村井茂×村井布美枝
![]() 「あら」 珍しく早起きの夫に驚く。 「早いですね。どげしました」 「…よしこは?」 寝ぼけ声の、ひらがなしゃべり。 「眠っとりますよ」 居間の布団に寝かせた次女の許へ、茂はのそのそと近づく。 どうやら赤ん坊にかまいたくて、早々と起き出してきたらしい。 長女も生まれたばかりの妹に興味津津の態(てい)で、ずっと寝顔を覗き込んでいる。 「藍子、幼稚園はええのか」 「きょうはおやすみー」 「3学期は来週からですよ」 布団の脇にごろんと寝転び、茂は、赤子の頭に鼻を寄せる。 そういえば藍子が生まれた時も、同じようによく匂いを嗅いでいた。 くんくんと鼻を鳴らして、「芋の匂いがする」と呟く。 「お芋ですか」 「すりつぶしたスープみたいな、あれだ」 炭水化物を連想したようだ。 「ころころとよう太って、旨そうだ」 「食べんでくださいね?」 布美枝が茶化すと、彼は大真面目に、ぷっくりとふくらんだ赤子の頬に、はむっと吸いつく。 次女が、きゃらきゃらと声をあげた。 睡眠と覚醒が数時間おきにくる時期だが、ちょうど目が覚める頃合いだったようだ。 「お。喜子はお父ちゃんが好きか」 応えるふうに、にぎった拳を揺らす我が子に、堅物な男も相好をくずす。 そのまま、ちょん、と娘の唇をついばんだ。 「あいこも、おとうちゃんすきー」 日頃多忙な父親にここぞと甘えたいのか、藍子は茂の右腕をつかむ。 長女の小さな唇の端にも触れて、 「両手に花だな」 愛娘たちに囲まれた夫はご満悦だ。 微笑ましいような、羨ましいような、妙な心地になり、布美枝は肩をすくめる。 「よし。二人とも手放さんぞ」 頷いて立ち上がり、茂は妻を振り返る。 「藍子も喜子も、よそへはやらん。婿をとる」 気の早すぎる宣言に、呆気にとられるより噴き出してしまった。 「二十年は先の話じゃありませんか」 「今からそのつもりでいろと言っとるんだ」 戯れでなく本気の様子だ。 「相手は次男か三男だな。転勤のない仕事でないといけん。兄貴や義姉さんは顔が広いけん、 ええのを見繕ってもらうように早いうちから頼んどかんとな」 「はいはい」 幼い長女は、将来の見合い話が構想されていることもわからぬふうに、小首を傾げて父母を見比べている。 「喜子のほっぺもええですけど、朝ごはん食べませんか。今日は七草粥ですよ」 用意の良い妹が、前日から支度してくれている。 「おまえ、寝てなくてええのか。腹は痛まんのか」 昨日も、彼はしきりに心配していた。 「大丈夫ですよ。手術後の回復も順調だと、お医者さんも言っておられましたし。もう痛みもないです」 「無理はするなよ。家事も代わってもらえ」 「はい」 今朝も妹が洗濯を引き受けてくれているし、年越しの準備も担ってくれた。 本当は、家計にゆとりが出て以来、まともに祝える初めての正月だから、自分でおせちも作りたかったのだけれど。 「いろいろ、ありましたねえ」 「? なにがだ」 「去年はいろんなことが次々とあって、ずいぶん生活が変わりましたけん。なんだか不思議な気がして」 一昨年末の受賞を契機に、夫をとりまく環境は激変した。 引きも切らずに仕事の注文が舞い込み、助手を雇い、会社を立ち上げ、家を改築し、作品がテレビ放送までされた。 夢物語のように目まぐるしい毎日の隙間にふっと訪れる、こんな穏やかなひとときが、ことのほか嬉しく、身にしみる。 「なにを言うとる。まだまだ、これからだ。鬼太郎がテレビになるかもしれんのだしな」 「そげですね」 これ以上は望むべくもない。 願うは、何が起きようとも、自分は常に、この人の傍らにあり続けたいということ。 ただ、それだけでいい。 「そうだ。お父ちゃん」 「ん」 「後で、爪切ってあげますね。新年、初爪切りです」 「いらん」 「七草をひたした水につけてから切ると、その年は風邪をひかないそうですよ」 「いらんといったら、いらん」 「相変わらずですねえ」 唇を尖らせてテーブルにつき、新聞を広げる姿は、意固地なでっかい子どもみたいだ。 苦笑しつつ、温めた粥を椀によそう。 セリにナズナ、ゴギョウとハコベラ、スズナにスズシロとなじみの他に、ネギやホウレンソウ、ミツバも刻んである。 商店街の主婦仲間に、若菜を豊富に加えると良いと教わった。 「今年もみんな、健康で元気に暮らせるように、おまじないです」 「まじないなら、俺はいつも食っとるぞ」 「え?」 「我が家には、とびきりのナズナが常備されとるけん。一番の滋養だ」 匙に盛った粥を吹きながらぱくつく夫は、涼しげに平然としている。 「…もぅ」 布美枝は、かすかに頬を赤らめ、上目で見やる。 「藍子も喜子も、俺とおまえの養分を吸収して生まれたんだけん」 「養分って」 「そげだろう? 元々は俺の中におって、おまえに行き渡って、ようやっと外に出てきたんだ。丈夫にたくましく育つさ」 変わらぬ飄々と自由な、この大黒柱に守られる道程は、きっとこれからも、少しせつなく、だが胸温まる日々だろう。 めったに揺るがず、周りを率いてゆく男が頼もしい反面、たまには独り占めして、娘たちのように素直に甘えたい本音もまじる。 たたまれた新聞の横から近づき、一瞬、茂の目許に唇を寄せた。 きょとんと見上げる彼の瞳が、やがて、ふわりとやわらぐ。 そっと手首をにぎられてかがむ。 子どもたちの目を盗んでの、年明けて最初の口づけは、軽やかに優しく。 夫の唇からは、ほのかに甘い、ミルクに似た香りがした。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |