見ている。 「殺気がしたと思ったら」 「殺気って…」 「爪切りはええと言っただろう」 「す…すんません…」 怒られる…。 布美枝はぎゅっと目を閉じて茂の怒声が降りかかってくるのに備えた。 が、身体を起こした茂は、小さくため息を吐いただけで、怒った様子はなかった。 「お…怒っとらん…ですか」 「んー…」 眠そうな目をこすってから、茂は胡坐で布団に座り込むと、 寒さに身震いしてから、しゅんと鼻をすすった。 おずおずとその様子を窺いながら、布美枝は小声で話しかける。 「爪…キレイに揃っとらんので、どこかに引っ掛けたら危ない…ですよ」 「大丈夫だろ」 「けど…」 「あーもう、ええったらええんだ」 またきっぱりと言われる。 不自由なことを蔑んでいるわけではないのに。 けれどきっとそれも分かっていて、『不自由と思われること』自体が嫌なのだろう。 東京に出てくる汽車の中でも、蜜柑の皮を剥こうと申し出た布美枝に、 ぴしゃりと断ってきた茂の物言いが思い出された。 が、何とかして茂の力になりたいと思うこの気持ちも分かって欲しかった。 ぐっと喉の奥にぶら下がった重い石のようなものを飲み込んで食い下がる。 「…何でも言って欲しいんです。貴方は、器用な方ですけん、 どげなことでも独りで出来るんでしょうけど…。どうにも、ならんことは…言って欲しいんです…」 「…」 「要らんお世話ですか…?」 身をすぼめて見上げる。 茂は布美枝ではなく、窓の方に視線をやったまま、無言でいた。 無言というのが、肯定の返事でもあるような気がして、布美枝は落ち込んだ。 しばらくの沈黙の後、はあっと大きなため息をついた茂が、がしがしと頭を掻いて、 また小さく鼻をすすると、咳払いをして布美枝を横目で見やった。 「…好かんのだ、人に爪切られるの」 「え?」 「こう…肉までえぐられそうな気がする」 「はあ…」 そしてまた黙ってしまう。 「…それだけ?」 「悪いか」 拍子抜けした布美枝が、眉を八の字にさせて脱力すると、 茂は自分の爪を見ながら、「好かんもんは好かんのだ」とふてくされたように呟いた。 「ちゃんと切りますけん、信頼してごしなさい」 まるで子どもに言ってきかせるようにして手を差し出してみたが、頑として茂は応じない。 ため息をついて布美枝は、思わず独りごちてしまった。 「このままでは全身傷だらけになってしまうわ」 それを聞き逃さなかった茂が、ふと布美枝に向き直る。 「ん?」 「あ、いえ」 「なんだ」 「…お、大袈裟なことではないんです」 俯いて少し顔を赤らめた布美枝を見て、はた、と茂は何かに気づいたようで、 そっと布美枝に近寄り、下から顎をすくって自分の方へ向けさせる。 「どこか、引っ掻いたか」 あまりの接近に、思わず目をそらす布美枝。 黙っている妻に焦れた様子を見せるが、逆にそれが答えなのだと悟ったようで、 自らを省みて「うーん」と呻ると、 「あーもう、わかった。早ぅ終わらせぇよ。慎重にやれ!」 と、遂に観念してその右手を差し出したのである。 ぱっと笑顔になった布美枝は、いそいそとその右手を取り、 親指、人差し指と爪を切り揃えていった。 「…そげにじっと見られたら緊張して手元が狂います」 「目を閉じとる方が逆に恐ろしいわ!あ、あ、切りすぎでないか?もっとゆっくり、早う終わらせ」 「無茶言わんでください。すぐに終わりますけん…じっとしとって」 そわそわと落ち着かない茂の右手をしっかり捕まえて、その指先に集中する。 恐々その様子を窺っている茂が、妙に可愛らしく思えて、知らず知らずに口元が緩んでいた。 小指の爪を切り揃え終わると、茂は待ちきれずにさっと手を引っ込める。 しげしげと爪を観察して、ふっと息を吹きかけ、強張っていた肩を降ろした。 くすり、と布美枝がその様子を見て笑うと、咎めるようにじろりと睨む。 そして、ずい、と間合いを詰めてくると 「これでもう触っても文句ないな」 言うなり、布美枝の後頭部を引き寄せ、やや乱暴に唇を奪った。 驚く間もなく、咥えるように唇が覆いかぶさり、音を立てて舌を吸われる。 「ん…ふっ…」 鼻から洩れる息とともに、震えた喘ぎがこぼれた。 何度も何度も、追いかけてきては掬われていく舌の動きに、 布美枝の身体はじわじわと快感を示して花開いてゆく。 やがて、茂の肩に置かれた布美枝の手から、するりと爪きりが茂の懐に滑り落ちた。 そのはずみに思わず口づけを中断した二人が、同時にそちらを見たので ――ごちっ。 見事に互いの額をぶつけた。 「痛…」 二人は顔を見合わせて、はにかむように笑った。 「どこだ?」 「え?」 寝間着の合わせ目を探り、落ち込んだ爪きりを取り出して、茂が問う。 「引っ掻いた痕。どこに付いとる」 「…」 身体を縛る帯を解きながら、 問いかける唇が顎を持ち上げ、首筋に沿って啄ばむように転々と吸い付く。 「…貴方が付けたんですけん…貴方が、探して、ください」 「お。言うたな」 まるでこれから宝探しでも始めるかのように、茂は愉快そうに口の片端を上げた。 右手を背中に回して布美枝の身体を支えながら、肩に舌を滑らせて寝間着をずらす。 至るところに口づけを落としながら、また紅色の印を付けてまわる。 胸の谷間に顔を埋めれば、背中から移動してきた大きな右手が、 布美枝の乳房を優しく、強く、撫で揺すり、揉み揺らす。 支えがなくなった身体を、さらに不安定にさせる茂の愛撫が、 たまらなく心地よくて、後ろに突いた布美枝の両腕が、がくがくと震えた。 「…あった」 ぽつりと呟いた茂の言葉に、そちらを見下ろすと、 左の乳房の谷間側に、問題の引っ掻き傷を見つけたようで。 傷痕に軽く口づけ、そして舌の腹全体で大袈裟に舐め上げた。 「あっ……っ!」 ついに耐え切れなくなった布美枝の腕が崩れ、そのままどさりと後ろに倒れた。 追いかけて覆いかぶさる茂は、追撃の手を緩めようとしない。 柔い双丘のふもとから、一気に頂上を攻め上げ、突端の尖りを吸い上げたかと思うと、 一方を指が捏ねくり、一方を舌が巻き取る。 背をのけぞらせて快感をやり過ごそうとすると、その姿勢はまるで 「もっと」とせがんでいるように思えて、布美枝は身を捩ってぎゅっと目を閉じた。 「ここにも」 つ、と茂の指が脇腹を這い、また薬でも塗るかのように舐める。 「ふっ…あ…」 真剣なのか、遊んでいるのか、茂の挙動全てに翻弄される。 それでも甘んじてそれを受けている生来の性は、否定など出来ない。 この男以外を知らない布美枝だが、これ以上の愛され方はない、と本能は知っていた。 一糸纏わぬ姿態を曝して、どうにも落ち着かない脚を摺り寄せていると、 左の脚をすくわれて少し驚いた。 「ここもだ」 足首に唇が触れたが、果たして本当にそんな所を引っ掻かれたりなどされるだろうか? 「本当ですか?」 「ああ。ここも」 布美枝の白い脚を持ち上げたまま、今度は膝をぺろりと舐めた。 「…嘘」 訝しげに見上げる布美枝に、茂はふっと笑みを投げると 「ここも、ここも」と言いながら脚を溯って口づける。 「あ…んっ…んんっ」 くすぐったさと、恥ずかしさが相まって我ながら随分甘い声だと思った。 茂の愛撫が内股を掠めたとき、布美枝の心臓はこれまでになく一段と高鳴った。 「…や、あっ…!」 熱湯をかけられたかと思ったほどに、布美枝の秘所が一瞬沸き上がった。 既に十分なほどに潤いを潜めていたその場所で、茂の舌がそれ自体別の生物のように蠢く。 