仲直り大作戦
村井茂×村井布美枝


昭和54年、初夏。
騒動の発端は、何気ない喜子の一言だった。

「ねぇ、おとうちゃん、おかあちゃん。私、弟か妹が欲しいんだけど、ダメかな?」

茂は口に含んだばかりの味噌汁を噴き出し、
布美枝は茶碗を持ったまま石のごとく固まった。
藍子はポテトサラダを喉に詰まらせている。

「〜〜〜よっちゃん!」

赤面する両親より先に、姉が真っ赤になって一喝した。

「何言い出すの、こんな夕食時に!」
「え、だって、おとうちゃんとおかあちゃんが揃ってるときのがいいかと思って」
「揃ってって…」

娘から見ても純情一直線の母などは、まるで茹でダコのような状態になっているというのに
きょとんと姉を見つめる喜子の顔はさっぱりしたものだった。

「いくらなんでも無神経すぎない?」
「ええ〜そうかな」
「あんたには思春期ってもんがないの?ぽんと買ってもらえる物じゃないんだよ?」
「そんなこと解ってるよ〜」
「だったらどうやったら子どもができるか、理解して言ってるってこと?」
「うん、だからさ〜」
「おい」

それまで黙っていた茂が、眼鏡を拭きながらやや俯き加減で二人を制した。

「藍子、お前もだいぶ身も蓋もないこと言うとるぞ」

はっとして、勢いをなくす藍子。代わりに茂が続けた。

「どげしたんだ、なんか理由があるのか」

その言葉に、喜子はうん、と頷いて話し始めた。

「今日もね、遅刻したんだけど。先生がさ、もっとしっかりしなさいって言うわけよ」

もっともだ、と布美枝と藍子は頷いた。

「それからね、この前の小テストの答案が却ってきたんだけど。点も悪かったうえに、
私、名前書き忘れちゃっててさ〜。ま〜た先生に怒られて呆れられちゃった」
「喜子…」

娘のあまりのドジぶりに、布美枝は情けなくなってきてしまった。
しかし茂は大真面目に、箸を進めながら聴き入っている。

「あとね、体育があったのに体操着忘れちゃって。クラスの子に笑われるし」
「よっちゃん…」
「帰り道でちょっとお菓子を買って帰ってたら、お店にお財布忘れちゃって!
あとから小学生が追っかけてきてくれたんだけど、延々お説教されちゃった」

開いた口が塞がらない、という言葉を今までこの身で経験したことのなかった布美枝が、
初めて今その状態になっていることに、心底哀しくなってしまった。

「で?」茂が続きを促すように問いかける。
「でね、私考えたの。私がどうしてこんなにしっかりしてないのか」
「ほう」
「それは、私が妹だからなのよ」
「意味解んないんだけど」

藍子が呆れたようにため息をついた。

「だから〜、お姉ちゃんが昔からしっかり者って言われるのは、私みたいな妹の世話をしてきたからでしょ。
私にだって手のかかる下の兄弟がいたら、自然としっかりしてくるんじゃないかなって」
「どうやったらそんな飛躍的な考えになるのかなぁ…」

全く相手にしない藍子の横で、茂はふむふむと頷いている。
喜子は、そんな茂に向かって身を乗り出した。

「おとうちゃん、ダメかな?もう無理なの?」
「何を言うか、おとうちゃんはまだまだ現役だ」
「おとうちゃんっ」

胸をはって言う茂に、藍子は慌てて牽制した。が、茂は無視して続ける。

「おかあちゃんの方がもう上がっとるんじゃないのか」
「あ、上がってなんかないですよ!」

急に妙な振られ方をしたので、慌てて反応してしまった自分を反省しつつ、
それでも茂の言葉に少しムッとする。
横で喜子が「アガルって何?」と無邪気に姉に問いかけていたが、

「おかあちゃんまで。もうやめてよ」

泣きそうな声で藍子が二人の間に割って入り、しばしその場は静まった。

しん、としてしまった食卓を、何とかせねばと布美枝は懸命に言葉を探した。

「よ、喜子はちょっこしおっちょこちょいだけど、それは生まれつきの性格だわね。
下がおってもしっかりするとは限らんし。ねえ、藍子」

げんなりした様子で軽く頷いて、藍子は食器を片付け始めた。
布美枝もそれに倣ってそそくさと皿を重ねる。
ちらと窺った喜子の肩が、ずいぶんがっかりと落ち込んでいるのを見て、ちく、と胸が痛む。
あれこれ考えて、布美枝は喜子に笑いかけながら言った。

「ほ、ほら喜子。おとうちゃんだってねえ?下に光おじちゃんがいるけど、
どっちが弟かわからんくらいに、おじちゃんの方がしっかりしとるじゃない」

が、この言葉が今度は茂の神経を逆撫でたようで。
反応した茂の眼鏡が、きらりと光ったように見えた。

「おい、なんだ?まるで俺がしっかりしとらんみたいな言い草でないか」
「だって、おとうちゃんは何でもかんでも勝手にあれこれ進めて、
自分の好きなことはぜえーったい譲れんって押し通すじゃないですか。
光男さんは堅実な方だけん、マネージャーとして上手くフォローしてくれとるけど、
どっちが兄かわからんて、たまに編集の方も…」
「俺は一個部隊を統率しとるんだぞ!」

茂得意の「一個部隊」が出た。布美枝は思わず応戦する。

「それがそもそも子ども染みとるんです!いつまでもガキ大将みたいなこと言って」
「なにを!」

計らずも、夫婦喧嘩の装いを呈してきた食卓に、娘二人はただあわあわするだけだった。
ちっと舌打ちをして茂は、吐き捨てるように呟く。

「…自分のことは棚に上げて、よう言うわ」
「ど、どういう意味ですか」
「お前だって下がおるくせに、とても姉とは思えんぼんやりした性格しとるでないか」
「あ、あたしは!6人兄弟の、真ん中だけん!あんまりしっかりせんでも周りが…」
「それが棚に上げとると言うんだ!」
「放っといてください!」

布美枝と茂は、口を尖らせてにらみ合うと、やがてふんっとそっぽを向いた。
間に挟まれた藍子と喜子は、かける言葉も見つからずに互いの顔を見合わせた。

茂と布美枝の喧嘩は3日目に突入し、
殺伐とした2人の間の空気に、娘ふたりをはじめ、アシスタントや光男、
果ては原稿を取りに来る編集者まで、周囲は日々振り回されていた。

「よっちゃんのせいだからね」

うんざりした顔で机に突っ伏し、藍子は隣のベッドで寝転がる喜子を責めた。

「このままじゃ、弟や妹どころか、離婚の危機だよ」
「えっ、それは困るよ」

茂の漫画から顔を上げた喜子が、慌ててその身を起こした。
「そうだ」と独りごちて、名案の閃きに顔をキラキラさせて姉を見上げる。

「映画のチケットでも渡してさ、一緒に行かせて仲直りさせるってのはどうかな」
「うーん、でもあのふたり、趣味があんまり合わないからねぇ」

茂はアクションや戦争物を好むが、布美枝はまったりとした純愛話が好きな方だ。
映画館の前で諍いになったのでは元も子もない。

「深大寺あたりでお蕎麦でも食べさせれば、おとうちゃんの機嫌も直るかな」
「おかあちゃんはどうするの」
「そのあとデパートにでも連れていけば…」
「ダメだよ、どうせおとうちゃんがウロウロして好きなとこに行っちゃうだけよ」

娘ふたりは同時に腕組みをして、同じように眉間に皺を寄せ、深く頭を悩ませた。
やおら、喜子がゆるりと頭を上げ、少し低音調で静かに呟いた。

「…こうなったら、一芝居打つしかないか」

喜子のその表情に、藍子はどこか「ねずみ男」の片鱗を垣間見、ぞくっと身を震わせた。

翌日―――。

「おかあちゃん!大変!」

買い物から帰り、布美枝が玄関の扉を開けた途端、顔面蒼白の藍子が駆け寄ってきた。
テスト期間中だったので、半日の授業で帰宅していたらしい。

「今…警察の人から電話があって」
「警察?」

尋常でない事態に、布美枝は眉をひそめた。
言葉が続かない藍子の肩を揺すり、先を促す。
藍子はやっとのことで震える声を発した。

「富士山の…あの山小屋…か、火事になって…」
「えっ?!」

すると、ただならぬ気配を感じたのか、向こうから茂がやってきて藍子を覗き込む。

「どげしたんだ」
「山小屋…燃えちゃったって…」

そう言ってから、藍子はその場にへたり込んだ。
泣いているのか、顔を覆ってぼそぼそと呟く。

「警察のひとが…おとうちゃんに、すぐ来て欲しいって…」

茂と布美枝は顔を見合わせた。
布美枝は酷く動揺して、藍子をどうにか慰めようと思うのだが、
自分自身の中の整理がなかなかつかずに呆然と佇んでいた。

子どもたちが大きくなってしまって、しばらく訪れることのなかった富士山麓の山小屋。
けれど、村井家の思い出がたくさん詰まった、大切な第二の我が家だった。
その山小屋が燃えた…?
布美枝の胸の奥がぐっと熱重くなって、一気に瞳まで熱が上昇したかと思うと、
とたんに大粒の涙となって頬を伝った。

「落ち着け」

茂は藍子の手を引きながら、布美枝に向かって言った。
その声にはっとして、我にかえる。

「とりあえず、行ってくる」
「あ…あ、車!車、まわします」
「ええ。タクシーで行く」

動揺する布美枝を気遣ってか、茂は静かに布美枝を制した。
が、居ても立ってもいられないのが本音だった。

「いえ!あたしも行きます」

凛とした瞳を向ける布美枝を茂はしばし見つめていたが、やがて藍子の肩をぽんと叩くと、

「ほんなら、おかあちゃんと行って来るけん、留守番頼む」

言ってから奥へ戻っていった。

布美枝は、ほうとため息をついてから、慌てて涙を拭き取り、藍子に無理矢理微笑んでみせた。

「喜子は?」
「まだ帰ってない…。おじいちゃんたちも出掛けちゃってるし」
「…独りで、大丈夫?」
「菅井さんたちがいるし。大丈夫だよ」

力なく微笑む藍子を不憫に思いつつも、布美枝は身支度を整えた。

車中、茂も布美枝も言葉は無かった。
先日から引きずっている喧嘩のことも相まって、正直茂との距離を量りかねていた。
窓の外に過ぎ行く景色を、ただ黙って見つめる夫は、今何を考えているのか。
多忙を極める中でも、幼い子どもたちを連れて過ごしたあの山小屋での時間。
そして時折、子どもたちの目を盗んで星降る夜空をふたりで眺めたひとときを、
この人も大切に記憶してくれているだろうか…。

信号が青に変わったことに気づかずに、布美枝はじっと一点を見つめていた。
後方からクラクションを鳴らされても気づかない。

「おい」

茂が布美枝の肩を軽く揺らした。

「え、あ!すみません」

慌ててギヤを入れると、とたんにエンストを起こした。

「落ち着け」

呆れたように、後ろの車は布美枝たちを追い越して行ってしまった。
焦る布美枝の手を、茂の手がぎゅっと握った。

「…おとうちゃん」
「慌てんでもええんだ。ゆっくりで、ええんだけん」

言葉にも温度がある、と布美枝は思った。
茂の言葉と大きな右手に、心も身体も温められて、じわりとまた涙が浮かんできた。

※ ※ ※

村井家の電話が、けたたましく鳴り響いた。
藍子と喜子はその前に揃って正座をし、何度もジャンケンを繰り返している。
何度目かの勝負で藍子が負け、怒りと悲しみが入り混じった顔で喜子を睨む。
喜子は「はやくはやく!」と電話を指差し、藍子は震えながら受話器を手に取った。
そっと耳に宛てて「…はい」

『あ〜い〜こ〜!』

受話器の向こうの布美枝の声は、地の底から這い出してきた魍魎のように怨めしく響いた。

『どげなっとるのっ!山小屋、火事どころかボヤひとつ起きとらんじゃない!!』
「ごめんなさいっ!!」

平謝りの藍子の横で、喜子も顔をしかめて念仏を唱えている。

『なして嘘なんかついたの?!』
「それは…そのぅ…ふたりに、仲直りしてほしかったから…」
『大袈裟なことして!』
「だからごめんってば…」

口を尖らせながら、それでもこちらの分が悪いことは藍子も承知していた。

『ついてええ嘘と、そうでない…』

布美枝の声が遮られて、今度は電話口に茂が出た。

『藍子か』
「おとうちゃん、あの…ご」
『作戦参謀は喜子だな』
「えっ」

思わず喜子を振り返る。参謀は「ん?」と目玉をきょろりとさせた。

『お前はこげな大胆で荒っぽいことはせんだろ。けど実行部隊に使われたか。
まあええ。お前らふたり、首洗って待っとけ、ええな』

言うなり、がちゃんと一方的に切られた。
サーと血の気が引いて行く音が聴こえた気がした。

茂の言うとおり、今回のシナリオを作ったのは全て喜子だった。
そして、嘘の情報を両親に報せる役回りは、藍子が適任だと言い出したのも喜子だった。
自分より、真面目一徹の姉が演じる方が説得力があるのだ、などと押し通されたのだ。
しかし今になって考えれば、妹の口車に乗せられてとんでもないことをしでかしたのではないか。
藍子は悔やんでも悔やみきれない大後悔の渦に飲み込まれて行った。

「…おとうちゃん、何て?」

姉のただならぬ様子を見て取ったのか、さすがの喜子も作り笑顔が引きつっていた。

「米が食いたいな」
電話を切ったあと、茂は2個めの菓子パンをむしゃむしゃと食べ始めた。

山小屋からしばらく下った先にある商店の軒先で、ふたりはベンチに腰掛けていた。
布美枝はまだ、斜め前の赤い公衆電話を睨みつけてぶつぶつと文句を言っている。

「信じられんわ、藍子があげな芝居がかった嘘つくなんて!」
「黒幕はもう一匹の方だわ。まあ、俺たちの仲裁が目的だったんだけん、多少は大目に見んとな」

布美枝の手元の菓子パンを指差して「食わんのか」と茂。

「おとうちゃんは許せるの?あんな嘘つかれて!」

飄々としている茂に、半ば呆れる。
思い出の詰まった山小屋を失ったと信じ込んで、重苦しい胸をずっと抱えていた布美枝は、
その胸苦しさをぶつける先を求めて興奮していた。

「あーもう!早く帰ってお灸据えてやらんと!」

目を吊り上げて持っていたパンを茂に渡し、勢いよく立ち上がった。

「帰るのか?」
「え?」

渡されたパンの袋を器用に開けながら、茂は布美枝を見上げた。

「今から帰っとったら夜中になるぞ。お前も運転し通しでは辛いだろう」
「え…けど…」
「折角だ、参謀殿の策に乗ってやれ」

涼しい顔の茂を見下ろしながら、布美枝は早鐘を打ち始めた鼓動に戸惑った。
喜子の…策に乗る。
つまりそれは。

「…三人目…」

思わず布美枝が呟いた言葉に、茂は一瞬きょとんとして、それからぶっと噴き出した。

「そこまで露骨には言っとらん」

げらげらと茂が笑う横で、かーっと全身の血が顔に向かって走り始めるのを感じて、
布美枝は乱暴にベンチに座りなおすと、飲みかけのぬるくなったお茶を、ぐっと飲み干した。

しばらくぶりに訪れた山小屋は、それでも何とか電気も通っていて、
少し埃っぽいのを我慢すれば、置いてあった布団も使える程度のものだった。
布美枝が小屋の掃除をしている間、茂は外で火を起こしていた。
ここに来たときには、茂が起こす火でインスタントコーヒーを飲むのが、いつしか恒例になっていた。

初夏の富士山麓の夜は涼しく、むしろ少し寒いくらいで、布美枝は茂の上着を持って外に出た。

「火を起こしとったけん暑い。俺はええけん、お前着とけ」

上着には洗濯をしているにも関わらず、夫の匂いが染み付いている。
ふわりと羽織ると、まるで抱きしめられているかのように心地良い。
そっと茂の隣に腰を下ろして、コーヒーを淹れたカップを渡す。
揺れる炎に照らされて、橙色に浮かぶ茂の顔をちらと窺いながら、
目が合いそうになって、さっと自分のカップに視線を戻す。
が、慌てて視線を逸らしたのに気づかれて、くくく、と笑われた。

「なーにをさっきからそわそわしとるんだ」
「べ、別に」

今さらふたりきりになったところで、緊張するのも可笑しな話だ。
何年夫婦をやってきているのか…。などと。
自分を誤魔化し、昂ぶる鼓動を押しとどめてみるのだが、一向に鎮まる気配がない。

ぱちぱちと踊る火の音を聴きながら、布美枝は再び茂の横顔に視線を向けた。
ゆるりと微笑む愛しい男は、やがてその腕で布美枝を引き寄せ、
そ…っと、柔らかな唇で触れてくれた。
激しく奪うような口づけではなく、甘く蕩けるような口づけでもない。
どこか恥ずかしそうな、戸惑い、布美枝の反応を窺うような、多少硬ささえも感じられるような。
唇が離れてから、茂は「ふ」と笑った。

「久々だけん、ちょっこし緊張した」
「…おとうちゃん…」

ようやく布美枝も肩の力が抜け、くすくすと笑った。

小屋へ戻ると、茂は奥から蝋燭を出してきて火を点けるよう促した。
月明かりだけでは乏しかった部屋の明かりが、ぱあっと蛍光に染まる。
茂を振り返ると、またあの優しい微笑みが布美枝を見つめていた。

「ほい、こっち来てみろ」

壁に背中を預けて、脚を放り出した格好で手招きで呼ばれる。

「猫呼ぶみたいに」

少し不満げにむくれてみる。

「なんだ、難しい奴だな」

言いながら眼鏡をはずして窓際に置くと、布美枝の手を引いて後ろから抱きしめた。
茂の腕に収まるのは、本当に久しぶりだった。
これほど安心できる場所は他にないのに、どうして今までこの場所を忘れていられたのだろう。
しかし布美枝はすぐに俯いて、茂の右腕を両手でぎゅっと掴んだ。

「…おとうちゃん」
「ん」

茂の返事は耳のすぐ後ろから聴こえた。
布美枝の次の言葉を待つ間、促すように唇で項を突つかれる。

「あたし…やっぱり」

少し逃げるように、茂の腕を解いた。
向かい合う形で茂に向き直り、俯いたまま言葉を探した。

「嫌か」

咎める風はなく、優しく問われる。ぶるぶると首を振った。

「ちょっこし…癪で」
「ん?」
「子どもたちにお膳立てしてもらうなんて」

茂は苦笑したが、すぐにまた布美枝の手を引いて自分の胸に収める。

「こうなったら喜子のリクエストに応えてやらんとな」
「え」
「俺は一向に構わんぞ。子どもが何人おったって」
「あたしの身がもちませんっ」

膨れ面をした布美枝の左頬を軽く捻って、茂は笑った。つられて布美枝も笑う。
笑顔が途切れた頃、どちらからともなく唇が触れ合い、
隙間なく合わさった身体は、ゆっくりと傾き堕ちていった。

瞼から頬へ、頬から耳へ、耳から顔のラインを辿って顎へ。
茂の唇はゆっくりと下降し、ひとつボタンをはずすたびに、
焦れるようにブラウスの合わせを顎で除けて開いていく。
やがて露わになった乳房を、慈しむように眺め、頬を寄せる。

「…あんまり…見んでください」
「なして」
「…年を取りましたけん…」

恥らうように顔を背け、ぼそぼそと呟く。

元々凹凸の激しい体型ではないことは、昔からの悩みの種だったけれど、
寄る年波に衰える身体をじっと見られるのは、尚更惨めな気持ちがした。
茂は少し肩をすくめると、震える乳輪に沿うようにぐるりと舌を這わせた。

「あ…っん…」

瞬時に尖った先端から、ねっとりと包み込んで赤子のように吸い上げる。
一方の乳房は大きな右手に翻弄され、揉み上げられる度に形を変えた。

「お前は何も変わっとらん」

胸の谷間でくぐもった声。
見下ろすと、先端に絡みついた唾液を蝋燭の火が煌々と反射して照らしていた。

「敏感な場所も」囁きながら、耳たぶを齧られる。
「っ…ゃあ…」
「猫みたいな声も」喉元に口づけ。
「ふ…」
「白い肌も」臍から胸へ、節ばんだ指が滑り上がる。
「…あ」
「昔と同じだ、何もかも…」