花びらを割り開いて、上部にひくつく突起を探し当てると、絡め取るように貪られた。 淫らしく、猥らな水音。 布美枝の耳に届くと、それがまた引き金となって止めどなく愛液が染み出してくる。 「…ふっ…んぅ…あぁ…」 腰を捩っても、強く押さえつける右腕からは逃れられない。 やがて女陰を割り入ってくる舌の温もりに侵され、背をのけぞらせて褥を乱す。 掻き乱される内側に痺れをきらせて、耐えることができずに声を上げた。 そうしてひとしきり弄ばれ、朦朧とした意識の中、視界の端に茂の顔を認める。 何も語りはしないが、優しく降りてくる唇が、布美枝との「交じり」を切望している。 そのまま口づけは背にまわり、うつ伏せられた布美枝は茂の動きを気配で感じるしかなかった。 それでも予想のつかない愛撫の行方は、茂の為すがまま。 腹の下に右手を差し入れられ、気怠るい腰を上げざるをえなくなる。 持ち上げた尻から滴っていく、淫らな愛液を体感し羞恥していると、 突然、硬度と熱を保った塊が、その間に分け入って突き上げてきた。 「…っあっ…っ!」 虚を衝かれた熱情の貫きに、一瞬真っ白の世界を見た。 しかしすぐに現実に引き戻される。 奥深くに勢いを叩きつけられれば、すぐにスッと去っていく虚空。そしてまた充填。 茂の寝間着は肌蹴られ、堅く熱い胸板を布美枝は背中に感じながら、 前身は右手に、背後は口づけに、激しいほど淫らな攻めを受け、獣のような声を引きずり出される。 「…腰を、下げたらいけんっ…」 背後からの茂の声に、はっとして下がりかけた腰を持ち上げる。 けれど脚に力が入らず、上半身を布団に擦り付けるようにして支えた。 肉のぶつかる乾いた音、互いの液が交じり合う湿った音。 相反する卑猥な物音に重ねて、茂の短く荒い息の中に、昂ぶる興奮の掠れた声も聞こえる。 「はあっ…あ、あ、んっ…あ、ふ…っ」 動物のような繋がりに、野生のごとく喘ぐ。 より一層速度を上げる摩擦に、押し出されるように涙が溢れた。 大きな熱い胸に、背中からぎゅっと抱きしめられる。 その温もりに言い知れぬ安堵を感じた。 直線的な運動の果てに、大熱の飛沫が胎奥に射たれる頃、 布美枝の意識は既にその身体の中には無かった。 耳元で、ちゅ、ちゅ、と鳥が啄ばむような音がして、布美枝はうっすら目を開けた。 布団にうつ伏せたまま、頬や耳に茂の口づけを受けていた。 乱れた髪を、手櫛で優しく梳かしてくれている。 目線だけでそちらを見やると、心配気に覗き込まれ、恥ずかしくなってさっと布団に顔を押し付けた。 茂は、布美枝の挙動に静かに微笑うと、また軽い口づけを続けた。 今度は布美枝もふふふ、と笑って顔を上げ、ようやく唇で受け止めた。 「…あ」 「ん?」 はた、とまた閃きに弾かれた布美枝が、茂を見上げた。 「耳掻きは…不自由じゃないですか?」 「…」 その言葉に、とたんにサッと雲を宿した茂の顔を、布美枝は見逃さなかった。 「苦手なんですね」 「…」 「貴方って、案外怖がりなんですねぇ」 「…だらっ!黙れっ」 その後、しばらく二人はなんだかんだと言い合って、 やがてしぶしぶといった様子で、茂は布美枝の膝枕についた。 ぎゅっと目を閉じて肩をすくめ、右手は拳を作って構える。 「そげに大袈裟な」 「ええけん、早ことせ」 「はいはい」 呆れながらその横顔を見つめ、くすっと笑った。 この大男が、耳掻きひとつに小さくなるのは滑稽としか言いようがない。 しばらく茂は、布美枝の操る耳かき棒に、あれやこれやと文句をつけていたが、 しかし間もなく、すう、と寝息を立て始めた。 頬を軽く捻ってみても、小さく呻るだけで全く起きる気配がない。 「呆れた…」 布美枝はため息まじりに微笑んで、 そっと頬に口づけた。 SS一覧に戻る メインページに戻る |