落ち着いた声とはうらはらな、激しい愛撫。
茂の唇が落とされる先々に、転々と付いていく紅い痕。
いつも机上の原稿に向かっている夫の身体と、指と、瞳と、意識。
その全てを独り占めできる時間はこのひとときだけだ。
せめて心地のよい時間を提供したいと常々思い続けてきたけれど、
結局翻弄されるのは布美枝の方で、それはずっとずっと、今になっても変わらない。

いつの間にか、身に纏う全てを剥ぎ取られ、白い肌に月光が落ちていた。
見上げた先には、肌蹴た自らのシャツと格闘する男の姿。
そっと腕を伸ばして手助けをすると、伏し目がちの眼が静かにこちらに向けられた。
漆黒の瞳に捕まって、そこから逃れられずにじっと見つめ上げた。
落とされる視姦に暴走する鼓動が、猥らな欲を呼び起こし布美枝を急き立てる。
伸ばした腕をそのまま首の後ろへ絡みつかせて引き寄せた。
深く重なり、交差する唇。呼吸と舌の応酬。
茂の右手が布美枝の腰骨を撫でると、するりと秘部へ持ち込まれる。

「あ…」

迎え入れるための潤いは未だ不十分で、それは布美枝の緊張の証拠でもあった。
指先でそれを感じ取った茂が、ゆっくりと下から上へ擦り上げる。
行き止まりの先に隠された尖りを探し当て、二指で摘み弄ぶ。

「っ…はぁ…」

弛緩していく脚の間から、とろとろと熱いものが溢れ出す感覚。
潤滑油を指に纏わせ、そのまま挿し入れられ、奥を探られはじめた。

「あ…あ…んぅ…」

快感に打ち震え、背をのけぞらせて布団を握り締めた。
す、と覆いかぶさった温もりが消え、ぽかんと空間を仰いだ。
刹那。

「や!」

力を無くしかけた脚の間に、茂の顔が埋もれる。
柔毛を掻き分け、まるで蛇のようにちろちろと、ぬめる液に艶光る尖り先を刺激する。

「は…っ…んん、あっ…」

自然と捩れる腰を掴み取られ、会陰に広がる愛液を余すことなく掬い取られた。
源泉と思しき開口部に辿りつくと、若干硬さを帯びた舌先で侵入する。
いつしか恥も忘れて開脚し、とめどない快感の波に呑まれていった。

痺れに疲れた脚をだらりと放り投げて、恍惚の瞳で見るともなしに厚い胸板を見る。
じわりと浮かんだ汗の玉が、すっと落ちていく様を追いかけ、ゆっくりと視線を戻した。
半分開いた口に、何とはなしにかざしてあった左手を掬い取られて、甲や手のひらに唇を宛てられた。

「…なぁ」

問いかけに、首を傾げて返答する。

「今日は誰もおらんのだけん」
「…?」
「声は我慢せんでもええだろ?」

言ってから優しく降り注いでくる口づけに、今さらながらぽっと顔が火照った。
重ねあう唇の隙間から、呻くように自然と声が洩れる。
最中、茂の右腕が布美枝の左脚を抱えて、ゆるりとその硬度した陰茎を宛がった。
湿地の沼に入り込むように、その場所でしか発せないような卑猥なぬめり音と共に、
のそりのそりと、熱の塊に胎を犯されていく。

「…っ!は、ああっ!」

気怠だるく侍らせていた腰が思わず浮き上がると、計らずも侵入に加速度がついた。
一瞬、茂の呻きが響いた。

「あ…あ…」

茂の背中に腕を廻し、離れまいとする意思を全身で示す。
腰を押し引きする動きに合わせて、擦られ、逆上せていく陰部の快感にぎゅっと目を閉じた。

「しげ…ぇさ…しげ…さぁ…んっ…!」
「ああ」

少し髭のあたる頬に唇を摺り寄せ、喘ぎと共に何度も何度も名を呼んだ。

「…えぇ、な…」

不敵な笑みを浮かべながら、茂は応えるように口づけをくれる。

「お前の声に…呼ばれると…」
「は…ぁっ…」
「やみつきになる…っ…」

速度を上げる腰使いに、たまらず背に爪を立てた。
動きに合わせて軋む床、淫靡な液が混ざり合い、粘つく音、
ときたま弾くようにぶつかる肌と肌の響。啄ばむ唇。絡む舌。零れる汗と涙。

「あ、ああああっ!しげぇさぁんっ…!!」

咆哮にも近い声で、布美枝は己を失っていった。
きゅっと締め上げる膣襞の絞りに、やがて爆ぜる白濁の性。
茂は目を閉じてその快感に入り浸り、労わる気も遣えずに、力任せに布美枝を抱きしめた。

※ ※ ※

「実になっとるかな」

さわさわと、布美枝の腹を撫でる茂を見ていると、微笑ましくて妙に可笑しかった。

(この人、子どもみたいだわ)

もう40代も終わりに近い布美枝だったが、もし、もしこの実が結ばれたなら、
きっとなんとしてでも守り抜こうと心に誓った。

「けど」

ふうとため息をついて、ごろりと仰向けになった茂は

「下ができようができまいが、藍子の生真面目さに輪がかかっても、喜子はあのまんまのような気がするな」
「…ぷっ…そげですね」

ふたりはくすくすと笑った。

そう言われて、ふと娘たちの顔が思い浮かんだ。
明日、帰ったときのことを考えると少し憂鬱だ。
特に喜子になど、根掘り葉掘り訊きだされるのではないかとドキドキする。
逆に藍子などは何も訊いてこなさそうで、全てを悟っている風があってそれも恐ろしい。

「どげした?」

布美枝が顔を赤くしたり青くしたりしているものだから、怪訝そうな表情で茂が窺ってきた。
両親の朝帰りをどう思うか、娘たちのことが不安だと告げると、茂は屈託なく笑った。

「気にするな。親が仲良くて何が悪い」
「おとうちゃんには思春期の娘を持っとる自覚がないっ」

よく考えれば、心配の種は娘たちだけに限らない。
アシスタントや光男、茂の両親には何と言い訳を?
ため息をついて茂を見やると、呆れることにもうすやすやと眠っている。

「もうっ!」

子どものように口をぽっかり開けて、子どもたち以上に子どもっぽいこの男に、
それでも愛おしさしかこみあげてこない自分自身を思い、
布美枝は可笑しくなって、独りいつまでも笑っていた。

※ ※ ※

玄関の扉を開けると、思いきり作り笑顔の藍子と喜子が出迎えた。

「おかえりなさい…」

肩をすくめ、様子を窺うように上目遣いで両親を迎える藍子。

「おじいちゃんたちには上手いこと言ってあるからね!」

笑顔を引きつらせながらも、無理矢理に声を張る喜子。

茂はふたりをしばし観察したあとで、

―――――ごんっ!

それぞれにゲンコツを落とした。布美枝は顔をしかめる。

「いったぁ…」
「おとうちゃぁん…」
「覚悟しとけと言っといたはずだぞ。つまらん嘘をついておかあちゃんを泣かせた罰だ」

思わず布美枝ははっと顔を上げた。茂の広い背中がそこにはあった。
ふたりの娘はしゅんとして、「ごめんなさい」と呟いている。

「喧嘩の仲裁料分は割り引いてやっとる。さて、俺は仕事だ」

三人を残して、茂は行ってしまった。
頭を押さえるふたりを交互に見やって、やがて布美枝は笑った。
それにつられて、ふたりもようやく緊張を解き、自然の笑みを零した。

「ねえ、今度は4人で行こうね。山小屋。久しぶりに、ね」

布美枝の優しい声に、ふたりは笑って頷いた。

「埴生の宿」を口ずさみながら部屋へ向かう布美枝を見て、
藍子と喜子はほっと息を吐いて、苦笑いしながら顔を見合わせた。

「お姉ちゃん」
「ん?」
「おかあちゃんて、本当におとうちゃんのこと好きだよね」

茂と朝帰り、優しい笑顔、十八番の鼻歌。
感情表現が分かりやすい母を見ていると、
思春期の娘は「運命の人」という名の淡い妄想に胸躍らせてしまうものだ。
しかし冷静な姉は、ふむと腕組み考えて諭すように言った。

「逆よ」
「え?」
「おとうちゃんが、おかあちゃんのこと、大好きなの」

仕事部屋の方から、ひときわ大きいクシャミが聞こえてきた。






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